78.巨漢vs.紳士
台風の後の猛暑が辛い···
取り敢えず孝義達の出番は終わります
巨漢は黙って引く為に曲げていた腕を伸ばして男に裏拳を放つ。男は先程の言葉と同じ様に落ち着いた様子で後ろに跳び退ると、その数瞬後に通り過ぎた拳が起こした風に髪が揺れる。本気では無かったとはいえ、自分の攻撃を容易く躱した男に、巨漢は警戒心を強めて向き直った
「何者だ?」
「誰何する前に先ずは自分が名乗るのが礼儀ではないのかね?まぁ、構わない。私は【公安0課】所属安倍川だ。それで【バチカン】所属の指名手配犯が何故こんな所にいるのか聞かせてもらえるか?【剛力の拳闘士】」
安倍川のその問い掛けへの返答は言葉ではなく、凄まじい速度で迫る拳だった
「全く物騒だな」
安倍川はそう呟くと軽く体を傾けて躱し、素早く腕を掴む。そして安倍川が体を反転させて男の懐に潜り込んだかと思うと、男の視界が上下反転した
其れに困惑する間もなく訪れた頭部と背中を襲う衝撃で、【剛力の拳闘士】と呼ばれた男は自身が安倍川に投げられて頭から地面に叩き付けた事を理解する
「ウグッ!?」
「駄目だぞ?そんなにホイホイ攻撃してきては。単純な力任せでは無く、ちゃんと技術を磨きなさい」
「クソッ!」
男は【安倍川】という名に何か引っ掛かる物を感じながら、すぐさま立ち上がろうとするが、その時男は未だ腕が掴まれたままである事に気付いた。腕が捩じられて地面に押さえ付けられる前に強引に体を動かして安倍川の手を振りほどく
男は立ち上がると警戒しながら隙無く身構える。安倍川は駆け寄るとコンパクトな動きで殴り掛かった。自身の肉体に自信がある男は特に回避する事無く左腕で受け止めた
安倍川は冷ややかな視線を男に向け、落胆した声で告げる
「零点だ。潰れなさい」
次の瞬間、男の左腕が消失した。否、まるで急激に全方位から強力な圧力を加えられたかの様に糸の様に細く押し潰された左腕の残骸が辛うじてぶら下がっていた
「ウグッ…、グァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」
男の萎縮したとしか表現する事が出来ない左腕からは高温になって蒸気を燻らせるも、何故か一滴の血も汗すらも流れる事が無い。強靭な肉体という名の鎧によって今まで受けた事の無い激痛に、体を大きく揺らして辛うじて残った肩を押さえて、男は苦悶の絶叫を上げる
飛びそうな意識を危機感で繋ぎ止めると共に、激痛という強いショックで脳内で引っ掛かっていた何かが浮かび上がった
「アベカワ…、安倍川…!?まさかお前は【方力の紳士】か!?」
「ほう?私を知っているのか。最近は余り表に出ず目立った出番がなかったというのに」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【方力の紳士】安倍川昌
彼は表向きは【公安0課】所属の捜査官だが、本来の所属している組織は【神怪課】、それも本部を除いて最初期に設立された五支部の内の一つである【第四支部】に所属する程の実力者だった
その能力は二つ名にある【ベクトル】という単語が示す通り【力の操作】、正確には【運動エネルギーを中心とした力の方向の操作】を行う事であった
発動条件は接触であり、僅かでも触れさえすれば如何なる物質であろうともその力の方向は支配下に置かれる。エネルギーそのものの大きさは変化させる事は出来ないが、物理的な攻撃を反射したり、逸らしたりする事は勿論の事、別のエネルギーの方向を変化させて増加させたり、別々の方向に向ける事で力の分散を行う事すら可能としていた
その事から彼の紳士的な物腰と相まって【方力の紳士】という二つ名を得る事となった
先程、男の左腕が萎縮して僅かな体液すら零れなかった理由も、肉体、正確には細胞の大気圧と反発する力の方向を大気圧と同じ方向に反転させた結果、一切の抵抗も無く一瞬で圧縮されたのだ。加えて高圧力によって急激に体液が沸騰して蒸発した為、僅かな体液すら零れなかったのである
更に言えば男―ゲオルグ・マックイーンの常軌を逸した怪力と呼ぶべき膂力と文字通り鋼の肉体による防御を捨てた肉弾攻撃に対する相性が圧倒的に良過ぎた
故に男―ゲオルグは己の勝ち目が無い事を理解した。彼が所属する国家【神聖バチカン帝国】にいた頃、彼は魔導書を読む事が無かった。元々自身の肉体で大抵どうにかなっていた上に、所謂脳筋で深く考えたり、黙って読書したりの行動、つまりこういった資料や書物を使う事がとことん苦手だった為だ
それ故に彼は魔術を使う事が出来ない。但し、魔術が使えたとして彼に通用するか、そもそもこの状況で有用な魔術かは全く別問題であるが…
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
安倍川はゲオルグに言葉を返しながら握り締めた左手を突き出す
咄嗟に不格好に安倍川の拳を回避したゲオルグは、安倍川の頭部に向けて残った右手を振り下ろす。その瞬間、安倍川は身を翻して体を傾けて跳躍すると、鞭の様にしなる脚に履いた革靴の爪先がゲオルグの肘辺りに突き刺さり、そのまま容易く斜め上から斬り落とした
切断された腕から鮮血が迸る
安倍川はゲオルグの横をすり抜ける様に空中で捻りを加えて一回転して、返り血を浴びる事無く脚から軽やかに着地する
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」
「君は未熟だ。自らの能力を過信してその上碌に危険な状況に陥る事も無かったんだろう。だからこそ技術、動きの無駄、状況判断能力、そして何より危機感が足りない
そんな碌に死線を潜り抜けた経験の無い君が私に勝利する事は決してない。そしてこれから未来永劫君には決して自由な行動も外を拝む事も許される事はない。観念する事だ【剛力の拳闘士】」
「クソッ!クソォオオ!」
ゲオルグは叫びながら反転し、安倍川に背を向けて走り出す
彼は実は別に指令や依頼を受けていた訳では無く、偶々発生したこの混乱に首を突っ込んで面白がっていただけの部外者であった。故に、ゲオルグが今此の場でどうなろうとも、バチカンからは救助や援軍なんて来ないし、何なら寧ろ足手まといになったゲオルグが余計な事を口走る前に消しに掛かる可能性すらあった
だからこそ、まだ動ける内にいち早く逃走を図る必要があったのだ
「余り得意ではないが仕方ない。【イア・イア・クトゥルフ、フングルイ・フタグン―」
安倍川の口から冒涜的なこの世ならざる存在の力を持つ魔術が詠唱される。すると次第にゲオルグの体に見えざる重しが纏わり付く様に、或いは力が奪われるかの様に目に見えて動きが鈍くなり、何かに押し潰される様に倒れる
ひっくり返った虫の様に半分残った右腕と両足を動かして藻掻くゲオルグを、ゆっくりと歩み寄った安倍川が冷ややかに見下ろすと、手錠をゲオルグの両足につけて拘束した。良く見ると手錠には細かく何処の言語とも似つかない文字らしき物が刻み込まれている
安倍川は声を出す事が出来ず、睨み付ける事しか出来ないゲオルグを冷ややかに見下ろすと端的に告げる
「その手錠には今使用した魔術が刻まれている。だからそれを壊して逃げる事は諦める事だ」
悔し気に恨みの籠った視線を、もう興味も無いと示す様に視線を外して取り出した携帯で連絡をとる。その数十分後、サイレンを鳴らした救急車と檻を積んだ重装甲のトラックがやってきた
【公安0課】の若い男は全身が骨折し、内蔵にもダメージはあるものの幸い命に別状はなかった。ゲオルグが数人がかりで檻に運び入れ、カナリアと鏡華も救急車に乗せられる中、辛うじて意識を保ち、二人を守る様に立っていた孝義に安倍川が近付き肩を叩く
「良く頑張ったな」
「あり…がとう…ござい…ました…」
そこで緊張の糸が切れた孝義はそのまま意識を失った。倒れてきた孝義を受け止めた安倍川は小さく笑って溜息を吐くと、背負って救急車に乗り込んだ。扉を閉めた救急車は混沌とした街中を未だ機能している病院に向け、サイレンを鳴らして走っていった
---------------------------
「…ふん、使えん奴だ」
その言葉と共に建物の陰に隠れていた白衣の仮面を着けた男がその奥に姿を消した
次回、紀矢子saidです




