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三十オーバーの未亡人が、公爵家を遺すためにとった、たったひとつの冴えたやりかた

作者: 大濠泉

◆1


 私はマーサ、十三歳。

 現在、ファイス公爵家にお仕えする、唯一の侍女です。


 私は先月まで孤児院で生活していました。

 十五歳の成人式前に何処かに引き取られないと、裸同然で孤児院から追い出され、悪くすると奴隷に売られてもおかしくない、厳しい状況でした。

 神様はどんな状況にあっても、信じる者を優しく導いてくださると孤児院で習いましたが、とても信じられません。

「嘘つき!」と内心、毒()く思いでした。


 そんな危ないところを、私はファイス公爵家のミランダ様に拾ってもらったのです。


 ミランダ・ファイス様は、銀色の髪が日差しを反射して輝き、青い瞳もキラキラと瞬いて、全身が宝石のように美しいお方でした。

 しかも、青みがかった透き通るような白い肌が(はかな)げで、まるで幻影のように見えます。

 いかにも高貴な雰囲気が、全身から漂っていました。

 私のように亜麻色の髪、褐色の瞳、うっすらと赤みがかった肌をしているような、普通の容姿とは違います。


 そのように、見るからに高貴なご婦人が、健康だけが取り柄で、すぐにも奴隷に売り飛ばされそうな私を救い出してくださったのです。

 しかも驚いたことに、孤児の私を公爵家の侍女にしていただきました。

 普通なら、あり得ないことです。

 平民ーーしかも身寄りのない孤児なのに、下女ではなく、侍女にしていただいたのですから。

 公爵家にお仕えする侍女と言えば、普通は伯爵、子爵、男爵といった貴族家の次女や三女が担うほど、高い身分です。


 私、マーサはお屋敷の応接間で、侍女服をまとった姿でモジモジしながら言いました。


「あの……奥様。

 ほんとうに、私なんかをお付きの侍女にして、よろしいんですか。

 私は平民ですから、貴族家の作法とか、まるでわからないんですが……」


 私の雇い主であるミランダ様はゆっくり紅茶を口にしながら笑みを浮かべます。

 孤児院に勤める大人からは受けたことのない、柔らかな微笑みでした。


「ええ。

 貴女がおられた孤児院は、我がファイス公爵家が後援しておりましてね。

 院長が貴女のことを、誠実で、誰よりも口が堅いとおっしゃっていたわ。

 それがなにより、私が侍女に求める資質なの」


 先代の旦那様マモー・ファイス公爵が亡くなられて五年ーー。

 現在、三十五歳のミランダ様は、ファイス公爵家の家督を継いでいらっしゃいます。


 それでも、ミランダ様を「奥様」とお呼びするのは、ご本人がそのように呼ぶよう指示なされたからでもあるし、老執事のダイム様や、お医者様のレナック様など、長年、ファイス公爵家にお仕えしている方々が揃ってミランダ様を「奥様」と呼称しておられるので「奥様」呼びが自然なかんじになっていたからです。


 でも、なにより、ミランダ様の他に、「旦那様」と呼ばれる存在が、このファイス公爵家にはおられるからでもありました。

 二年前から、ミランダ様が、お婿さんを家に招き入れていたのです。


 でも、このお婿さんである「旦那様」が問題でした。

「奥様」であるミランダ様の頭痛の種なのです。

 この一ヶ月というもの、「旦那様」の振る舞いに悩まされてばかりでした。


 私は慌てて飲み水を杯に入れ、頭痛薬とともにミランダの奥様にお渡しします。


「奥様、顔色がよろしくありません。

 お加減が悪そうですが……」


「気にしなくてもいいわ。

 医師のレナックもおりますから」


 ファイス公爵家は代々、病弱な者が多いので、豊富な種類の薬が常備されていて、公爵家お抱えの医師までがいるほどでした。


 ただでさえ奥様は身体がお弱い。

 でも、いくらお薬を服用しても、栄養価の高いスープを沢山お飲みになっても、奥様が心の底から快活になることはないでしょう。


 私が孤児院からどうして引き取られたか、このお屋敷で住み込みで働くようになってすぐに、その理由がわかりました。

 ほんとうに文字通り、「誠実で、誰よりも口が堅い」という私の性格を、ミランダ奥様が尊ばれたゆえなのです。


 現在のファイス公爵家の「旦那様」は、ひどく横暴で、とても外聞が悪い男性でした。


「旦那様」が、このお屋敷に婿入りなさる前の呼称は「バドル族のカール」だったそうです。

 辺境一帯を牛耳る、「蛮族」と称されるバドル族族長の六番目の息子なんだそうです。

 奥様よりも十歳下の二十五歳で、外国人なこともあり、婿入りしただけで、ファイス公爵家の家督者ではありません。

 正式に家督を継いでおられるのはミランダ奥様です。

 ですので、本来ならミランダ様こそが「旦那様」と呼ばれるべきなのです。

 とはいえ、通常の家は男性が家督者ですから、対外的には、彼、「バドル族のカール」がカール・ファイス公爵と名乗っていました。


 それでも、「旦那様」であるカール様は、たしかに高貴な出自といえます。

「蛮族」と称されてはいても、強大な部族の族長子息なのですから。

 金色に輝く髪と、碧色の瞳、筋肉質な身体付きーーたしかに美しい野獣を思わせる容姿ではあります。

 ですが、性格に難がありました。我儘に過ぎるのです。

 本人が持つ長所といえば、やたらと健康で、活気に満ち溢れていること、丈夫で頑強な体躯の持ち主であることぐらいでした。


 カール様はマナーが悪く、始終、粗野な振る舞いをなさっています。

 食事もがっついて食べます。

 クチャクチャといった咀嚼音がうるさくて耳障りです。

 機嫌が悪いと、食器をぶん投げます。

 私のみならず、老執事のダイム様、さらにはミランダ奥様にすら、平気で手をあげるのです。

 さらに悪癖と浪費が止まず、夜な夜な夜の店に遊びに出かけていました。

 博打を打ってはスってくるのです。

 飲む打つ買うの三拍子が揃った放蕩者でした。


 たしかに、ミランダ奥様は美しいお方ですが、三十オーバーの年齢で病弱の身です。

 十歳も若い男性を旦那様に据えるのに、引け目があるのかもしれません。

 それでも子供を産んで、跡継ぎを得ることを欲しておられるのです。


 執事のダイム様によると、先代の旦那様とは親戚同士の結婚だったそうです。

 二度もお子様を身ごもりましたが、一人は幼くして病死し、もう一人は流産してしまわれたとのこと。

 それ以前から、ファイス公爵家は、長年に渡って度重なる同族結婚を繰り返して血が濃くなってしまった結果、脆弱な家系になって、跡が途絶えようとしているのだそうです。


 ですから、なんとか先祖から伝承してきた名誉ある公爵家をーー今は亡き先代の旦那様との想い出が染み込む、このファイス公爵家を残さんとして、ミランダ奥様は英断を下しました。

 同族の血ばかりで脆弱になった血統を解消するために、壮健な体躯をした、活きが良い男性を選び、「蛮族」と蔑称されるほど縁遠くなっている、この国とのしがらみが薄い外国人を家に招き入れ、婿にしたのです。

 

 それが、ミランダ奥様より十歳は若い、カールの「旦那様」でした。

「蛮族」と称される外国人ではありますが、バドル族族長の息子の一人です。

 しかも、酔いが回るとすぐに「我が誇り高きバドル族」と称して実家褒めを始めます。

 少しもファイス公爵家に馴染もうとなさいません。

 そのせいか、二年経っても子供ができていません。

 私には、ほんとうに奥様はこの旦那様と寝所を共にしたことがあるのか、と疑わしく思われるほど、仲が悪いようでした。


 とにかく、カールの旦那様が、ミランダ奥様に辛く当たる場面しか目にしたことがないのです。


 それでも、形ばかりとはいえ、さすがは夫婦と言うべきでしょうか。

 旦那様が今のように横暴になったのにも原因があったのだと、すぐにわかりました。

 とにかく、奥様が、旦那様を甘やかし過ぎるのです。

 我が身に暴力を振るわれないための配慮かもしれませんが、奥様が言いなりになりすぎるから、都合の良い女扱いになってしまい、旦那様がつけ上がったようでした。



 つい先だっての夜には、こんなことがありました。


 執事のダイム様が「今晩のお食事はいかがなさいますか」と問うと、カールの旦那様は面倒くさそうに手を振ります。


「外で酒を飲んでくるから、いらねえよ!」


 そのまま玄関から出て行こうとするのを、奥様が呼び止めました。


「お待ちになって」


「ああ? なんだよ。文句あるのか?」


「いえ。

 ファイス公爵家の旦那様とあろうお方を、手ぶらで外出させるわけにも参りません。

 これで外で遊んでいらして」


 ミランダ様は手持ちの袋から金貨を取り出し、カール様に何枚も渡します。

 それでも、カール様は不満を鳴らしました。


「これじゃあ足りないだろ!?

 あと五枚は寄越せ!」


 奥様の手元から、金貨が詰まった袋を強引に奪い取ったのです。

 旦那様は袋の中を覗いて、ご機嫌な声をあげました。


「なんだ。あるじゃねえか。じゃあな!」


 バタン! と乱暴に扉が閉められます。

 大きな音にビックリして、私などは、思わず跳ね上がってしまうほどでした。

 それなのに、奥様はうっすらとした笑みを湛えているばかりなのです。



 おかげで、カールの旦那様は、連日連夜、街のゴロツキどもを集めてはお金をばら撒いて大酒を飲み、怪気炎をあげているのでした。

 朝帰りしてきた際には、ゴロツキを伴って来ることなど、しょっちゅうでした。


 老執事のダラム様は眉を(しか)めつつも、淡々と「お客様」に対処して寝床を用意します。


 ゴロツキたちはキョロキョロしながら、お屋敷内部の装飾品に目を遣っては、


「こりゃ凄い。

 こんな屋敷住まいだったら、そりゃあ、金払いが良いはずだ」


「へえ。カールはマジでお貴族サマだったんだな」


 と感嘆の声をあげます。


 けど、カールの旦那様は、老執事に対して暴言を吐きます。


「ご丁寧なこったな、公爵家にお仕えする執事サマってのは!」


 白髪のダラム様は、細い身体付きながら、いつもピシッと背筋を伸ばしていて、所作もキビキビしていて隙がない。いかにも老練な執事といった感じです。

 そのときも、誰からも非難されるような振る舞いはしておりません。

 それなのにカール様は金髪を震わせて怒鳴るのです。

 どうやら、ゴロツキたちに向けて、カッコつけてるつもりらしい。

 首をすくめるようにして縮こまる老執事を見ながら、酒をグビグビ飲んでは嘲笑うーーそんな旦那様を、ゴロツキどもが賞賛するのです。

 場末の酒場で展開するような、嫌な光景でした。


 さすがに「奥様」が扇子を広げて、お顔をお隠しになりました。


「旦那様。

 侍女とはいえ、今は年端もいかないマーサもいるのですよ。

 ご自重なさってください」


 ほんとうの公爵家当主から苦言を呈されて、「旦那様」はとても機嫌を損ねたようでした。


「ああん、なにがご自重だ!」


 席を立ち、奥様に向けて、杯に満たしたお酒をぶっかけたのです。


「おまえ、俺が『蛮族』出身だと思って、馬鹿にしてるだろ!?

 でもな、我が誇り高きバドル族を馬鹿にしているのは、この国のお貴族様のみだ。

 他の諸国ーーいや、この国の民衆も、俺たち部族の強さを讃えているんだ!」


 実際、「旦那様」と同族の「蛮族」は、我が国では、労働力として重宝されています。

 出稼ぎに来た蛮族が、夜の街には大勢いて、お酒を飲んだり、女を買ったりしているといいます。


 奥様は丁寧な口調で、カール様を(たしな)めます。


「そのようなことは当然、承知しております。

 ですから、私が申し上げておりますのは、旦那様の『誇り高きバルト族』についてではございません。

 旦那様の出自ではなく、普段のお振る舞いについて注意させていただいているのです。

 げんに、旦那様のお父様であるバス族長様は、それはそれは丁寧な物腰で、私に対してもーー」


「うるさい!

 あのクソ親父は、俺をおまえのような年増女の許に厄介払いしやがったんだ!」


 今度は、暴力を振るいます。

 バシン! バシン!

 と、奥様の頬を打つ音が室内に響き渡りました。

 ゴロツキどもまでが慌てて止めに入るほどでした。


 それでも、奥様は旦那様に対して、抵抗しません。

 扇子が飛ばされ、頬が赤く腫れあがっても、唇を噛み締めるのみです。

 執事のダラム様までもが、白髪の頭を下げた姿勢のまま、動きません。

 侍女である私も「旦那様」には逆らえる立場ではなく、目に涙を溜めるだけでした。

 内心では、苛立ちがおさまりません。


 ゴロツキどもですら当惑し、侍女の私からも怒りの視線をぶつけられます。

 それでも、カール様は意に介する様子はございませんでした。

 ひたすらミランダ奥様を睨みつけつつ、チッと舌打ちをします。


「ったく、相変わらず、取り澄ました顔しやがって。

 年寄りの執事といい、おまえといい、いったいなにを考えてやがるんだ?

 ほんと、苛立つ。

 でもーーそれも、いつまで保つかな?

 今度こそ、その澄まし顔を崩してやる。

 今に見てろよ!」



 そんなことがあってから、三日後の夕方ーー。


「旦那様」は、今度は若い女性を、お屋敷に連れてきたのでした。


 その女性は、赤い髪に黒い瞳を持ち、肉付きの良い容姿をしていました。

 歩くだけで、豊満な乳房が揺れ、お尻が左右に振れています。

 まさにミランダ様とは正反対の、性的アピールの強い女性でした。

 厚化粧で、胸元が開かれた衣装をまとっています。

 金銀の装飾品が、身体のあちらこちらに取り付けられていました。

 夜の街で立っている、娼婦のような出立ちをしています。


 そんな娼婦もどきの女性を胸元に抱き寄せながら、カールの旦那様は宣言しました。

 

「子供ができないのは、ミランダ、おまえが悪い。

 もう年増だから、子宮が腐ってるんだ。

 それでも、おまえにとっては、このファイスのお家が取り潰しにならないために、跡継ぎを生まなければダメなんだろう?

 だったら、俺様に感謝しろよ。

 今日からこの女と子作りするから、邪魔するんじゃねえぞ!」


 ミランダの奥様は、あまりの仕打ちに、声も出ない様子でした。

 扇子を広げて口許をお隠しになったまま、全身を硬直させておいででした。


 その一方で、旦那様は階段の方へ手を振りを向け、私に対して、大声をあげます。


「おい、マーサ!

 俺の寝室にもう一台、ベッドを運び込め。

 もちろん、ミランダのベッドじゃねえぞ。

 新品のベッドだ。

 この屋敷にないんだったら、執事のジジイに買うように言っておけ!」


 さすがに、我慢の限界です。

 私は思わず拳を握りしめて、叫びました。


「そんな!

 旦那様は、その連れ込んできた女と、本気でお子さんをつくるおつもりですか!?」


 しかし、旦那様は、年端もいかない侍女の声になど、耳を貸す様子はありません。

 奥様のミランダ様を睨みつけつつ、吐き捨てます。


「ふん! 俺がどの女を(はら)ませようと、俺の勝手だ」


 そう(うそぶ)いて、娼婦のような女性を胸元に抱き寄せます。

 女も女で、そんな旦那様に呼ばれてやって来るだけはあります。

 カールの旦那様の腰にみずから手を絡めつつ、妖艶に微笑みました。


「そういうわけですので、侍女さんも、奥様も、よろしく。

 私、名前はニナっていうの。

 覚えておいてね」


 女は勝ち誇ったように、豊かな乳房を揺らせます。


 そのまま娼婦のごとき女性を抱きかかえながら、旦那様は二階へとあがっていきます。

「奥様」の目の前で、堂々と、娼婦モドキを自分の寝室に連れ込もうというのです。

 まったく、度し難いオトコでした。



 私は腹が立って仕方がありませんでした。

 まったく旦那様の夜遊びを止めない奥様に対して、思わず声をあげてしまいました。


「あんまりです!

 どうして奥様は辛抱なさるのです!?」


 ファイス公爵家の家督者は、ミランダ奥様に間違いありません。

 ならば、あんなニセモノの「旦那様」なんか、追い出すことができるはずです。

 ところが、ミランダの奥様は、ふぅ、と溜息をおつきになるばかり。


「貴族の世界には、いろいろあるのよ。

 いろいろとね。

 だから、仕方ないのよ」



 その翌日からです。

 私の仕事が一気に増えたのは。

 ほんとうに、カール様が招き入れた愛人ニナが、お屋敷に居着いてしまったのです。


 侍女は私一人でしたから、当然、すべての部屋を掃除します。

 カールの旦那様の部屋は酷く散らかるようになりました。

 激しい情事をした後に、ベッドメイキングをするのは、あまり気持ちの良いことではありません。

 枕には女の長い髪の毛がたくさん付いています。

 脱ぎ捨てられた下着や、口紅のついたシーツを剥がさなければなりません。

 それらを毎日、洗濯したり、きれいに整えたりするわけです。

 どうしても拭い難い嫌悪感がありました。


 でも、そうした侍女としての日常業務に関しては、淡々とこなすことはできます。

 もとより孤児という日陰者だったからでしょうか。

 私、マーサは陰働きをしていると心が落ち着くんです。

 

 ですから、ほんとうに困るのは、横柄な者から目を付けられてしまうことでした。


 カールの旦那様は、私に対しても、いやらしい目つきで見てきたのです。

 私の両肩をガシッと掴んで、ニチャッと口元を歪めました。

 舌舐めずりする音が聞こえてくるほどの至近距離から言われました。


「マーサ。おまえ、あと五年もしたら、良い女になるぞ。

 俺がそのうち抱いてやるから」


 そのまま唇を押し付けてきて、頬にキスをしたりします。

 ほんとうに汚らわしい。

 涙が溢れてきました。


 正直言って、奥様には孤児院から救い出していただき感謝しておりますし、人としても好感を持っています。

 執事のダラム様も、お優しいと思います。

 でも、このカールの旦那様は、横柄で強引で我儘で、私は大嫌いでした。

 カール様に(もてあそ)ばれるくらいなら、(アテ)がなくとも、この家から出て行きたくなるほどです。


 自室に戻ると、私はさめざめと泣きました。


 やがて、奥様のミランダ様が、私の部屋へとやって来ました。


「ごめんなさいね。

 貴女には苦労をかけるわ」


 私のベッドに腰掛け、私の頭を撫でてくれます。


「私は良いんです。

 でも、奥様が可哀想すぎます」


 口が堅い私でも、外に向かって、この酷い内情を暴露したくなるほどです。

 でも、奥様に強く止められました。

 カール様の悪評はすでに(ちまた)に流れているので、今更私が暴露したところで、その主人の横暴を止められない、というのです。

 さらに言えば、奥様や執事ダラム、そして侍女である私が非難されるだけだ、と。


 奥様は憂いに沈んだように眉根を下げながら言いました。


「でも、そうねーーたしかに、このままでは、貴女の教育に良くないわ。

 マーサ。貴女、明日から学校に通いなさいな。

 お行儀を学ぶ学校ですから、もし私の家から出て行くにしても、貴女にとって有益なはずですわ。

 そして、その学校の宿舎で寝泊まりするのです。

 学費はもちろん、私が出しますから」


 奥様は私に対して、王都にある侍女向けの学校に入学せよ、と言うのです。

 入学は随時受け付けているそうで、炊事洗濯の仕方から、料理の作り方、さらには貴族の礼儀作法までを学習できるそうです。

 でも、二年も教育課程があります。


 私は思わず声を荒らげました。


「二年も!?

 その間、私がいなくても、大丈夫なんですか!?」


「気にしなくて良いわ。執事のダラムもいるし。

 貴女は私に気兼ねなく、立派な侍女になって帰ってきて」


 ミランダの奥様は微笑みます。

 なんて優しいお方なんでしょう。

 孤児の私に、ここまで良くしてくださって。

 私は決心しました。


(なんでも出来る女性になって、旦那様の横暴から奥様をお救けできるようになってやる!)


 私は奥様を強くハグしました。


◆2


 二年後の、ある昼下がりーー。


 ファイス公爵邸において、私、ミランダ公爵はお茶を(たしな)んでいた。

 私の背後に立つ執事に問いかける。


「マーサは今年で教育課程が終了するわね。

 あの子は良い子に育っているでしょうか」


 老執事ダラムが(うやうや)しくお辞儀をする。


「はい、奥様。

 教官によりますれば、筋が良い、とのこと」


 彼は侍女マーサが通う学校の卒業生でもあり、彼の後輩が校長をしている。

 それゆえ、細かく情報をあげてもらっていた。

 彼は私に身を寄せ、耳打ちする。


「それに、例の案件が滞りなく進んでいるようで、そろそろ動きがあるかと。

 医師のレナックからも、すでにとりあげた、との報せが……」


「それは、おめでたいわね」


 案の定、玄関の方から、ドタドタとした大きな足音と、


「おい、早く来い。

 これで俺たちの生活は安泰だ」


「ええ、そうね。

 これで、私が奥様になれるのね!」


 といった、騒がしい声してきた。


 バン! と、荒々しくドアを開ける音がする。


「今、帰ったぞ!

 迎えはどうした!?」


「旦那様」ことカールと愛人ニナが、このファイス公爵邸に連れ立って帰ってきたのだ。

 今日は、医師のレナックも同行していて、彼らの後ろからちょこんと顔を出していた。


 すでに席を立っていた老執事とともに、私、ミランダも玄関先に顔を出す。

 すると、カールは私に目を止めると、得意げに顎を突き出した。

 そんな彼の大きな身体の後ろから、愛人ニナが足を踏み出す。

 彼女は白いおくるみを大事そうに抱かえていた。


 おぎゃあ、おぎゃああ!


 甲高い泣き声がする。

 元気な泣き声だ。

 おくるみの中には、生まれて間もない赤ん坊が入っていた。


 カールは腕を組み、胸を張る。


「子供ができたぞ!

 しかも男の子だ。

 どうだ!

 やはり、おまえの腹に問題があったのだ」


「そうですか……」


 私、ミランダは内心で思う。

 私とその若い愛人とでは、カールとベッドを共にした絶対数が違いすぎないか、と。

 でも、まあ、そんなことはどうでも良い。

 ああ、それにしてもーー凄いものね。

 あの愛人さんの勝ち誇った顔といったら!


「さあ、奥様。約束ですよ。

 報酬はキッチリと払ってもらえますわよね?」


 ニナとかいう愛人さんは、手を広げて、私の方へと差し出してくる。

 金貨を今すぐ寄越せ、ということらしい。

 平民というのは、随分と厚かましいもののようだ。


 やがて、愛人の態度に触発されたように、カールも大きくうなずく。


「そうだ、そうだ。

 この子は、おまえが産んだことにすれば、良い」


 彼、カールは、愛人から、おくるみごと赤ん坊を奪うようにして、取り上げる。

 そして、老執事に赤ん坊を明け渡した。

 それを確認して、今度は私、ミランダが顎を引く。


「委細、承知しております。

 大金をお渡しする約束ーー当然、覚えておりますよ。

 でも、その前に、ぜひやっておきたい手続きがございます。

 レナック、例のものを」


 私は少し身を逸らして、医師レナックに向けて頭を下げる。

 彼はこれまでニナに同行していたが、今では私の傍らに立っていた。

 眼鏡を掛けて、いつも白衣をまとっている。

 ここしばらくは私の許から離れていたが、普段は私の傍らにいるお抱え医師なので、その姿を見るだけで安心する。

 

 私の求めに応じて、医師レナックは鞄から一枚の書類を取り出した。

 母子証明書だ。

 この書類には、すでに父親であるカール、そして立会人となったレナックの署名がなされている。

 この赤ん坊をとりあげたのが、彼、レナックだからだ。

 あとは母親の名前を書くだけであった。


 私、ミランダはニナの方に向けて少しお辞儀をしてから、羽ペンを手にする。

 そして、「母親」の項目に「ミランダ・ファイス公爵」、「子供」の項目に「アトラス」と署名し、紋章印を押した。


「我がファイス公爵家の跡取りの名前は『アトラス』としました。

 かつて流れてしまった私の子供に付けるはずであった名前です」


 そう言って、私は医師レナックに、母子証明書を提出した。

 レナックは眼鏡を光らせて署名確認をすると、書類を鞄に仕舞い、改めて宣言した。


「これで、この男の子は、正式にミランダ・ファイス公爵のお子様、アトラス様と決定いたしました」


 カールは腕を組んだままニヤニヤと笑う。

 そして、改めて私、ミランダを見下ろしながら軽口を叩いた。


「たしかに、お抱えの医師がそう言うんじゃ、誰もが信じるわな。

 この赤ん坊が、俺とおまえとの間に出来たお子様だ、と。

 でも、もし、この場に、あの侍女のマーサがいたら、どう言うかな?

 子供を売り払う俺やニナを(なじ)るのか。

 それとも、お金で後継者を買おうとする奥様(アンタ)を軽蔑するのか」


 私は羽ペンをペン立てに挿しつつ、安堵の溜息を漏らした。


「さあ?

 幸い、今、あの子はいませんわ。

 そして、この子は私の子、アトラス・ファイスになった。

 これで、お家存続が叶ったわ」


 ホッとしていたのは、私だけではなかった。

 カールとニナの二人も肩の荷をようやく下ろしたとばかりに、ソファに身を沈める。

 老執事ダラムだけがテキパキと動き、カールとニナの目前にあるソファテーブルに配された杯に、葡萄酒がたっぷりと注がれていく。


「乾杯しましょう」


 私、ミランダが杯かかげると、「旦那様」とその愛人も杯に手を伸ばす。

 そして、一気に葡萄酒を飲み干した。


 するとーー。


「ぐっ……!?」


 呻き声をあげて、「旦那様」こと、カールがソファからずり落ちて、うずくまる。

 身体が痺れて、動けなくなったようだ。


 隣で杯をあけた愛人ニナは、もっと酷いありさまとなっていた。

 彼女はソファに横たわり、そのまま口から泡を吹き始める。

 全身を小刻みに痙攣させ、両手で喉を掻きむしった状態で息絶えたのだ。

 断末魔の苦しみに喘ぎ、顔は醜く歪んでいた。


 だが、カールは全身を震わせながらも、まだ頑張る。

 四つん這いになって床を這い、私がいる方へと迫ってくる。


「あらあら。さすがに頑強ね。

 致死量の毒薬が入っていたはずなのに」


「こ、この、くそババア……おい、医者。

 薬を……」


 私が腰掛けるソファの後ろには、老執事ダラムと医師レナックが立っている。

 彼らは二人して私のソファを回り込んで、カールの目前で座り込む。

 そして、まずはレナックが、今や腹這いになったカールに、上から目線で語りかけた。


「さすがに頑強な蛮族の体力は凄いですね。

 これほどの神経毒を飲み干しても、まだ動けるとは。

 でも、ご安心を。

 すぐにでも、愛人さんのように、楽になれますよ。

 ちなみに言っておきますが、私には、貴方に対する怨みはまったくございません。

 でも、仕方ないんです。

 私は代々、ファイス公爵家のお抱え医師を務めてきた家の出身でしてね。

 先代のファイス公爵ーー旦那様から、頼まれていたのです。

『なんとしてもミランダと、このファイス公爵家を守ってくれ』と。

 でもね、正直、私は頭を抱えましたよ。

 ただでさえ、ファイス一族の方々は皆、病弱なのに、女性であるミランダ様はお子様を産まなければならない。

 もし仮にお子様を産んだとしても、母体に危険が及ぶほどの脆弱さなのに。

 実際、産んだら、すぐにも死んでしまうかもしれない。

 ほんとうに、ミランダ様にとって、出産は生命を危険に晒す行為なんです。

 ですから、無理にお子様を産もうとなさることは、『ミランダ様をお守りせよ』という先代の遺志に背くことになりかねません」


「い、いいから、薬を……」


 と、(あえ)ぎつつ、カールが手を伸ばす。

 だが、これをレナックは、パシン! とうるさそうに片手で払い除ける。


 眼鏡の医師と白髪の老執事が、二人揃って、床をうごめく若い男をジッと見詰める。

 だが、なにもしない。

 ただ、見ているだけだ。


 ここで、老執事が、話を引き継ぐ。


「そうそう。

 私も先代様から奥様と公爵家の未来を託されましてねえ。

 ほんとうに悩みましたよ。

 もし、お子様が生まれたとしても、奥様がお亡くなりになってしまわれると家督者を失い、ファイス公爵家が失われます。

 言葉も発せられない幼児が残されましても、後継にはできません。

 だからといって、縁戚にファイス公爵家を乗っ取られるのも癪ですからね。

 第一、私や、レナックが今まで通り、雇ってもらえるかわからない。

 だから、奥様の指示に従ったのです。

 ひとえにお家がお取り潰しにならないためです」


「奥様」である私、ミランダは、赤ん坊を胸に抱えたまま、ソファで脚を組み直す。

 そして、無様に床にひれ伏す「旦那様」に向かって、冷然と言い放った。


「そう。貴方を毒殺することは、初めからの計画通りなの。

 ただ後継者が欲しいというだけだったら、孤児院から健康な男児を貰い受ければ良いだけですけど、それでは駄目なのよ。

 本家の跡継ぎは、『私、ミランダの実子』ということにしないと。

 養子を後継に立てただけでは、血統を理由に、親戚が我が家を乗っ取りにかかってくるでしょうから。

 だから、貴方と結婚して、私が子供を産んだことにしたかったの。

 でも、私が産んでも子供が病弱な可能性が高いし、下手をすれば私自身が生命を落としてしまう。

 だから、一計を案じたのよ。

 貴方が他所の女に産ませた子供を、私の子にして、このファイス公爵家の跡を継がせるのはどうかしら、と。

 これで、ほんとうの意味で血統を継がせることはできなくとも、家名を存続させることはできますからね。


 それだけじゃないわ。

 武勇を誇るバルド族と係累になることで、我がファイス公爵家が、我が国において随一の強大な武力を有することになるし、特に西方辺境における強い発言権を持つことができる。

 実際、貴方のお父様からは、


『もし孫が生まれて当主となった暁には、ファイス公爵家は我が一族の親類も同然、あらゆる協力を惜しまない』


 という確約をいただいているの。

 この特典が美味しいのよ。


 でも、ほんと、いくら結婚したからって、功を焦って、貴方のような成人男性に家督を譲らなくて良かった。

 今の貴方のように、私の統制が効かなくなってはたまらない、とてもファイス公爵家を「遺した」ことにはなりませんものね。

 ですから、心配は要りません。

 しっかり、私がこの子を、我がファイス公爵家の跡取りとして教育してあげますから。

 そのためには、貴方のような、無教養な野蛮人を父親とするわけには参りません。

 貴方では、この子の父親失格なんです。

 だから、いなくなってもらいます。

 それに、貴方にヘタに動き回られて、誰彼なく吹聴されても困るのよね。

 この子が『自分と愛人の子であって、ファイス公爵家の血を引いていない』などと。

 特に、もう直ぐ学校から帰ってくるマーサに、暴露されては困るのですよ。

 マーサには、この子アトラスの面倒を見てもらうつもりなんだから。

 マーサは貴方を毛嫌いしてましたからね。

 貴方と愛人との子だと知ったら、この子を愛してくれないかもしれません」


 ちょっと話が長くなったか。

 もはやカールは床にうつ伏せになったまま、虫の息になっていた。

 やがて、震える両手で、自分の喉を掻きむしり始めた。

 全身から血の気が退き、小刻みに痙攣している。

 こうなると、もう長くはない。


 私は、今際の際のカールに弔辞を述べる気分になっていた。


「ほんと、後のことは心配しないでね。

 貴方と愛人さんの処遇は、すでに決めてありますから。

 特に貴方については、貴方のお父様から直々に申し渡されておりますのよ。

 貴方を貰い受けに行ったとき、貴方のお父様はこのようにおっしゃっていたわ。


『カールのやつは、身体ばかりデカくなりおって、ほんとうに困りものだ。

 思慮の足りないヤツだから、我が一族の後継者争いに参加させたくない。

 幸い、コヤツの生母は亡くなって、外戚との縁が切れておるからな。

 コヤツを我ら一族の許に返さぬと約束してくれれば、いかように処しても構わぬ。

 ただし、コヤツの子供ーー儂の孫は大切にしてくれ。

 父親のごとき失敗作でないなら、儂の可愛い孫として遇することを約束しよう』と。


 貴方、なにかと『我が誇り高きバドル族』と叫んでは、胸を張っておいででしたけど、その『誇り高き一族』の族長から、貴方自身はとうに見捨てられていたのですよ。

 ほんと、滑稽ですこと。

 おほほほ!」


 私、ミランダが扇子で口許を隠しながら笑うも、相手はもはや反応しなかった。

 カールの両目が白く濁っていく。

 (よだれ)を垂らして、すっかり昏倒してしまっていた。

 目には涙が溢れていた。


「で、この二つの死体、いかようになさるおつもり?」


 私は、お抱えの医師に問いかける。

 傍らにあったレナックは、眼鏡を掛け直しつつ言った。


「じつは私、王立医学校にも時折、顔を出しておりまして。

 献体はいつでも足りないそうなんですよ。

 特に若い身体のね。

 だから、このお二方には、医学に貢献してもらいましょう。

 毒が回って昏倒した死体を(さば)くのは、若い者にも良い刺激になりましょう」


 王都の裏町には、多くの蛮族が出稼ぎに来ているから、むしろ蛮族の死体が献体に出されても、誰も不思議に思わないだろう。

 カール様も「行き倒れの蛮族」として処理すれば良い。


 老執事は微笑みながらうなずく。


「それではさっそくバス族長様に、『カール様が失踪した』と報せておきましょう。

 そして、カール様にたかっていたゴロツキどもの処分もお願いしておきます」


 出稼ぎの蛮族の中には、今も本国と連絡を密にしている者もいる。

 しかも、金が稼げるとあらば、我が国の法を犯しても構わない、殺人をも辞さない、という(やから)も沢山いる。

 族長の命令とあらば、動く連中も結構いるだろう。

 伊達に「蛮族」と称されるわけではないのだ。


 私、ミランダは子供を抱きかかえながら立ち上がる。

 そして、我がファイス公爵家の跡取りアトラスの頬に、軽くキスした。


「さあ、これで後始末の算段は立ったわ。

 これからは、私とアトラスの二人で、ファイス公爵家を盛り立てていきましょうね!」


◆3


 私、マーサは、学校の教育課程を修了して、このファイス公爵邸に帰ってきました。


 炊事洗濯を手際よく終える技術や、幼児をあやしたり寝かしつける方法から、貴族家に奉公する際の作法やテーブルマナー、行事儀礼までを修め、私も私なりに成長し、変化してきたつもりでした。

 ところが、ファイス公爵家では、もっと驚くべき変化があったようなのです。


 本音を言えば、このお屋敷に戻るとき、私は緊張していました。

 大恩あるミランダの奥様に報いたいという思いはあるものの、あのカールの旦那様と、愛人ニナと、どうしてもうまくやっていける気がしなかったからです。

 いくら作法や技術を修得しても、嫌いな人の性格を変えることはできません。

 できるだけ嫌な人との接触を避けるよう努めるだけです。

 それでも、あの横柄な男が、私のみならず、奥様に対してまでも、我が物顔で振る舞うのを見ていられません。

 しかも奥様が、あのカールとニナの専横を許し続けるのを見るのは耐え難い苦痛です。

 いくら厳しくても、学校の教育課程の方がよほど心穏やかに対処できました。

 せっかく侍女としての技量を身につけたのですから、ファイス公爵邸にお伺いしてすぐにミランダの奥様に挨拶だけして、お暇を願おうかしら、とすら思い悩むほどでした。


 ところが、驚いたことに、あのカールの旦那様も、愛人ニナもいませんでした。

 奥様に問いただしたところ、あの厄介な者どもはお屋敷から出て行ったといいます。


「二人して、駆け落ちでもしたんでしょう」


 と、ミランダ様は、澄まし顔でおおせになります。


 ずっと居座っているものとばかり思っていましたので、私は胸を撫で下ろしました。


 しかもなんと、彼らがいなくなった代わりに、赤ん坊が残されていたのです!


「アトラスというのよ。よろしくね」


 と奥様は微笑み、私に抱っこさせてくださいました。


 金髪で巻毛、碧色の瞳ーーたしかに、あの「旦那様」の血を色濃く引いているようです。

 ですが、赤ん坊に罪はありません。

 しかも、笑顔がとても可愛いのです。

 きゃっきゃと言っては私に抱きつき、元気いっぱいでした。


 お医者様のレナック様に、この子が誕生した経緯をお尋ねしたら、


「それこそ神秘でした」


 とおっしゃいました。


「あの愛人との間には子が生まれず、たった一晩、寝込みを襲われた奥様が、子を宿したのです!

 お身体が保つかと心配でしたが、奥様から私が直にこの子をとりあげたのですよ」と。


 ほんとうに信じられません。

 今も、奥様は、うっすらと青みがかった血色の悪そうな肌をしていて、始終、お疲れのご様子なのに。

 さすがはお貴族様の女性、というべきでしょうか。

 お家を残すためには、奇蹟も起こすということなのでしょう。



 ちなみに、私がファイス公爵邸に復帰した日の夜、王都の裏町で大規模な火災が発生しました。

 蛮族の盗賊団による火付けだと噂され、王国民のみならず、出稼ぎに来ていた蛮族にも多数の被害者が出ました。

 私は反射的に、


(ひょっとして、カール様が関わっているのではないのかしら。

 だとすると、あらぬ疑いがこのファイス公爵家にかけられるのでは……)


 と、懸念しました。

 実際、カールの旦那様が贔屓にしていた酒場も焼失し、黒焦げになった死体が何体も見つかっているそうです。

 ひょっとして、かつて、このお屋敷に来ていたゴロツキたちも、その死体の中に入っているかもと思うと、ゾッとします。


 ところが、奥様のミランダ様は平然としたご様子で、


「旦那様が我が家にいなくて助かったわ。

 いたら、『これから何処で俺は酒を飲めば良いんだ』と大騒ぎなさっていたでしょうから」


 とお笑いになります。

「たしかに」と、私も思わず笑みを浮かべてしまいました。

 結局、この度の火災騒ぎで、七十余も死者が出たというのに、不謹慎なことでした。


◇◇◇


 そして、五年後ーー。


 私、マーサが学校を修了し、このファイス公爵家で雇い直してもらってから、かなりの年月が流れました。


 あっという間に五年が経過し、そろそろ私も誰かの許に嫁ぐ年齢になっていました。

 もっとも、アトラス坊ちゃんのお世話をこれからも継続することを、私は考えていましたが、奥様のミランダ様が、「それではいけませんよ」と言います。

 そしてなんと、私を正式にファイス公爵家の養女としてくださるというのです。

 平民で、しかも孤児だった私が、思いも寄らぬ出世です。

 さすがに固辞しましたが、


「もうすぐ、アトラスにも手がかからなくなるのだから」


 と、奥様は聞き入れません。

 さすがに養女とはいえ、私が公爵令嬢となるのはどうかと思うのですが、


「貴女が我がファイス公爵家の娘となって他所の貴族家に嫁いでくれましたら、新たな縁戚を得ることになります。

 ファイス一族を、再び盛り立てることができるのですよ」


 とミランダ様は目を輝かせています。

 どうやら、私を養女としたあと、どの貴族家と縁付かせるかと策謀(?)をめぐらせるのが楽しくて仕方ないらしく、ミランダ様は最近になってますます元気におなりのようです。


 ちなみに、赤ん坊だったアトラス坊ちゃんはスクスクと育ち、今でも私に懐いています。

 他の貴族家の坊ちゃんたちとも快活に遊んでいます。


「ああ、喉が渇いた。マーサ、お願い!」


 遊び疲れたようで、アトラス坊ちゃんが、庭先に構える、日傘を取り付けた丸テーブルに辿り着くと、私に向かってちょこんと頭を下げます。

 私が蜜柑ジュースをお出ししますと、両手でコップを持ってチビチビと飲み始めます。

 やがてコップをテーブルに置くと、「そうだ!」と、坊ちゃんは声をあげました。


「僕のウチにはお父様がおられないけど、マーサは知っているの?

 我が家には肖像画もないって言ったら、友達みんながおかしいって言うんだ。

 お父様はどんな人だったの?」


 私は思わず喉が詰まりました。

 さすがに、「愛人と駆け落ちした」とはいえません。


「ーーさあ。

 私はすぐに学校の宿舎に参りましたので、よくは存じ上げておりませんのよ」


 と言葉を濁します。


 そこへ奥様のミランダ様がやって来て、息子の隣の椅子に腰を下ろしました。

 アトラス坊ちゃんは、待ってましたとばかりに、お母様の膝の上に飛び乗ります。

 奥様は坊ちゃんの頭を優しく撫でながら答えました。


「お父様は不慮の出来事で、お亡くなりになったのよ。

 けれども、貴方を遺して、我が家を救っていただいた。

 それだけではなく、お国のためにもお役に立った、立派なお方でしたわ」


 奥様の答えが気に入ったのか、アトラス坊ちゃんはミランダ様に抱きつきます。


「そうなんだ。

 僕のお父様は、素敵な方だったのですね!」


 満足そうな声をあげると、アトラス坊ちゃんは奥様の胸の中でスヤスヤと眠り始めました。彼は赤ん坊の頃から、とても寝付きの良い男の子でした。


「あらあら。困った子ねえ」


 奥様はアトラス坊ちゃんの背中を撫でながら、聖母様のように微笑みを浮かべます。

 美しい笑顔でした。


 私、マーサは、その(うるわ)しい情景を眺めながら思いました。


(たしかに、あんなオトコでもお役に立ったようね。

 だって、奥様があんなにお幸せそうなんだもの。

 そして、もうすぐ私は、あの奥様の娘、アトラス坊ちゃんの姉になるのだわ。

 なんて素晴らしいことなんでしょう。

 まるで奇蹟みたい……)


 ほんとうに、神様はすべての者を用いて、優しく導いてくださるのだわ、と感じ入る毎日となり、私、マーサは幸せでした。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

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