105.魔風と実験体の強襲
八重樫、紀矢子sideです
―「危ないっ!」
紀矢子が【公安0課】の職員に飛び付いて、一緒に倒れ込みながら床を転がると同時に【公安0課】の職員がいた場所に何かが落下し、庇う為に背を向けていた紀矢子の背中を浅く切り裂いた
「ウグッ!?」
「【酒呑童子】っ!」
「大丈夫よ!」
紀矢子と【公安0課】の職員が立ち上がって背後を見る
「…ググ…ギ…」
振り返った紀矢子と【公安0課】の職員、そして扉を潜らなかった八重樫達の目の前、扉の向こうの真上と言う死角から現れて襲い掛かり、今灯りに照らし出された其れは、あまりにも冒涜的でまともな精神を持つ者にとって嫌悪する物だった
其は簡単に言えば蜘蛛と人間の混合生物と呼ぶべき物であったが、その言葉で連想されるであろうアラクネの様に整然とした存在では決してなかった
例えるならば、酷く欠損した蜘蛛と人間の設計図を継ぎ接ぎにして無理矢理形作った様な、或いはそれぞれを適当に千切って粗雑に一つに組み直した様な精神に爪を立てる様なおぞましい姿をしていた
顔の左半分が外骨格じみた白い硬質な物に変異して隆起し、そこに埋め込まれた眼は甲虫の複眼ではなく、正気を失いギョロギョロと忙しなく様々な方向を向く、瞳孔が拡縮を繰り返す幾つもの人間の眼だった
口は人間の物と別に、口内から横に開く甲虫の顎の様な物が伸び、何かに濡れて妖しく輝いている
右の胸部の肥大化によって前が広がったボロボロになったワイシャツの下から、短く黒い剛毛に覆われた甲虫の胸部らしき物が覗き、そこから生える右腕は暗い藍と紫に彩られた細長い甲虫の脚に置換され、刀の様に鋭い爪には鮮血が滴り落ちていた
下半身は蛇腹状になって蠕動する甲虫の腹部に変異し、胸部の背後から伸びる左右非対称の、全ての長さが不一致な六本の脚の中には歪な変異の結果、異様に細長く三つ以上の関節を持つミイラの様な人間の面影を持つ右腕や、剛毛に覆われる太く、五指が爪へと変化した人間の脚が二本確認出来た
―ピュー…、ピュー…
続いて、八重樫達はピューピューと言う笛の様な音と共に吹き付ける風が流れてくる背後を振り返る
床には金属製の長方形の格子が、中程からくの字に歪んだ形で落ちていた
天井近くに点々と等間隔に並ぶ空調用のダクト。そこから溢れ出る様にそれはいた
それはピューピューと口笛の様な音を鳴らしながら狭いダクトからゆっくりと研究棟の廊下へと這い出てきた
一般的な生物の全てと違う正気の世界ではあり得ない冒涜的なそれは、柔軟な肉体を流れ出る様に垂れ下がって完全にダクトから出ると床に付く事はなく、翼が無いにも拘らず中空に浮遊した
ポリプ状の両端が丸いおおよそ円柱に見えるそれは乱雑に生えた、丸い五指を持つ短い腕又は脚と、残忍な口を持ち、明らかな敵意と殺意を持って八重樫達と対峙していた
「挟まれた…っ!」
「今、合流す「ガ…ッ!ギァッ!」―っ!?クッ!」
立ち上がった紀矢子の言葉を遮る様に出来損ないの蜘蛛人間が飛び掛かり、血塗れた爪を振り下ろす
紀矢子は咄嗟に【血吸・童子斬安綱】を抜くと、爪を真横から斬り付ける事で軌道を逸らして攻撃を受け流す
蜘蛛人間の爪が床を浅く削ると共に、【血吸・童子斬安綱】の刃が当たった場所の表面が罅割れて、薄紫色の殻らしき薄い半透明の物が剥離して床に落ちる
乱雑に分解した二種の素材を考え無しに組み合わせた様な身体構造の不格好さ故に、飛び掛かって落下する勢いを六本の脚では止められずに大きくよろめいて次の動きが遅れる
紀矢子が其の隙に首と思われる部分へと【血吸・童子斬安綱】を振り下ろそうとした時、自身の心臓が一度大きく鼓動する音を聞くと共に脱力感を感じる
急速に【血吸・童子斬安綱】を握る手から力が抜け落ちて、狙っていた頸から剛毛に覆われた胸部の外骨格に逸れて浅く斬った
「どうした!?」
「グッ…!まさか爪に毒が…!?」
心臓が早鐘を打つ様に鼓動を刻み、呼吸が浅く早くなっていき直ぐに過呼吸になる
目眩が襲い、全身が燃える様に熱いのに極寒の雪原に裸でいる様にゾクゾクする程の悪寒を感じ、ダラダラと脂汗が流れる
襲い来る吐き気を、歯を強く食い縛り、歯の根が合わなくなりそうな全身の震えごと抑え込もうとするが、靄が掛かる様な思考力の低下と次々と現れ悪化する体調が其れを許さない
視界が歪む中、紀矢子が蜘蛛人間に目を向けると、蜘蛛人間は爪の罅割れた部分を口に近付けて唾液らしき液体を其処に垂らす
爪を濡らす液体は表面を伝って薄く覆っていく。そして胸部の剛毛に爪を擦り付けると、其処には僅かに厚みを増した傷一つ無い爪があった
「まさかマニキュアか何かみたいに爪の表面を毒でコーティングしていたとは予想していなかったわ」
(かなりの猛毒ね。とても今から刀を振り回すどころか碌に動く事も出来そうに無いわ。と云うかやったら十中八九、途中か終わった後に其のまま死ぬわねぇ…
敵は実験体と思われる蜘蛛人間とかなり小型の飛行するポリプ。近くには私が庇った【公安0課】の若い子一人
八重樫達でも挟まれたこの状況では直ぐに合流出来そうに無いわね)
思考が鈍った頭で紀矢子はなんとか状況を整理して打開策を探る
【鬼闘化】は代謝が上がって一瞬で全身に毒が回りかねない為に却下。かと言っていつまでも動かずに睨み合いをしている訳にはいかない
「カナリアちゃんがいないのが痛いわねぇ」
「【酒呑童子】!体は大丈夫か!?」
「爪をコーティングしていた猛毒を食らったわ。まともに動けそうにないわね」
紀矢子の其の言葉に、八重樫は思わず歯を強く噛んで焦燥に顔を歪める。そしてそうしている間も事態は動く
蜘蛛人間が再び飛び掛かろうとすると同時に、先程吹いた風と同じ位の逆風が通路を吹き抜けて空中でバランスを崩し、落下して床を転がる
八重樫達は踏み止まる事が出来たが、毒に侵されていた紀矢子は【血吸・童子斬安綱】を床に突き立てて支えにしていたが、力が入らず体勢を崩して倒れそうになる
紀矢子に助けられた【公安0課】の職員が慌てて受け止めるが、体格差で受け止めきれずに膝を突く。荒い息を吐き、脂汗を流す土気色にも見える青白い顔の紀矢子を見て、【公安0課】の職員は想像以上に状況が悪い事を理解した
飛行するポリプは自身が生み出した向かい風の中を滑る様に移動しながら、風によって動きが止まった【公安0課】の職員や【神怪課】の仲間を五指のある触肢で掴もうと伸ばす
其の時、風で転がる蜘蛛人間が【公安0課】の職員の一人に運悪くぶつかり体勢を崩す
其の隙を見逃さなかった飛行するポリプが触肢を伸ばして間近まで近付いた時、鋭い物が柔軟なポリプ状の肉体を刺し貫いた
飛行するポリプを刺した存在―蜘蛛人間は更に飛行するポリプへと人間の手を伸ばす
人間の口からは液体に濡れる昆虫の大顎じみた異形の口が、人間の顔の顎を無理矢理外して破壊する程に溢れる様に露出して、仲間から一転して獲物へと変わった飛行するポリプへと伸ばされた
解説
【飛行するポリプ】
・宙に浮かぶ半物質の円柱形のポリプ状生物。移動速度が地味に速い
・体の好きな所から丸い五指のある触肢を作れる上に透明になれる
・風焼けを起こす強風や引き寄せる逆風、仲間と力を合わせて暴風を起こせる
・ピューピューと口笛を吹く様な音を鳴らす




