不幸に満ちた戦場
草原に砲声が轟いた。
まず、前方から、続いて背後の丘の上から。
整列を済ませた兵士たちのうち何人かがちらりと背後の丘を見上げた。丘の上には既に白い煙が漂いはじめていた。ひどく良い天気だったので、青い空に白い煙はかなり目立った。
草原の西端には丘があり、その手前には小さな林が広がっていた。その林の中に整列した五〇〇〇余の兵が布陣していた。
林を少し出たところでは騎乗した数名の将校が始まったばかりの戦況を窺っていた。
「始まったか」
将校の中の一人。旅団を指揮するグレイ将軍が不機嫌そうに呟く。
茶色い馬に跨った将軍は顔の下半分を栗色の髭で覆い、大柄で体つきはがっしりしている。黒い革製のつばの付いた水色のフォレージキャップ(帽子の上面が前に傾斜しているキャップ)を被り、茶色いフロックコートを羽織って、紺色の乗馬ズボンと黒い短ブーツを履いている。腰にはサーベルとピストルを提げていた。
将軍はいつもどおりの無愛想なしかめ面で砲声のする前方を見つめる。
「始まったようですな」
彼と馬を並べた若い女性将校が、将軍の言葉を繰り返すように呟く。
つばの右側を折り上げた黒羽を飾ったハットを被っていた。黒い上着を羽織り、灰色のズボンに黒革のロングブーツを履いている。腰のベルトには長い銃身の回転式拳銃を左右に二挺提げている。長い金髪を隠しもせず風になびくに任せている。
将軍は不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「動かないので?」
「ミス・スノー。黙っていろ」
「ベルンスタイン将軍の指示を待っているのですか? あの人を殺したこともなさそうな学者将軍の?」
ミス・スノーこと、ミシェル・スノー中尉はそう言って口端を吊り上げる。人を小馬鹿にしたような笑みだ。
「兵を指揮をするのに人殺しの経験は必ずしも必要ではない。そもそも、戦を経験したことがある者自体がこの国には多くはあるまい。我々の祖父の時代にフェイマス自由国がグリフィニアから独立し、我々の父の時代に自由国が東フェイマスを併呑して以来、この国は戦争をしておらん。せいぜい、小さな小競り合いや先住民の反乱を鎮圧する程度だ。ところで、そう言う貴様はどうなのだ?」
相変わらず不機嫌そうなグレイ将軍の言葉に、女性将校ははたと考え込む。
「今まで殺した人数ですか? んー。三桁はいきませんな」
グレイ将軍は黙り込む。
「しかし、私が殺した連中ってのは、殆ど無防備な人ばかりですからね。自慢できることじゃあありません。政府の役所や政府軍の施設、政府要人の家に火をつけたり、爆弾を仕掛けて吹っ飛ばしたり、夜中に押入って撃ち殺したり」
ミシェルは淡々と述べてから、ぼうっと遠くを見つめ、そして、唇がにんまりと三日月を作る。
「ふふふ、私の仕業でどれだけの不幸が生まれたかと思うとゾクゾクしますね。不幸は蜜の味です。聖典にある禁断の果実もかくやというほどの甘さ。それほどの悦楽を、ただ、命を手折ることだけで得られるとは、真に世は素晴らしいッ! 何せ、命を奪うことなど、ただ、この指一本動かして、引き金を引くだけで良いのですからね」
そう言って、彼女は楽しそうに幸せそうに哄笑した。
将軍は口をへの字にして彼女を忌々しげに睨んでから口を開く。
「貴様の不幸好きは病気だ」
「仰るとおりで」
ミシェルは楽しげにあっさりと頷く。
「そんな厄介な女を部下にする将軍も変わり者だと思いますけども」
「貴様は病気持ちの気違いだが、人を殺すことに関しては天才的だからな」
「ふふ、そんな褒めても何にも出ませんよ」
彼女が楽しげに言った直後、敵の砲弾が自軍の兵列に飛び込み、土埃が舞い上がり、大量の木片と共に数人の兵士が吹き飛んでいった。肉片が飛び散り、血飛沫が舞い上がる。少し遅れて絶叫と悲鳴が幾重にも重なって響き渡る。更に遅れて怒声が響く。
続いて、将校たちの側に敵の砲弾が着弾し、将校たちは頭から砂埃をかぶった。
将校たちは何事もなかったかのように砂埃を体から払い、ハットやキャップを手に取って軽く叩く。そうして、すっと前を見る。
「将軍。敵が来ました。こちらのクラーク旅団の側面に進出しようとしています」
一人の将校が今しがた覗いていた双眼鏡をグレイ将軍に手渡しながら言った。
将軍は受け取った双眼鏡を覗いた。彼方に青い線がいくつか見える。
「前進するぞ。ベルンスタイン将軍に前進すると知らせろ。それから、砲兵隊に援護させろ」
「はっ。了解しました」
将軍の指示で数名の将校が馬を走らせた。
「ミス・スノー。貴様の部下の準備は」
「奴らなら勝手にやってくれますよ」
後方の自軍の兵を眺めていたミシェルはそう請け負った。先ほどからにやにや笑いが顔に張り付いている。不幸マニアを自称する彼女は、誰かが不幸になるのが楽しくてしょうがないのだ。今しがた、自軍の兵が何人も吹き飛んでいったのが嬉しくて仕方がないのだろう。彼女にとっては、不幸になるのが味方だろうが敵だろうが構わないのだ。
「ならば、良い」
将軍は不機嫌そうに頷くと、将校たちと共に背後の林の中に控える五〇〇〇の兵列の前に馬を進める。
「アイザニアの勇猛なる兵士諸君っ!」
砲声鳴り響く戦場で、整列した兵士たちを前にしてグレイ将軍は怒鳴った。雷のような怒声だ。
将軍の前に居並ぶ五〇〇〇の兵は将軍と同じ故郷であるアイザニア州から集められた兵たちだった。大体、全員が灰色のキャップを被り、灰色の上着に茶色いズボンを履いていた。腰ベルトには水筒や弾薬ケース、ナイフなどを提げている。しかし、それらの制服は大まかにしか揃っておらず、かなりの割合の連中が違う帽子を被っていたり、上着を着ていたりしていた。制服は多少違えど全員、銃剣が装備された小銃を担いでいた。
グレイ将軍は兵列の前で馬をうろうろさせながら、唾を吐き散らし、怒声を響かせる。
「我々は何の為に戦うのかっ! それは我らが愛すべき故郷西フェイマスを、アイザニアを守る為だっ! 父母を守る為だっ! 妻子を守る為だっ! 兄弟を守る為だっ! 恋人を守る為だっ! 友人を守る為だっ! 仲間を守る為だっ! 我々の後ろには守るべき同輩がいるのだっ! 一〇マイル後ろにはコートフィールドの街があるのだっ! 故に我々は敗れるわけにはいかぬっ! 我々が敗れれば、我々の同胞の街と無垢の市民が、あの東部の糞野郎どもに破壊されっ! 略奪されっ! 殺戮されっ! 陵辱されるのだっ! そのような蛮行が許されるのかっ!? 許されるのかっ!? 諸君っ! 答えたまえっ!」
将軍の質問に兵たちは声を揃えて怒鳴り返した。
「否っ!」
「宜しいっ!」
将軍はしかめ面のままだが、満足げに頷いた。そして、怒鳴る。
「では、戦うのだっ! 諸君っ! 同胞の盾となれっ! 同胞の身代わりとなれっ! 同胞を守り、敵を殺すのだっ! 銃撃を浴びせっ! 鉛弾を食らわせろっ! 銃剣で奴らの体を突き刺せっ! 銃床で殴れっ! 宜しいかっ!? 諸君っ!」
「おぉぉぉぉぉっ!」
兵たちは声を揃えて叫んだ。銃を突き上げ、掲げ持つ者もいる。
「宜しいっ! では、マーチだっ! 全軍っ! 進めーっ!」
将軍はそう怒鳴ると、サーベルを抜いて、前方を突くようにして指した。
彼の言葉に、旅団旗と連隊旗が兵列の真ん中で高々と掲げられ、旅団のほぼ全ての士官や下士官がサーベルを抜いて肩に担ぎ怒鳴った。
「マーチっ!」
楽隊員が太鼓を叩き、ラッパを吹き鳴らす。そのテンポはリズミカルではあるが、決して早くはなく、どちらかといえば遅い。
その行進曲に合わせて兵たちが歩き出す。林を出て草原を東へ進む。
旅団の第一列を構成するアイザニア第三連隊、同第八連隊及び同第一二連隊が通り過ぎ、同第四連隊、同第一〇連隊及び同第一六連隊からなる第二列の後にグレイ将軍を始めとする将校たちも続いた。
「中々宜しい演説でした。兵たちを戦に駆り立て、戦わせるよき演説です」
「私は彼らに、彼らのやるべきことを述べたまでだ」
ミシェルの言葉にグレイ将軍はぶっきらぼうに応じた。
グレイ旅団が前進する最中にも敵からの砲撃は止まず、時折、戦列に砲弾が飛び込んで兵達を吹き飛ばした。その度に、肉片と血飛沫が空に舞い上がる。が、すぐに、何事もなかったように兵たちは砲撃で生じた空隙を、列を詰めて埋めていった。
前方に見えていた青い線は、やがて、線を構成する一つ一つが明確に見えてきた。青いフォレージキャップに青いジャケット、青いズボン姿の政府軍の歩兵たちだ。彼らも銃剣付きの小銃を担いでいる。
彼らの戦列にも時折砲弾が飛び込んで兵士を吹き飛ばす。そして、やはり、同じように兵が列を詰めて空隙を埋めた。
両軍の間の距離は二〇〇ヤード程まで近づいた。
「一〇〇ヤードまで近づいたら一斉射撃を食らわせるぞ」
「アイアイサー」
両軍の兵士たちは尚もゆったりとした行進曲に合わせて歩き続ける。
彼我の距離が一〇〇ヤードになったところで、号令がかかった。
「ハールトッ!」
第一列が足を止め、膝立ちになる。第二列はその後ろに直立する。
数秒遅れて、青服の列からも「ハルト!」と命令が出て、行進が止まった。
「レディイッ!」
士官の号令で兵士たちが担いでいた銃を一斉に構える。
「エーイムッ!」
続く号令でそれぞれ狙いを定める。一〇〇ヤード先で青服たちが同じようにこっちを狙っていた。目が良い者ならば、互いの顔が見えるくらいの距離だ。
「ファイアッ!」
第一列の銃列が火を噴いた。白い煙が撒き散らされると同時に鉛弾が発射される。一〇〇ヤードの距離を一瞬で飛び抜けて、青い軍服を突き破り、肉を引き裂き、骨を砕き、血潮を噴出させる。
バタバタと青服が悲鳴を上げながら倒れた。
直後、自軍の兵士もバタバタと数十名が同じように悲鳴を上げて倒れ伏す。
「リロードッ! リロードッ!」
第一列が屈んだ状態で弾込めを始める。その間に第二列が構えた。
「エイムッ! ファイアッ!」
再び、乾いた銃声が轟き、目の前に立ち込める煙の量が増える。そして、青服がバタバタ倒れる。
やがて、敵軍が弾込めを終え、銃を構える。自軍の第一列が一拍遅れて構える。
「エーイムッ! ファイアーッ!」
乾いた銃声が幾百にも重なる。そして、数秒後に上がる断末魔の悲鳴。痛みに悶え苦しむ絶叫。
頭を撃ち抜かれた若者がモノも言わず、無表情に倒れこみ、そのまま動かなくなる。
鉛弾に貫かれた老人が流れ出る血潮を見ながら、怒声を上げながら、倒れこむ。
血を噴出した負傷兵が、母親の名を叫びながら地面の上でのたうち回る。
胸を撃ち抜かれた兵士が唖然とした顔で何事か呟きながら、地面に頭から突っ込んだ。
「ふふふふふ、素晴らしい眺めです。次々と人々が命を失い、この世を恨みながら、悔やみながら、憎しみながら、死んでいく。あぁ、なんと、不幸なことでしょうッ! まだ、未来ある若者がッ! 愛すべき者を守る為にやってきた勇気ある者がッ! 誰かに愛された者がッ! 死んでいくッ! 死んでいくッ!」
目の前に広がる硝煙と血飛沫と絶叫と悲鳴の狂宴を前にして、ミシェルは涙を流しながら哄笑した。血走った黒い瞳を見開いて、兵が死ぬ瞬間を痛みに悶える様を不幸に涙する様を微塵も見逃さんばかりに、真剣に狂ったように見つめていた。
「貴様のような奴こそ、さっさと死ねばいいのだ」
グレイ将軍が不愉快そうに吐き捨てるように言った。
その瞬間、一発の銃弾がミシェルのハットを吹き飛ばしていった。ハットは鋭く背後に飛び去り、数ヤード背後に落ちた。
一瞬、彼女は動きを止めた後、にんまりと笑って、将軍を見つめた。
「ふふふ、くたばり損ないました」
「忌々しい奴だ」
将軍は気分悪そうに言うと、彼女のハットを拾うように従卒に指示した。
「おやおや、これは失礼」
従卒からハットを受け取ったミシェルはハットを叩いて土埃を払ってから、頭の上に載せた。
「さて、そろそろ、仕事をしましょうか」
ミシェルの言葉にグレイ将軍は黙って頷いた。
すると、彼女は馬腹に蹴りを入れた。馬は悲鳴を上げながら走り出す。そのまま、左後方へ走り去っていく。
ミシェルを見送ったグレイ将軍は将校たちに怒号を浴びせる。
「第二列を右に進めろッ! 第四連隊、敵側面に展開させろッ!」
数人の将校が馬腹を蹴り上げ、第二列右翼に展開する第四連隊に向かう。大佐に将軍の命令を伝達した後、必死の射撃を続ける兵達に怒鳴り散らす。
「射撃止めッ! 右向けー右ッ! 連隊、右へ進めッ!」
連隊の兵士たちは銃を担いで右方向へ駆け足で移動を始める。第一列は移動する第四連隊を擁護する為に、起立して射撃を続ける。
第一列の右側に移動した第四連隊は今度は縦列で前方へ突き進み、敵戦列の側面に展開すべくマーチする。
当然、敵戦列からは激しい銃撃が浴びせられ、走る兵たちが次々と銃撃に倒れ伏す。同時に敵の一部が第四連隊が目指す方向へ移動し、側面に回りこまれるのを防ぐ。
それでも、第四連隊は決死ともいえる突撃にも近い前進を繰り返す。銃撃を食らわせては前へ走り、撃ち抜かれて倒れこんでいく。
一方、ミシェルは両軍が対峙する戦場から左方向へ馬を走らせていくと、後方の林の中から飛び出した数百の騎兵と合流する。
「さぁッ! 騎兵諸君ッ! これからが君たちの出番だッ! ろくに活躍もしないままに馬から転げ落ちて死ぬなよッ! そんな馬鹿は私に笑われるだけだぞッ!」
ミシェルは素晴らしい笑顔で叫ぶと、手綱を引いて、馬首を敵軍の方向へ向ける。つまり、こちらからいえば、右側面へ進出しようとする第四連隊に対応する為に、薄くなっている左側面へ、騎兵の機動力を生かしてあっという間に迫っていく。ただし、彼我の距離はさほど近くはない。十分な距離を開けて、敵戦列の真横を素通りしながら、おまけのように銃撃を食らわせていく。
突然現れた敵騎兵からの側面からの奇襲に青服の兵たちはバタバタと倒れていく。騎兵に対応しようと第二列を側面に展開しはじめる。
「チャージッ!」
グレイ将軍がサーベルを掲げて叫び、馬腹を蹴る。続いて次々と将校が同じように叫び、ラッパが狂ったように吹き鳴らされ、太鼓が乱打される。
「うおおおおおおおおおおおおーッ!」
灰色の軍服を着た兵たちが一斉に喚声を上げながら走り出す。煌く銃剣を前に突き出して、前だけを真っ直ぐ見つめて、走っていく。青い列が一斉射撃を行い、目の前が真っ白になる。一斉に数百もの兵が仰向けに倒れた。しかし、目前で倒れた仲間を押しのけ、踏みつけ、兵たちは、ただ、ただ、前へ。前へ。前へ。足が動く限り、ただ、ただ、前へ、前へ、前へ!
「突き進めーッ! 敵どもを突き殺せッ! 踏み潰せッ!」
突撃する集団の最前列へ出たグレイ将軍の怒号に、兵達は喚声で応じる。
数十秒で二つの色の軍服の列はぶつかり合った。銃剣で敵の体を突き破る。肉を引き裂き、血を掻き出す。銃床で殴打する。骨を砕き、叩き潰す。突き刺し、殴り、蹴り、掴み、引っかき、押しのけ、投げ飛ばし、踏みつける。
灰色の集団は薄くなっていた青い列の中央を突き破った。青い軍服の集団は左右に分断され、最早、戦闘組織としての能力を失った。次々と将兵たちが倒れていき、やがて、壊走する。
「旅団を再編しろッ! 休むなッ! 直ちに前進するぞッ!」
グレイ将軍は血塗れたサーベルを振り回し、唾を吐き散らしながら叫ぶ。
旅団は戦列を整えながらマーチを開始する。グレイ将軍とその取り巻きが先頭を行く。
「諸君ッ! これで、満足したわけではなかろうッ! 我々の敵はまだまだいるぞッ! あの死神ミス・スノーならば、泣いて喜ぶところだッ! おぉ、なんと、まだ、不幸にできる奴がいるぞッ!」
将校の一人が叫び、兵達は血塗れた銃剣を掲げて声を上げて笑った。
「敵どもをまだまだ不幸にしてやるぞッ! 一人残らず地獄へ叩き込んでやろうッ!」
更に他の将校が叫び、喝采が上がった。
やがて、誰ともなく歌い出した。祖国を守り、同胞の盾となり、剣となり、敵を屠り、殺し、地獄へ叩き込んでやるという物騒な歌だ。
前方に敵の砲兵陣地が見えた。敵の砲兵は一人残らず倒れこんでいるか降伏していて、代わりにミシェル率いる騎兵隊が下馬して戦列を組み、迫り来る敵軍に銃撃を浴びせていた。
「さぁッ! 小僧どもッ! 仕事だッ! 騎兵どもにお株を奪われている場合じゃあないぞッ! 連隊駆け足前進ッ!」
歩兵は騎兵に代わって前へ出て一斉射撃を食らわせた。砲を奪い返そうと決死の突撃を仕掛ける青い軍服の兵がバタバタと引っくり返っていく。
「砲を使えッ! 敵にぶちかましてやれッ!」
鹵獲した砲の向きを逆にして、敵に至近距離からの砲撃を降らせる。同時に、一斉射撃を浴びせる。
猛反撃に敵軍は突撃を躊躇し、反転後退を始めた。
「それッ! 突撃だッ! 敵の背中に銃剣を突き刺せッ! チャージッ!」
勢いに乗るグレイ旅団は瞬く間に突撃に移り、後退する敵軍を散々に打ちのめす。
一時的に下馬して歩兵に身をやつしていた騎兵たちは再び馬上の人となり、馬腹を蹴り飛ばして、敵の背中に迫る。
「ふふふ、ふふ、あ、あは、あははははははははッ! 敗走する敵のなんと不幸なことかッ! なんと、惨めで、愚かで、嘆かわしく、悲しいことかッ! 素晴らしいッ!」
ミシェルは騎兵隊の先頭へ哄笑しながら、敵の背中に拳銃で銃撃を食らわせていく。馬をぶつけて、押し倒し、馬蹄の餌食とする。彼女に続く騎兵隊も拳銃を撃ち込み、サーベルを振り回し、敵兵を惨殺していく。
グレイ旅団の前面にいた敵軍は瞬く間に崩壊した。当然、その余波を受け、その隣の敵勢も、更に隣の敵勢も次々と崩れていき、やがて、敵の全軍が壊走状態に陥り、自軍は思うがままに追撃をかけた。
「ミス・スノー。追撃に参加しなくていいのかね?」
戦場に一人佇んでいたミシェルに、グレイ将軍が声をかけた。
「そう言う将軍こそ」
「我が旅団は散々敵を打ちのめしたからな。追撃くらいは別の旅団にやってもらうさ」
グレイ将軍はそう言って、煙草を取り出して一本くわえて火をつけた。ミシェルにも薦めたが、彼女は断った。
「私は煙草と酒とギャンブルはしないのです」
「まるで正教徒だな」
将軍の皮肉にミシェルは笑った。正教徒の聖典には多くの禁止事項があり、煙草も酒もギャンブルも当然禁止ではあるのだが、第一に禁止されているのは、殺人だ。
「その清く正しい正教徒が追撃に参加しないのは何故かね? 逃げ惑う敵を追い散らし、惨殺し、踏み潰すのは、面白くないのかね?」
「何を言っていますか」
ミシェルはグレイ将軍を見て答える。
「勿論、楽しいに決まっているではないですかッ!」
「では、何故かね?」
「追撃戦はもう十分しましたからね。それに、追撃戦では追う方は全く不幸ではないですからね。不幸な人間もたくさんいますが、それ以上に幸福な人間が多くて、楽しさ半減です」
「それはそうだが」
「それよりは、ここにいる方が、私にとっては、ずっと愉快です」
ミシェルは辺りを見回した。見渡す限りに、数百、数千の死体と負傷兵が転がり、肉片が散乱し、血潮が流れ出て、小さな川を作り出している。大きく空気を吸えば、血と硝煙と汗と焦げた臭いが鼻を突く。耳を済ませば、どこからか、呻き声が聞こえる。母の名を呼ぶ弱々しい声。儚げな神への祈り声。死にたくないとすすり泣く声。
彼女は満足げな微笑を浮かべながら歩き出す。
「既に死んだ不幸な奴と、死にかけた不幸な奴しか、ここにはいません。誰も、誰もが、命を失い、今、まさに、死のうとしています。助けもなく、看取ってくれる者もなく、一人寂しく大勢の戦死者の中の一人として死んでいく。この世に未練を残し、愛すべき者を残し、己の命を奪った者を憎悪しながら、虫けらのように野に屍を晒すのですッ! なんと、悲しきことかッ! なんと、嘆かわしいことかッ! なんと、不幸なことかッ! 素晴らしいッ! 彼らのその無念を思うと、ぁ、はぁ、ぞくぞくするッ!」
不幸を愛する奇特な狂人は返り血に染まった己の体をひしと抱き締め、嘆息する。
「さぁ、もっと、不幸を増やす為に、頑張ろう。もっと、殺して、奪って、傷つけて、そうすれば、もっと、もっと、素晴らしく、気持ちがいいだろうから。ふふふふふ」
ミシェルはそう呟くと、グレイ将軍に丁寧に挨拶してから、上機嫌に死体を踏みつけながら戦場を散歩して、思う存分に、死んだ人間と死にかけた人間を眺め、硝煙と血の臭い、そして、死臭を吸い込み、痛みに悶える悲鳴や弱々しい呻き声を楽しんだ。