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80.嘲る紅月の血濡れた過去

紀矢子の過去回です

残酷な描写があります

 襖を開けて紀矢子が先ず感じたのは噎せ返る様な濃密な生臭い鉄錆臭だった。普段なら畳みの素材である井草の落ち着く匂いがする筈の両親の寝室で何故とぼんやりと思いながらも、自分の物でない様に勝手に動く手によって襖が完全に開かれてその奥が明らかになる


 窓際の障子戸から差し込む、雲で半分遮られた月明かりに照らされて最初に眼に付いたのは、床に広がる目が覚める様な鮮烈な赤だった。横たわる二つの人型の影を中心に不定形の水溜まりを形成し、その周りに赤錆色の円と六芒星を組み合わせ、その線に添う様に文字とも記号とも取れる図形が書かれていた


 二つの横たわる人型の影の間に、上半身を陰に遮られた二つの影より小さい影が立っている。その手には赤い液体に濡れ、床に下げた切っ先からポトリ、ポトリと雫が滴る赤い月光を妖しく反射する銀色の反りのある長い棒状の物が輝いていた


 「…あ、え…?」

 ―…ァ…


 紀矢子は小さく声を漏らしながらも眼の前に広がる光景を茫然と見る


 理性が理解を拒むが、脳が無情にも眼の前の光景について思考し理解してしまう


 あれは血?あんなに?

 二つの影。お父さん?お母さん?

 銀に光るあれは刀?あれでお父さんとお母さんを?

 あれは誰?何でお父さんとお母さんを?

 何で?どうして?


 ―…ハハ…


 混乱し思考が堂々巡りする中、外で雲が流れ、遮られていた月光が完全に部屋に差し込む。そして陰になって見えなかった上半身が照らされて明らかになった


 赤い月明かりが下から徐々に上がって影を取り払っていく。着ている白装束の様な麻の簡易な寝間着は返り血で赤と赤錆色の無秩序なまだらに染まっている。やがて光は首まで上がった


 最初に目に入った口は口角が深く裂け、三日月の様に弧を描いて背筋が凍るような笑みを浮かべている。頬には返り血と思われる赤い汚れが目に付く。鼻、目と明らかになっていき、そして乱雑に切られた逆立つ短髪が影が払われ現れる


 紀矢子はその人物を目の当たりにして、信じられない気持ちと何処か納得した背反する感情が混ざりあいながらもその人物の事を声に出す


 「兄…さん…?」

 ―アハハ…


 爛々と輝く眼をこちらに向ける兄は紀矢子の声に何も返さない。まるで金縛りにあったかの様に小刻みに震える体を動かせずに、眼の前の光景に釘付けになる紀矢子の傍を血濡れた兄がゆったりとした足取りで通り過ぎた


 ―アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!


 最初は勘違いか耳鳴りだと思っていた物は何時の間にか幾つにも重なり合う身の毛がよだつ様な狂的な嘲笑へと変わり、室内に響き渡る。冒涜的な嘲笑は確実に紀矢子の精神を犯し揺さぶる


 「…ウ…アァ…、ウア…!アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」


 その時、紀矢子の中で何かがブツリと切れる音が聞こえる。それと共に急速に視界が狭まり、そのまま意識を失ってその場に倒れた


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 どれほど時間が経ったのだろうか?紀矢子が目を覚ますと辺りはすっかり明るくなっていた


 「ウ…ウゥ…。朝?私なん…で…!?」


 顔に手を当てながら起き上がり、辺りを見回した紀矢子はある場所(・・・・)に目を向けて固まった


 「い、嫌ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」


 紀矢子はそれを見て絹を裂く様な悲痛な悲鳴を上げた。それは乾きかけた血だまりと血塗れの布団に横たわる両親の死体だった


 「何で!?あれは夢じゃないの!?何で!?どうして!?」


 錯乱した紀矢子は頭を抱え込みながら膝から崩れ落ち蹲る。全身から汗が噴き出し、眼は小刻みに揺れて焦点が合わない


 「ウグッ!オエエ!!」


 余りのショックで胃が収縮し、その場に思い切り吐き出す。碌に内容物が無い為、僅かばかりの胃液を吐き出しても止む事の無い吐き気に胃がキリキリと痛み、悶え苦しむ


 「ウゥ…。ハァ、ハァ…」


 何とか吐き気が収まった紀矢子は衰弱した体を無理矢理動かしてヨロヨロと立ち上がる。それは両親に襲い掛かった惨劇の事を誰かに伝えなければならないという使命感からくる物だった。そしてそれ以上に慣れ親しんだ村の誰かに出会う事で安心したいという思いもあっての行動だった


 しかし世界は常に残酷で人の思いや願いを踏み躙り嘲笑う


 何とか家から出た紀矢子を待ち受けていたのは生きた村人の誰かという救いでは無く、血の海とそこに斃れ伏す物言わぬ躯が無造作に転がる地獄だった


 「え?あ、アァ…」


 紀矢子の脳は眼の前の光景を理解する事を拒絶する。それは紀矢子の生存本能がこれ以上のストレスで精神に変調をきたさない様に働いた保護機能だったのだろう。あの夜と同じ様に再び紀矢子の意識が次第に遠のき、体が前に倒れていく


 その時、誰かの影が前から紀矢子の上に伸び、伸ばされた腕で体を抱きとめられる


 「……」

 「駄目だ。既に生存者はいない」

 「そうか。この子だけでも保護するぞ」

 「了解」


 そこまで聞いた所で紀矢子の意識は完全に消失した

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