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5:フランスの地方都市観光

この物語はSFカテゴリーにて投稿中の『光と陰-織りなす夢の形-』のプロローグです。主人公”ヒデ”の視点でソフィアとジュリアのBLANC TWINSが描かれている日記をお楽しみください。


 《あらすじ》

1980年代のある夏の暑い日に偶然上野公園で1人の金髪美女に出会う。まるでアニメフィギュアのような容姿のソフィアにノックアウトされてしまった。生まれて初めて情熱を感じるようになった理屈っぽい性格の大学生のヒデ。そして今までろくに1人で国内旅行もしたこともない彼だが、それがきっかけで夢を探すヨーロッパへの一人旅が始まった。ヨーロッパの国々で過ごすとともに異文化や価値観の違い、また真のライフスタイルというものを実感する事になる。しかし、その先には予想もしていなかったことが起こるのであった。さて異文化の果てとは一体どんなことろなのであろうか?


日本での価値観しか知らないヒデは、スイス・フランス・イギリスと放浪しつつその国のカルチャーや価値観の違いを体感し少しずつ異文化を理解し吸収していく。

そしてその異文化の果てには・・・


その先には驚くべきパラレルワールドがあったのだ。ソフィアとジュリアの謎の双子美人姉妹 Blanc Twins との関係が深まり吸い込まれるようにSF体験をしていくのだが…


モラトリアム期間にいる思春期のヒデは『いったい自分の夢のかたちとはなんなのか?』という問いかけに悩みながら自分なりの将来を模索していく。


荒廃したパラレルワールドを舞台に水陸両用の移動ヴィークルであるホバージェットでヒデと一緒に旅をする美人姉妹の妹ジュリア。彼女と一緒に行く先々で戦いに巻き込まれながら“剣姫ジュリア”に惹かれていく。

そして2人はお互い同じ価値観を持っている事に気が付き愛が芽生えていくのだが…

ストラスブールでは『ここは本当はドイツなんだな!でもたまたま国境が歴史的な要因で引かれたのでフランスの一部となってしまったんだな。』と感じた。家々はスイスのドイツ語圏で見たものと同じ中世ドイツ風の木と漆喰の建物であった。


そしてリヨンは素晴らしかった!TGVで移動したのため列車から降りると近代的なデザイン空間の駅が迎えてくれる。駅前もTGVのデザインと同じような近代的な空間になっており日本では見かけない演出である。そして街中にどんどん進んで行くとパリで見たような中世風の街並みに変わって行った。さらに遠くを見渡すと市内を囲む丘の斜面にロマネスク風の大聖堂が市内を見下ろしているのだ。さらに進んでいくと、空間がまばらになり小さめのコロッセオのようなローマ遺跡もあった。現在でも使われているのだろうか? そして引き寄せられるように大聖堂に近づいて行った。ガイドブックで見てみるとロマネスクとビザンチン建築様式が合わさったフルヴィエールノートルダム大聖堂であった。実際には2つの教会から成り立っており1つの教会の上にもう1つの教会がある。 それが原因で不思議でユニークな建築デザインとなっており上側は装飾的であるが下側は簡素なデザインだなのだ。 フルヴィエールは聖母マリアに奉納されているというが、 そもそも1643年のペスト流行からリヨンが救われたことを感謝して小さな教会堂が建てられたことから始まっている。そして普仏戦争では、 教会で聖母マリアに祈りを捧げるとパリを陥落させてリヨンに向かっていたプロイセン軍が撤退していったという逸話もあるとか。確かに遠くからでも存在感があり普通の教会とは違った存在感があった。


ここリヨンは、駅前・旧市街・斜面のローマ時代風と3つの特徴あるエリアが連なったコンパクトな地方都市なのだ。また気候も冷涼なので住むのにも良さそうな気もする。地理的にはスイスからフランスへの窓口にもなるのでなんとなくスイスの雰囲気にも近い。


リヨンでは1泊したが、また来たいと思わせる古都の1つであった。このあと南仏マルセイユまでは足を伸ばしたのではあるが、雨天に阻まれ残り時間も無くなってきたため再びパリに戻ることにした。

今回フランス周辺を旅して分かったことは、地図を見るとついつい国境でカチッと変わる印象があったのだが、当たり前のことだが国境を境にグラデーション的に変化していっているということであった。そう、国境とは歴史上たまたま今そこに存在しているだけなのだ。


そしてパリ・リヨン駅に戻った。すでに夕刻となり、やはりパリもどんよりと曇った空に小雨模様であった。前回のホテルは満室なのを知っていたため、ちょっとお高いが明日イギリスに立つまで寝るだけの空間として便利な駅前の2つ星ホテルに行ってみた。ガラスドアを開けて入りカウンターにおば様がいるので英語で「シングルルーム 一泊したいのですが空いていますか?」と聞いてみたのだが・・・反応がない。僕のすぐ前にそのおば様はいるので聞こえないはずはないのであるが全く反応しないし取り合ってもくれないのだ。再度同じように聞いてみたがやはり反応がない。なるほど『これがフランスってやつなんだな!』とハタと気がついた。事前にフランスの特にパリでは、『フランス人は誇りがあるから英語で話したら無視されるよ』という記事を読んだことがあったが、まさに今がその場面なんだと実感した。前回のホテルチェックインではソフィアに任せてしまったので今日初めてパリの洗礼を受けたのであった。その事実には結構ショックを受けたのであるが、まあ見窄らしい東洋人が雨で濡れてしかも英語で話しかけやがるときちゃ、そういう反応になっても仕方ない気もした。居た堪れなくなりまたガラスドアを開けて通りに出た。


しかし、『じゃ、どこに泊まればいいのかな?』と焦りながらガイドブックで再度安ホテルリストを調べていたところに、大学生風の男性がフランス語で声をかけてきた。英語しか話せないんだと返すと英語で何を探しているの?と聞いてきた。ははーなるほど若いパリジャンは英語で話すのはアリなんだな。やはりパリにおいても世代の違いでこんなにも対応が違うのかと思い、それに甘えてガイドブックに載っている駅前エリアのホテルを指差してみた。彼は住所を見て『来なよ!』というジェスチャーをした。彼に付いて行ってみると少し歩いてお目当てのホテルに到着した。そして僕と一緒に入ってくれて、シングルルーム1泊をフランス語で聞いてくれたのである。シャワーが別料金になっているらしい。雨でズブ濡れで夏ではあるが肌寒さも感じたため、少し高くはつくのだがシャワー込み1泊を前金で支払った。その彼は本当に親切で、フランス語でお礼を言うとぜんぜん気にしなくていいよ! 「ハブアナイスデイ!」と英語で言いながら笑顔で立ち去って行ったのだ。先程のホテルのおば様とは正反対のパリジャンで、困った時の有り難さと人柄の良さに打ちひしがれた気持ちが一気に明るくなった。イギリスへ発つ前にパリにはそういう反面があるんだなと体験できて本当に良かった。


何故なら、そもそもこの放浪の旅の行きたい国No.1はフランスだったのだ。世界史で学んだフランス革命からの民主主義の自由平等な国というイメージの刷り込みがあり、いまだに国王を抱き階級的なものも存在するし人種差別もされそうなイメージの英国よりは、断然フランスだろうと思っていたからだった。そのイメージがみごとに覆された直後にまた修復されたのであった。取り敢えずへまたもや旧式のエレベーターで5階へ上がり部屋を探して入った。駅前の立地なので値段が高めであり部屋も予想以上に小さかった。なんとシングルベッドが部屋の7割ぐらいを占めている。あとはトイレと小さめの洗面台が付いているだけなのだ。もちろんバスはなく共同シャワーが廊下にあるというので部屋を出て探してみると、なんと廊下にいきなりシャワーカーテンがあり、ロックもなくタンクが上にある旧式のタイプであった。そして、なんと安くないシャワー料金を払ったのにもかかわらずお湯が出ない・・・ これはもしかしたらある程度お水を出しているとお湯に変わるのかなと思い出し続けてみたが温かくなるどころか逆にどんどん冷たくなっていったのだった。少しでも温まりたくてシャワーを浴びることにしたのに最悪である。しょうがないので諦めて冷たいシャワーで髪の毛と身体を洗った。後でわかったのだが、こういうシャワーはある時間を超えるとお湯が使えないらしいのだ。だからその時はすでに時間外であったのだった。


『パリ市内の古いホテルはアラブ式のトイレが多いので水を流す時には足元に注意するように!』というのが旅行者に向けた注意事項があり、確かにこのホテルのトイレもアラブ式だった。どんな仕組みかというと真ん中に大きな穴が開いておりその両脇に足を置く盛り上がった場所がある。その部分以外は低くなっているためフラッシュすると水が全面に流れる仕組みなのだ。だから足置き以外の場所に足を置くと見事にずぶ濡れになる仕組みなのだ。ここは、残念ながらパリにありがちな駅に近いだけの管理がずさんで掃除もろくにされていないホテルであった。『まあ寝るだけだ』と言い聞かせても、ベッドの衛生面も気になってきてしまい一応シーツをめくってバグがいないか隅々まで確認した。まあ大丈夫だろうと思い込んで寝ることにしたが、こんな時『疑心暗鬼』というのか1つの不安が全ての不安を呼び起こしてしまうものだ。


明日はパリから電車でカレーに行き、そこからフェリーでドーバーまで渡り英国に入る予定になっている。またドーバーから電車でロンドンに行き、続けてインターシティー125という特急に乗ってノッティンガムシャーまでのとても長い行程になる予定なのだ。ベッドに入るや否やそもそもマルセイユから戻って来ただけで疲れていたため幸いな事にすぐに寝てしまった。


以前国会図書館で下調べした内容であるが、フランスは同じヨーロッパからの移民の他にアルジェリア、モロッコ、チュニジアなどのアラブ諸国からの移民が多いらしく、確かにそれは街を歩いていても実感できるものであった。そもそもフランスの歴史的また戦争の遺恨からもそういう文化が混在する背景はあったのだろうが、スイスと比較するといわゆる白人といわれる人種よりも多く感じる。また華僑のような中国系やアフリカからの移民も多い。視覚的にもフランス文化とアラブ文化が混在している風景にも見えるし、旧植民地からの移民がとても多いのではないか?と体感的にも感じとれた。


これがいわゆる国際都市コスモポリタンというのであろうか? フランスに訪れる前はコスモポリタンと言われる所は、その都市のカラーを示す共通フレームや都市としてのストラクチャーがあり、住民は民族や出身の文化背景があるものの1つの共通カラーで都市を構成し生活を営んでいるというイメージがあった。パリで学んだ事は、そういった見え方の場面はあることはあるのだが、かつての祖国のライフスタイルをほぼそのままパリに持ってきて生活しているように見えた。つまり同じ同胞同志が集まり居住区を形成し、共通語であるフランス語は必要に応じて話すが、家族やコミュニティ単位ではかつての母国語を話すのが一般的であり、祖国のコミュニティをほぼそのままパリに移植しているかのように見えた。これは日本に当てはめると横浜の中華街や新大久保の韓国人街となるのであろう。しかしながらこのパリで感じたことは、そういった移植によりフランスがインベージョンされているのではないか?ということだ。将来そのうち本来のパリジャン達より繁殖力が上回りポピュレーションでも圧倒してしまうのではないのだろうか?


そして、彼らも市民権をもっているのだから、近い将来選挙などの多数決の場では優位に立つことになる。つまりかつて戦争に負けて植民地となり、そこからパリに出稼ぎに来て住み着いたことにより、年月をかけながら逆にじわじわと乗っ取っていくように感じたのだ。日本ではそんな脅威はまだ感じられないが、人種や民族が入り混じるヨーロッパにおいては深く複雑な未来を予感ぜずにはいられなかった。



80年代のリヨン、パリに行った方 コメントお願いしまーす!

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