108.相対し殿を務める者達、混沌に抗い留められるか
「カロカロカロッ!」
混沌の獣の喉奥に唾液が溜まったまま叫ぶ様な威嚇の咆哮が第二ラウンドの開幕を告げる。背部に横たわる細長い針の様な剛毛が一気に逆立つと、力む様に背中が膨らみ、背部の剛毛が八重樫達へと射出される
「ッ!仕方ありません!」
八重樫は小さく幾重にも折り畳まれた紙片を魔力を込めて混沌の獣に向けて投げると、紙片は空中で勢い良く開き、一面にびっしりと細かく書かれた文字が発光し、射出された剛毛を阻む様に八重樫達の前に透明な障壁が展開される
幾つもの軽く早い物が激しくぶつかる音が室内に木霊し、其の度に紙片に亀裂や穴が現れる。最後の剛毛が障壁に弾かれると同時に紙片がバラバラに破れて塵と化し、障壁が消失する
攻撃が防がれた事で不快気に体毛を震わせる混沌の獣が動き出す前に【公安0課】職員が投擲した閃光手榴弾が、混沌の獣の目の前で炸裂する
「ギュゴッ!?」
目が眩んだ混沌の獣が貼り付いている壁から足を滑らせて真下の檻に体を打ち付けて、落下した檻と共に床に転がる
「逃げますよ!」
八重樫の一言で、職員達は紀矢子と担ぐ職員を数人で囲んで、周囲を警戒しながら部屋から脱出し、残りが床にひっくり返る混沌の獣を注視する
混沌の獣は四つ目を閉じて、額に新たに単眼を形成すると、蜥蜴の様な平たい体を、この部屋に逃げ込む前に見た時の様な猫科の肉食獣じみた形態に変化させ、横に転がって素早く起き上がり、室内に残っている職員へと飛び掛かろうと鋭い爪を伸ばした四肢に力を込める
次の動きに移る為の一瞬の硬直に差し込む様に、職員の一人が投げた手榴弾に別の職員が放った銃弾が着弾して、混沌の獣の目の前で爆発を起こす
目の前に広がる爆炎と放たれる弾雨を嫌った混沌の獣は、身を翻して真横に駆け出すと、近くにあった先程共に落ちた檻の一つを前脚で踏み壊すと、中で暴れていた猿の頭部を咥えて首を捻りながら背後に振り返り、頭部を支点に縦に振り回して床に叩き付けて猿の頸を圧し折り、体を職員達に正対させて縮こまりながら正面に持ち上げる事で銃弾に対する盾にした
弾雨が弱まった瞬間に顎を閉じて胴から噛み切った頭部を丸呑みにした混沌の獣が再び口を開く
前脚が高さを維持したままがに股になる様に長く伸び、体重を支える為に根本の筋肉を増加させて太く変化させながら、骨格が左右に広がる
左右の口角が前脚の付け根まで、下顎が中心から縦に胸部に至るまで深く裂け、其処から伸びる無数の触手が首を失った猿の死骸に絡み付き、体内へと引き摺り込む
自身の体格よりもやや大きい其れを呑み込んだ混沌の獣が、体を膨れさせたまま三つに裂けた顎を閉じると、非常に高い圧力によって圧し折れる骨の乾いた音を響かせて、獲物を圧縮する事で体を元の状態へと戻して行く
膨れた胸部に合わせる様に他の部位が大きくなり、がに股だった前脚を元の形状に戻す。其の際に単眼が拡大する頭部に呑まれ、代わりに再び左右の側面と正面の二対の双眸が開かれる
混沌の獣は、自身の体長以上の長さを持つ細かな鱗で覆われた尾を一度床に強く打ち付けると、自身の上を一周させる様に、尾を更に伸ばしながら部屋全体を横薙ぎに払った
混沌の獣の背後にあった檻が中にいた猿や鼠等の動物ごと減速する事無く切り裂かれ、壁に深い傷が走る
「伏せろっ!」
八重樫の鋭い言葉に職員達は一斉に床に伏せようとする。しかし、脱出した紀矢子達を追わせない為に出入り口の側に固まっていた為に、それぞれが伏せる空間を作る為に離れる様に動こうとした事で、僅かに行動に混乱が起きてしまった
「もう少し離れッ!?」
「こっちも人がッ!?」
自身を見下ろす不届き者を刈り取る凶刃が遂に職員達の直ぐ側にまで迫る
反応が遅れ、混沌の獣よりも姿勢が高い職員の首を、上半身を、腕を、既に消耗していた装甲ごと容易く切断し、鮮血を撒き散らす
「グァアアアアアアアッ!!」
「ガフッ!グ…」
「ッ!左右に分かれろッ!!」
室内を一周した尾は混沌の獣の背後で一旦撓ると、今度は天井を切り裂いて縦に振り下ろされた
八重樫達は其れをそれぞれ左右に分かれて転がる事で回避する
床に深く食い込んだ尾は引き抜かれると、先端が分裂して近くの床に転がる死体の一つに絡み付き、引き戻すと死体を口に放り込み咀嚼する
八重樫達が体勢を立て直すとほぼ同時に、死体を呑み込んだ混沌の獣が床を蹴る
拳銃やアサルトライフルの銃口が向けられると直角に曲がり、壁や檻、天井を足場に途中で死体を捕食しながら縦横無尽に室内を駆け回り、職員達に狙いを付けさせない
「当たらなッ!」
「味方に気を付けろ!」
頭上から天井を蹴って真下に急速落下する混沌の獣を、散開して転がって回避した職員が直ぐに振り返って銃撃を行なう
【神怪課】や【怪異対策班】と違って【公安0課】の職員達は基本的に職務上、人間が対象であるが故に、身体変化の【特異体質者】の半人半獣は時折相手取る事はあっても、此れ程の大きさの完全な四足獣を相手取る経験が多いとは決して言えない
しかし、其れでも幾つもの現場を戦い抜いた実戦経験が、何処か緩慢な視界の中で思考するよりも早く、体が無意識にそれぞれに近い堅牢な剛毛に覆われていない四つの眼球へと正確に銃口を向け、引き金を引いた
放たれた銃弾が四つの眼に吸い込まれ、貫いた穴から鉄錆臭い赤い液体が吹き出す。其れは間違いなく混沌の獣の鮮血だった
「グギャウグルァ!?」
「ッ!眼に通った!」
混沌の獣にとって痛みとは、こうして姿を保つだけでも常に自身を苛むが故に、今更眼球が四つ程度銃弾でグチャグチャに破壊されても大した事ではない
されど、視覚を潰された事は混沌の獣にとって問題であり、周囲の硝煙の臭いとけたたましい発砲音が情報の洪水となって混沌の獣の次の行動の判断を鈍らせる
既に目測していた為、頭から床に激突する無様を晒す事無く、前脚から着地するが、次の一歩を踏み出す先を考える様に其の場に留まり、鮮血を流す四つの眼窩で見回す様に頭部を左右に動かす
「今の内に削りきれ!」
「関節だ!機動力を奪え!」
其の隙を逃さぬ職員達が銃口を混沌の獣の四肢、特に関節へと向けて発砲する
短いとは言え、其の強度と吸収性で四肢を保護する剛毛は、削られながらも直ぐに再生して四肢を保護するが、集中的に放たれる幾十、幾百の銃弾が其れを上回る
剛毛の下の強靭な爬虫類の鱗状の皮をも貫いた銃弾が関節を損傷させる。其れにより体重を支えられなくなった混沌の獣の体が脱力した様にガクリと大きく揺れる
「ガ、ギァ…ッ!ガァアアアアアアアア!!」
混沌の獣は脚を修復しながら左右に開いて其の場に踏み止まると、混沌の獣を中心に吹き荒ぶ風が抜け落ちた剛毛を乗せて職員達を吹き飛ばす
腕で顔を庇いながら風に押されて下がった職員達の目の前で砕かれた関節と四つの眼が肉体を作り変える生々しい音を立てて再生していく
職員達が再び混沌の獣に銃口を向けた時、其の内の一人の目の前に瞬間移動したと錯覚する程の速度で、前脚を職員の頭上に振り上げた状態で肉薄する
職員に其処から対処する余裕は無い。せめて致命傷を避けようと体を逸らそうと動き始めた時、背後から後ろに引かれ、職員と混沌の獣の前脚の間に、関節を真っ直ぐ繋いだ骨の装飾が施された黄金の錫杖が掲げられた
混沌の獣の前脚が、錫杖の表面を削りながら軌道を僅かに逸らされて鋭い爪が床を抉る
標的にされた職員と入れ替わる様に、頭巾の付いた豪華な深い紫色のローブと銀の頭蓋骨の様な仮面で完全に全身を覆った、【納骨堂の神】モルディギアンを崇拝する者にとっての神官の正装を纏った八重樫が、混沌の獣の爪を受け流した錫杖の中程から左手を離して右手だけで持つと、上に向けた左手に虚空から、少し離れていても何らかの力を感じさせる人皮の装丁が施された古びた本が現れる
―闘いはまだ終わらない




