55.対【八尺】戦 片現
ともかく、最近寒い···
現在、改稿中です
男を背負って雨水で泥濘む土を均しただけの道を走る紀矢子は、彼等が【青梅村】に侵入時の道――では無く、【火冶神社】を目指して移動していた。
任務は救出だったが、其れを優先して【八尺】を【青梅村】の外に解き放つ訳にはいかないし、流石にアルベルト単独であの神格をそう長い時間抑え込む事が厳しいだろう事が分かっている。だからこそ、少しでも戦力を増やす為に、そしてあるかどうか分からないが【火冶神社】に何か打開策が存在する可能性に賭けて紀矢子は必死に脚を動かしていた。
(樋口ちゃん、無事でいてね……ッ!!)
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大鎌の刃が全身から力が抜けていくアルベルトの背中から引き抜かれる。立った姿勢で縫い止めていた大鎌の刃が無くなった事で、アルベルトは其のまま崩れ落ち――
――正面で実体化した【八尺】に首を掴まれて止まる。鬱陶しい邪魔者を仕留めた事を確信して、【八尺】は広い帽子の鍔の下で嗜虐的な笑みへと顔を歪め、命が潰えた矮小な存在の死に顔を拝もうと持ち上げて覗き込もうと腕を上げようとする。
【八尺】は此の時、完全に油断していた。慢心していたとも言える。だが、其れもしょうがない事だろう。方や鼓動する心臓も呼吸する肺も完全に破壊された間もなく死ぬ事が決定付けられた瀕死の男。方や其れを為した殆ど無傷の【青梅村】と云う【領域】の主にして大いなる水災の化身。傍から見ても既に決着が付いていると言わざるを得ない状況。
然し、そんな圧倒的優位な状況で己を勝者と確信して気の緩みが生じたからこそ――
「【こうして触れられるならば、其の身体は物理的な物を透過する事は能わず】」
――唐突に発せられた其の言葉の出処の把握と眼前を通り過ぎた物に対する反応が遅れた。
アルベルトの身体が再び揺らめき、唐突にアルベルトの首を掴んでいた筈の右手から重みが消えたと感じるよりも早く、次の瞬間には【八尺】の右肩から袈裟斬りされて鮮血が噴き出す。
其れで【八尺】は漸くアルベルトの首を掴んでいた右腕を下から斬られて返す刀で袈裟斬りにされた事に気が付いた。同時に流水或いは霧として透過出来る筈の【蛇蝎】の刃が実体を捉えて深手を負わせた事、そして肺が完全に破壊されて呼吸すら出来ない筈なのにアルベルトから声が聞こえてきた異常性にも気付き、思わず後ろに下がりながら何が起きたのかとアルベルトを見る。
「『いやはやなんとも参ったな。久し振りに表に出られたかと思えば満身創痍とはね。…いや、此れが今回の縛りか』」
アルベルトは胸に風穴を開けられて心臓と肺を破壊されており、とてもでは無いが発声するどころか生存すら不可能である筈なのに、流暢に飄々とした口調で些か演技臭く困った様に呟き、【八尺】の事等眼中に無いかの様に胸の傷と無くなった右腕を眺めて仕方なさ気に歎息する。
アルベルトが顔を上げて【八尺】を見る。其の眼は死に掛けて濁った散瞳では無く、虹色の膜を張った見据えた者を射竦める様な鋭く力強い眼光を放つ歴戦の猛者だけが持つ眼だった。そして、其れは【八尺】すらも例外では無く固まっていると、アルベルトは更に言葉を紡ぐ。
「【支配者の勅令】、【簒奪者の掌握】、【捕食者の彷徨】、【破滅への繁栄】、【激情の剛力】、【零落する羨望】、【停滞する安寧】、【原初への衰退】、【偽装される真実】」
アルベルトが一節紡ぐ毎に気配の圧が増し、【領域】内の何かが決定的に書き換わる様な感覚が【八尺】に不穏な予感を与える。
【八尺】の顔からは既に笑みは消えている。背筋に走る怖気と悠久と呼ぶに相応しい時を生きた経験が、【八尺】に目の前の男は甚振られ翫ばれるだけの哀れな獲物では無く、確実にこちらの首に手が届き得る脅威と呼ぶに足る存在であると認識を改めさせざるを得なかった。
アルベルトは両足を引き抜き沈む事無く地面に立つと、前傾姿勢になり【蛇蝎】を右肩から背中に回す様に構える。対する直感的に逃げる事が出来ないと感じた【八尺】は大鎌を両手に持ち、刃を下げて切り上げて迎撃する事を選んだ。
アルベルトが地面を蹴る。【八尺】は最早文字通り肉を切らせて骨を断つ事になる事を許容して、防御を一切捨てて一瞬で肉薄するアルベルトの腹部を刺し貫く為に絶妙なタイミングで最小の動きで振り上げた。
刹那、通り過ぎた様にアルベルトが【蛇蝎】の刀身を下ろした状態で【八尺】の背後に立つ。
【八尺】が握る振り上げられた大鎌は長年風雨に晒された様に錆朽ちてボロボロになり、刃物として使う事は出来そうに無い。
大鎌から放された【八尺】の左腕は霜に覆われており、其れ以外の箇所は一見すると無傷に見える。然し、実際には負傷箇所が一瞬の内に急速且つ過剰に活性化した体組織が癌化して肉体を蝕み、身体能力や権能が弱体化され、更に権能の一つの【魅了】が剥奪され、存在の一部が食い千切られており、実際はかなりのダメージを受けている。
其れを為したアルベルトはと云うと、残心したままの姿勢でポツリと一言呟く。
「『嗚呼、又勝てなかったよ』」
負荷に負けた【蛇蝎】が中程から罅が走り、バキリと音を立てて折れて砕けた刃が地面に突き立つ。
口や鼻から鮮血を噴き出し、グラリと身体を揺らめかせると其のまま前に倒れて泥水を跳ねさせる。
アルベルトはうつ伏せに倒れたままピクリとも動かない。仮に未だに生きているならば、【八尺】にとって恰好の状態であり後顧の憂いを断つならば確実に止めを刺すべきだが、【八尺】は下手に刺激して今度こそ自身を滅ぼされる事態になる事を恐れて、止めを刺す事はせずに大鎌を捨てると肉体を霧化させて此の場から離れた。
「あぁ~あぁ~、派手に逝っちまいそうになってんなぁ~?まぁ、お前は死ねねぇがなぁ」
何れ程時間が経ったのか、何時の間にかアルベルトの背中の上に猫の状態で乗ったシュレディンガーはそう呆れた声で、そして最後に皮肉気な嗤い声を投げ掛ける。それに対して何も返さないアルベルトを喉を鳴らし、口角をチェシャ猫の様に吊り上げて嘲笑った。
「なぁおい。【ダイン】何があったんだ?」
「……分かりません。私にはどう説明すれば良いのか」
人の姿を取った【ダイン】はそう答える事しか出来なかった。例えあの時に助太刀していたとして恐らく結果が変わらなかったとして、彼女は今迄【八尺】への畏怖で硬直して戦闘に参加出来ずに傍観していただけであり、更に少なくとも戦闘の最後に起こった一連のアルベルトの異変については何も分からないのだから。
「クックックッ、まぁ良い。何時までも寝られても面倒だし助けてやるよ」
其の言葉と共にシュレディンガーの全身が黒い焔となって瞬く間に燃え上がり、身体が崩れてアルベルトの全身に燃え広がって包み込んだ。
シュレディンガーが変化した黒焔はアルベルトの全身を燃料とする様に煌々と燃え上がる。
軈てアルベルトを包み込む黒焔の勢いが段々と弱くなり、そして燻る程度まで弱まる。完全に鎮火した時、アルベルトが何事もなかったかの様な身軽さで起き上がった。
「久し振りの感覚だ」
アルベルトは腕まで伸びる黒い長手袋を着けた右手を開閉する。ふと左手を見下ろすと、何故か半分に折れた【蛇蝎】を握っており、何時の間に折れたのかと一瞬考えて、意味は無いと考え直して止める。
素早く全身に異常が無い事を確認すると、アルベルトは直感的に【八尺】がいるであろう方向へと眼を向けた。
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紀矢子は周囲に急速に霧が立ち込めた事で足を止める。
不自然な濃霧の中で、未だに震える譫妄状態の【怪異対策班】の男を背中から降ろして大太刀を構える紀矢子の目の前に、霧の中に朧気な縦長の影が浮かび、くねくねと揺らめく人型へと変わると、影は質量を持って立体的になり【八尺】が顕現した。
【八尺】の白い帽子やワンピースには所々黒い染みの様な物が広がっており、左腕は何故か凍結している。
殺気立つ【八尺】は笑み等一欠片も無い般若すら生温い恐ろしい形相で、短くも鋭い爪が生える右手を開き腕を伸ばして一直線に紀矢子へと襲い掛かる。
大太刀を横に翳して、左手で刀身の峰を持って両手で受け止めるも、名刀と呼ぶに相応しい研ぎ澄まされた刀身をそんな事は知った事では無いとばかりに力強く握り、人外の膂力を以て真正面から組み伏せんと押す【八尺】にジリジリと圧されて紀矢子が焦りを感じて冷や汗を掻いたその時、【八尺】の胸の中央から美しく輝く白刃が飛び出した。
【八尺】は錆び付いた機械の様な緩慢な動きで首を巡らせ、横目で背後を見る。そこには日本刀を持ち、額に黒光りする長い双角を生やして、腕から先は角と同じく黒光りする戦国時代の小手の様な硬質な甲殻に覆われ、両目は瞳が金、白目が黒く変色した孝義が立っていた。
「そう云えば、心臓が無いんだったな…」
孝義は一度後ろに下がって日本刀を【八尺】の胸から引き抜くと、何かを短く呟き、小さく振り被って【八尺】の首目掛けて横薙ぎに振るう。
雨雲により薄暗い中でも煌めく曇り無き白銀の一閃は【八尺】の首へと迫り、僅かな狂いも無く到達すると共に霧と化した【八尺】の肉体と通り過ぎる。
「ゴポポ、ポ!?」
とある理由で僅かなダメージを受けるとは云え、物理的故に殆ど無力化出来る筈の攻撃。然し確かに頸に走る痛みが、【八尺】に想定外による驚愕と新たに現れた脅威に成り得る存在であると云う認識を与える。
故に【八尺】は孝義を全力で排除する事へと思考を移行させた。
篠突く雨に濡れる【八尺】は大太刀から右手を放すと長い髪を振り乱し、右手の五指を揃えて鋭い貫手を放つ。孝義が其れを半身になって避けて、再び何かを呟くと【八尺】へと斬り掛かる。
孝義が【八尺】を引き付けている隙に、【阿紫霊狐】が泥水を跳ねかせて紀矢子へと駆け寄る。
「一応、間に合った様やな」
「何とかね。そっちは何か収穫はあった?」
「まぁ、其れなりにはって奴やな」
【阿紫霊狐】に続いて到着した彼女の部下達が、【少名毘古那】や【饒速日】等の治癒に関わりのある神格の力を借りた日本固有の魔術による治療や、簡素な結界を張って【八尺】と孝義の戦闘で飛んで来た魔術や水流の余波を防ぐ中、【阿紫霊狐】が紀矢子に尋ねる。
「所で、【酒呑童子】はん、【人間の神話的変異性】って論文は見た事あるかいな?」
「いいえ、無いわね。其の論文がどうかしたの?」
紀矢子の問いに【阿紫霊狐】は真剣な表情で続ける。
「内容としては、要するに嘗てピックマンと云う画家が【食屍鬼】になった様に、【深き者】や人間の子供の姿をした落し子が成長と共に親へと近付く様に、そして力ある【魔人】程人間からかけ離れる様に、人間は神話生物への変異性が高い、と云う事や」
其の時、紀矢子や【阿紫霊狐】達の周囲に【八尺】が生み出した物とは違う、狼煙の様な縦に揺らめいて伸びる白く細長い物が幾つも湧き上がる。
「まぁ何が言いたいかと云うとや、少なくとも此の【領域】内に於いて、【CSO-1032-JP】通称【くねくね】は【宇宙からの色】の磁場異常による変質した変異個体や無い。
【CSO-546-JP】によってPOWを奪われて変異した嘗ての犠牲者達の成れの果てや……ッ!!」
噴き上がる白い蒸気の柱がくねくねと揺らめき、両腕らしき二本の両側に下がる短い蒸気の枝が伸びて、中空に蒸気を拡散させる頭部に値する部分には、子供が描いた様な朧気な輪郭の眼球の無い双眸と唇や歯の無い口がある。
垂れ下がった口角と目尻は犠牲者の悲哀や苦悶を感じさせるが、長い時を邪神に隷属する異形として此の地に縛られた彼等は狂い果て、最早人間だった頃の人格等の名残は存在せず、亡者に成り果てた彼等は本能的に喪った精神と道連れを求めて救いを求める様に、其の実、単純に獲物を取り殺す為に不確かな形の腕が生者たる紀矢子達へと伸ばされて、結界に阻まれる。
然し紀矢子には、其れが長く保たない様に思えたのだった。
孝義はある妖怪の異名を持つ神話生物と人間の間に産まれて能力を継承した【特異体質者】です
また、孝義の持つ日本刀も普通の物ではありません
次回、日本刀の正体が判明しますよ




