これは、罰ゲームですか?
「すみません。よく聞き取れなかったので、も、もう一度、言ってくれますか」
私は制服のスカートの生地をぎゅっとにぎりしめていた。手の中にも、背中にも、へんな汗をかいている。
「だっ。だからっ。清水さんのことが好きだから、つきあってくれって言ってんの!」
東くんは声を張り上げると、赤い顔して、私から目をそらした。
聞き間違いじゃなかった。たしかに、好きだって……。言った。
ありえない。東くんみたいな目立つグループの男子が、私のような、真面目だけがとりえの、日陰の底辺女子を好きになるなんてありえない。
聞き間違えでないとするならば。もしや。この告白は。
「ば、罰ゲームですか?」
そうだ。罰ゲームに決まってる。仲間たちに嫌々言わされてるんだ。
東くんは、その大きな瞳を、ぱちくりとしばたたいた。そして。
「…………え?」
と。すっとんきょうな声を漏らしたのだった。
東瑛太くんはクラスの太陽だ。いつもさんさんと明るい。すこぶる陽気で、休み時間は常にたくさんの友達に囲まれている。今だってそう。目立つグループの男子たちにまじってお弁当を食べている彼のもとに、クラスのきれいどころの女子たちが寄ってきて、何やら盛り上がっている。
「たしかに顔はいいけどね」
美樹が、お弁当のウインナーをつつきながら、そうこぼした。美樹は東くんと同じ中学出身だ。
「もてるし。東って中学の頃、言い寄ってくる子とつきあっては別れ、つきあっては別れ、って繰り返してたんだよ。うちらにとっては別世界の話って感じだよね」
「ふうん……」
私は、もぞもぞと自分のお弁当を食べ進めた。
「で? 東がどうしたわけ?」
「う。ううん、何でもない」
美樹も私も、もっさり垢抜けなくて、気づいた時にはクラスの最底辺。
天上界にいるがごときキラキラ男子たちも、キラキラ女子たちも。陰で私たちのことをバカにしまくっているにちがいないのである。
だからやはり、あの告白は、なにかの手違い。高熱に浮かされて意味不明な行動をとってしまったとか、あやしい催眠術で操られたとか。
罰ゲームの線だって消えたわけじゃない。
告白のあとの、罰ゲームですか? という私の問いを。東君はすぐさま否定した。
「えっ? なっ、何言ってるの? ちがうよ?」
って。だけど……。
私の警戒心を解くための演技かもしれない。「つきあって本気にさせたところでこっぴどく振る」というところまで含めてのゲームなのかもしれない。
そう思って、彼の「告白」を、私は丁重にお断りした。
……はずだったのだけど。
放課後、部活がある美樹に手を振って、ひとり教室を出る。
階段を下り、靴箱で靴を履きかえていたら、突然肩をぽんと叩かれた。
びくっとして反射的にふり返ると、仏頂面の東くんがいる。
「な。なんの用ですか?」
こわいよ。
「い。一緒に帰りたいな、と思って」
東くんはたどたどしく答えた。
「どうしてですか? お、おつきあいはできないと伝えたはずですけど」
「彼氏とじゃないと一緒に帰れないって決まりはないよね?」
「そ。そう、だけど……」
ぐっとくちびるを噛んだ。
結局私は、東くんと一緒に校舎から出て、そのまま歩き出した。なんとなく一緒に帰る流れになってしまっている。
空は厚い雲に覆われていた。空気は湿り気をおびて、芽吹いたばかりの若葉のにおいが、いちだんと濃く感じられる。
「ど、どっち方面に帰るの……?」
聞かれて、私は、
「駅まで。です。電車通学なので」
と、答えた。東くんはうなずくと、それきり黙ってしまった。
駅までついてくるんだろうか、東くん。
黙々と、無言で歩く。いっしょに帰ろうなんて言ったくせに、彼はずっと赤い顔をして黙り込んでいる。
やっぱり、気が進まないんだろう。「つきあってるっぽいこと」をするのも、彼に課せられた罰のひとつなのでは……。もしくはドッキリ的な何か? 彼は仕掛け人?
そんなことを延々考えていたら、ぽつりと、頬に冷たいものが落ちた。
まずい。私は傘を持っていない。朝の予報では晴れだったし、実際、雲が広がってきたのも昼すぎからだ。
ぽつぽつと、大きい雨粒が落ちてきて制服に染みをつくる。
「だっ、大丈夫だよ! 俺、折り畳み傘持ってるから」
東くんはぱあっと顔を輝かせると、鞄を開けてがさごそと中を探った。
「ん? あれ? 確かにここに……」
そうこうしている間にも、雨の勢いは増してくる。しかもここは歩道の真ん中。すれちがう人が怪訝そうな目を向けてくる。じゃまになってるし、私たち。
と、東くんが手を滑らせて鞄を取り落としてしまった。
あっ、と小さく叫んだ時にはもう、鞄の中のテキストやノートや辞書が、ばらばらと、濡れた路面に広がっていた……。
「ごめんっ。清水さんっ」
「いいよ」
あわててしゃがんで鞄の中身をすべて拾って仕舞うと、私はまごついている彼の制服の袖の生地をつまんで、近くのコンビニまで引っ張っていった。
「ほんとにごめん。確かに鞄に入れたはずなんだけど」
「いいから。気にしないでください」
そんな、捨てられた子犬みたいな目をしないでほしい。雨に濡れているせいで、なおさら可哀想に見える。
教室では、あんなにキラキラしている東くんなのに……。
私はコンビニでビニール傘を2本買って、一本を東くんに手渡した。東くんは財布も忘れていたのだ。
「ごめん、お金はあとで払うから」
と、彼がますます申し訳なさそうに沈んでしまった。
「いいから! ほんとに気にしないで!」
おたがい傘をさして歩きだしたはいいものの、気まずい。
むかしから、男子とふたりで帰ることはおろか、話しかけられることすらめったにないのだ。どうしていいのかわからない。
傘をたたく雨の音。濡れた路面を走る車の音。
「清水さん。やっぱり、怒ってる?」
ふいに、東くんがそんなことを言った。
「どうして?」
「俺。また失敗したから。どうしてこうなっちまうんだろう、俺」
東くんは深いため息をついた。
「また。って、どういうこと?」
「失敗ついでにぜんぶ話すけど。俺、女子とふたりきりだと、緊張していろいろやらかすんだ。さっき荷物をぶちまけたみたいな、ださい失敗。あんなんばっか」
東くんは自嘲めいた笑いをこぼした。
「中一のとき、はじめて告白されてつきあってみたけど、初デートでドジやらかして幻滅されてさ。それがトラウマになってんのかなあ? そのあと何人かとつきあったけど、やっぱりうまくいかなくて」
美樹が言ってた。何人もの女の子をとっかえひっかえしていた、って……。
「ちょっとでもドジやらかすと、絶対嫌われた、って絶望的な気分になって。ふられるのはいやだから、自分から、もうつきあえないって言って別れた。最低だと思う」
そう……、だったんだ。
緊張していつもデートがうまくいかないだなんて、そんなふうには見えない。というか、ふだんの明るいイメージがあるからなおさら、がっかりされるのが怖かったのかも。
「ごめんね。こんな情けねー話ぶちまけて」
ビニール傘の下の東くんの顔は、すこし青ざめてみえる。
「ひょっとして」
私は足を止めた。
「私みたいな地味な子が相手だったら緊張しないかもって思って、それで『つきあいたい』なんて言ってきたの……?」
そうだ。きっとそうだ。トレーニングのつもりだったんだ。だれだって、きれいな子より私といるほうが緊張しないはずだ。
「清水さん」
東くんは、まっすぐに私の目を見つめた。
「覚えてないの? 俺とはじめて会ったときのこと」
「え……?」
私は、高校に入学してはじめて東くんの存在を知った。中学はちがったし、塾や部活などでも接点はなかったはず。
「ごめん。覚えてないならいいや」
東くんは、ははっと笑った。そうしているうちに、駅に着いた。
別れ際、彼は、
「よかったら、また明日も送らせてください。情けないすがたを見せたけど、それでも、俺、清水さんのことは、どうしても」
東くんは途中で口をつぐんだ。もうすぐ電車が来る時間だ。
私は無意識に、こくりとうなずいていた。
それから私たちは、毎日のようにいっしょに帰るようになった。先に教室を出た彼が、靴箱のところで、決まって私を待っているのだ。
「情けねー話」をぶちまけたせいなのか。どこかふっきれたように、東くんは生き生きとふるまうようになった。
そして、私も。
東くんの意外な姿を見たことで、かえって彼が近くなった気がして。へんにかしこまらずに、自然に話ができるようになっていた。
接点なんかないと思っていた私たちだけど、同じお笑いコンビのファンだということが発覚したり、私も彼も肉より魚が好きだとわかったり。小さな共通点が、つぎつぎに見つかっていった。
「水族館に行って魚の群れを見るとね、きれいって思うよりも、つい、おいしそうだなって思っちゃって」
「俺も俺も!」
東くんはにかっと歯を見せて笑った。お日さまのような、輝く笑顔。彼はうちのクラスの太陽。これがほんとうの東くん。
まぶしくて、なぜか、すこしだけさびしくて。うつむいていたら、東くんは、「そうだ!」と、大きな声をあげた。
「清水さん。今度の日曜、水族館に行かない? うまそうな魚を見ようよ」
「えっ……。う、うん」
反射的にうなずいてしまった。
「やった!」
小さい子みたいに、はしゃいだ声をあげる東くん。この調子なら、もう「失敗」はしないよね。そうしたら、彼にも自信がついて、ほかの女の子とだってこの先うまくやれるようになるかもしれないんだ。
そのために、私も力になってあげなきゃ。
そして、日曜日がきた。
前の晩はどきどきして眠れなかった。男の子とふたりだけで出かけるなんて、生まれてはじめてだから。
服だって、何を着て行けばいいかわからない。ふだんの服は飾りっけのないものばかり。
妹がガーリイな服をたくさん持っているから、ためしに借りて当ててみたけど、あまりに似合わない。
鏡の中の自分をじっと見つめる。
不器用で、どうしてもきれいに整えられない眉。つぶらすぎる瞳。はれぼったいまぶた。髪だって、うしろで無造作に束ねただけ。
私、ぜんぜん綺麗じゃない。妹は可愛いのに。同じ両親から生まれたのに、神さまは不公平だ。
やっぱり私はTシャツとジーンズでいい。はりきるのもへんだし。東くんにはいつか、彼にふさわしい可愛い彼女ができるはずだ。その時彼が緊張して失敗しないように、私は今日、練習台になってあげる。ただ、それだけだ。
でも。……少しだけなら。
私は髪ゴムをはずして髪を下ろし、丁寧に櫛で梳いた。
いつもの駅で、待ち合わせ。東くんは、私を見つけると、笑顔で手を振った。
「清水さん、私服だと雰囲気ちがうね」
「そうかな」
ぎこちない笑みを返す。そっけない恰好してるし、雰囲気もへったくれもないんだけど。
「か、可愛いと思う。髪、下ろしてるの」
「えっ」
か、からかってる?
「そんな、無理してほめるところを探さなくてもいいのに」
気を遣わせているみたいで、申し訳ない。
駅からバスに乗って水族館へ向かう。東くんのほうこそ、制服の時と雰囲気がちがう。細身のパンツにTシャツ、カジュアルなジャケットをさらりと羽織っている。普段より大人っぽいし、足も長く見える……。
隣に座る彼の横顔を見つめていたら、妙にどきどきしてしまって。私はあわてて彼から目をそらした。
水族館に着くと、順路に沿って展示を見て回った。
「清水さん! 見て見て! うまそうな青魚の群れ!」
たくさんの魚たちが泳ぐ大きな水槽を前に、東くんがはしゃいだ声をあげる。魚を見ていた子どもたちが、こっちを見て、くすくすと笑った。
「東くん、声が大きいよ」
「ごめん。小学生にまで笑われて。俺、恥ずいな」
東くんの頬が赤くなっている。
「なに? 俺の顔に何かついてる?」
「う。ううん、なんでもない」
いけない。うっかり、「かわいい」などと思ってしまった。照れている顔を、まじまじと見つめてしまった……。
あわててそらすと、くらげ水槽の前で、小さい男の子が泣いているのが目に入った。お母さんが、「ゆうくん。男の子なんだから泣いちゃだめ」となだめている。
「べつに、男の子だからって、泣くのを我慢しなくてもいいのに」
思わず、つぶやくと。
「清水さん。全然変わってないね」
東くんが、くすりと笑った。
「え? どういうこと?」
「何でもない。それより、もうすぐイルカショーがはじまるよ。清水さん、行こう」
そう言って、彼は私の手を取った。えっ、ちょっと待って。
東くんは私の手をひいて、ずんずんと歩いて行く。待って待って。私たち、手をつないでる。
東くんの手は大きくて。少しだけしっとりと汗ばんでいるけど。でも、ぜんぜん嫌じゃない。ううん、むしろ……。
私はぶんぶんと首を横に振った。余計なことを考えちゃだめだ。勢いで、つい、手をとってしまっただけのこと。ただ、それだけのこと。
イルカプールにはすでに人がたくさん集まっていた。空いている席を見つけて、ふたりですべりこむ。そこでようやく東くんは私の手をとっていたことに気づいて、
「ご、ごめんっ」
と、あわてて離した。
「いいよ、べつに」
「いいの……? つないでても」
「えっ? いや、そういう意味じゃなくって」
もごもごつぶやいていると、イルカショーが始まった。ホイッスルの音とともに、豪快な水しぶきをあげて、イルカが宙に跳びあがる。
わあっと、歓声があがる。東くんは、私の手を、ふたたびぎゅっと握りしめた。
からだじゅうに熱が回って、顔が熱くて。飼育員のお姉さんの声も、イルカも、まわりの歓声も。すべてがぼんやりと遠くなる。私の世界に在るのは、ただ、東くんの手のぬくもりだけ。
「見た? すごいね、イルカ!」
東くんが無邪気に笑っている。私に、笑顔を向けている。
どうしよう。私、おかしい。今、体ぜんぶが心臓になったみたいに脈打っていて。彼の顔を、まともに見られない。
ショーが終わっても、彼は私の手を離さなかった。私はただ、うつむいて、何もしゃべれずに、彼に引っ張られて歩いているだけ。
美しいくらげも、銀色の魚の群れも。目に入らない。
水族館を出ると、空がほんのり桃色に染まっていた。近くの公園のベンチに座って休憩する。東くんが自販機でジュースを買って、私に一本くれた。
「……ありがとう」
東くんは、そっと私のとなりに腰かけた。
「清水さん、どうしたの? ずっと黙ってるし。やっぱ、つまんない?」
え? と、顔を上げると。東くんはイルカショーの時とは別人みたいに、沈んだ顔をしている。
「俺、調子にのって、またなにかへんな失敗やらかしたのかな?」
「そ、そんなことは、ぜんぜん……」
「じゃあ、なんでそんなに元気ないの?」
「それは……」
ぐっと、言葉につまる。東くんは、まっすぐに私の目を見つめた。
「あらためて、言わせてください。俺は、清水さんが好きです。つきあってください」
ぬるい風が吹いた。私の髪も、彼の短い前髪も揺れる。
私、私は。
「ごめんなさい」
頭を下げた。
「つきあうのは、無理です」
重い、重い沈黙。息が詰まりそうで苦しくて、どうしようもなく胸が苦しくて。
「そっか」
やがて、彼は言った。からりと、明るい声で。
「やっぱ、今日、楽しくなかったんだね。ごめんね、俺ばっかり空回りしてて。今までつきまとって悪かった」
立ち上がる。そのまま、駅まで送ってくれたけど、ずっと彼は無言だった。
ひとり、帰りの電車に揺られながら、私は泣いていた。
そうだよ。全然楽しくなかったよ。どきどきして、顔が熱くて。それを隠すだけでいっぱいいっぱいだった。
私。こわくなってしまった。
デートして手をつないで。好きだと言われて。でも、手放しでその言葉を信じることができない。
車窓に映る自分の顔が目に入る。うんざりするほどぱっとしない。こんな女の子の、どこに魅力があるの? 何もないじゃない。
彼の言葉を信じて、つきあったとして。でもやっぱり君じゃないと言われて、あとで傷つくのは、私自身だ。だから私は、自分の身を守っただけ。
なのにどうして、こんなに胸が痛いんだろう。
次の日から、彼が放課後私を待つことはなくなった。教室でも目も合わないし、話しかけてくることも、もちろんない。もう、一週間になる。
これでよかったんだ。彼に関わる前の、波風たたない日常が戻って来ただけ。じきに慣れる。胸の痛みも消えるし、彼を目で追ってしまうことだって、なくなる……。
「さつき。最近元気ないけど、どうしたの?」
昼休み。美樹がそっと、私の肩に手を置いた。
「気になってたんだ。さつき、ずっと東のこと気にしてるし。いっしょに帰ったりもしてたでしょ? 話してくれるまで待とうと思ってたんだけど」
「美樹……」
私は、わっと泣き出してしまった。美樹は、やれやれ、と、私の頭を撫でた。
たどたどしく、要領を得ない私の話を、辛抱強く聞いてくれて。そして。
「なんで告白、断っちゃったの?」
と。静かに言った。
「だって。私なんて。男子に好かれる要素なんて何もないのに。からかわれているのかも、って」
「東が実際どんなやつなのか、知らないけど。一緒にいて、どう思ったの? さつきのことをもてあそんでおもしろがるような奴なわけ?」
それは……。
雨の中、鞄をぶちまけた東くん。情けねーけど、と、自分の弱みをすべて話してくれた東くん。水族館で無邪気にはしゃいで、小学生に笑われていた東くん。
私、馬鹿だ。東くんは女子をからかって面白がるような人じゃない。それなのに。私は。自分が傷つきたくないばっかりに。
もう、彼といっしょにいる時間を、取り戻せないかもしれない。だけど、せめて。疑ってしまったことを、謝りたい。
帰りのホームルームが終わったあと。私は。まっさきに、東くんのもとへと向かった。
目が合う。彼は、すぐにそらす。胸がずきんと疼く。だけど。
私を避けるように教室から出て行った彼を、まっすぐに追いかける。
長い廊下を突き当りまで進んで。東くんはそのまま非常階段へと向かった。私も走って追いかける。
「待って……っ!」
東くんは振り返らない。長い階段を駆け下りていく。
「この間は、ごめんなさい!」
私は叫んでいた。東くんが、ぴたりと歩を止める。
「好きです! 東くんのことが、好きです!」
東くんがふり返る。
「私とつきあってください!」
私、無茶苦茶だ。謝ろうとしていたのに、どうしてこんな、みっともない告白までしているんだろう。
でも。好きで、好きで。止まらない。堰を切ってあふれだした気持ちは、止まらない。知らなかったよ。恋をしたら、止まれないなんて。
「清水さん!」
東くんが階段を駆け上がり、泣きじゃくっている私を抱きしめた。
「それ、本当……?」
彼の腕の中で、何度も何度も、うなずく。
「東くんのこと、好きになってた。でも。私には、東くんに好きになってもらえる要素なんてないから。だから、こわかった。東くんに2度も告白されても、信じることができなくて」
「俺。中3の春。清水さんに会ってるんだよ」
東くんは静かに言った。すごく、やわらかい声。
「彼女とひどい別れ方をした帰りで。涙をこらえて歩いていたら転んでしまった。情けなくて立ち上がれずにいたら、『大丈夫ですか』と声をかけてくれた女の子がいたんだ。俺に絆創膏をくれた」
「それが、私……?」
「泣き顔を見られたのが気まずくて、『情けないっすよね。男のくせに』って、自虐っぽく笑ったら、清水さんは言ったんだ。『情けなくないです。男の子だって泣きたいときは泣けばいいって、私は思います』って。すげー真面目な顔で」
そういえば。そんなことがあったような。歩道の少し先を歩いていた男の子が派手に転んで、それからしばらく起き上がってこなかったから、足首をひねって立ち上がれないのかと、心配した記憶がある。
東くん、あの時の……。泣いていた、男の子。
東くんは、はにかんだような笑みを浮かべた。
「俺、はじめて自分から女の子を好きになった。高校に入学して見つけたときは運命だと思った。悩んで悩んで、一生分の勇気をふりしぼって告白した」
東くんは私を、まっすぐに見つめて。そして、目を閉じて、とささやいた。
これって。これって……。
ゆっくりと、目を閉じる。
鼓動がありえないぐらい早い。苦しくて、息ができなくて、ただ、ぎゅっとまぶたに力を入れて、その瞬間を待つ。
こつん。鼻と鼻がぶつかった。
拍子抜けして目を開けると、目の前に、真っ赤に染まった東くんの顔があった。
思わず、ぷっ、とふき出す。東くんも、つられてふき出した。
はじめてのキスは、失敗。
私たちは、ふたりして、いつまでも笑っていた。