92.回想~終幕~
寒いです
回想は終了します
後味悪い終わり方なのでご了承ください
震度4は優にある振動と地鳴りが細い階段に響く中進んだ扉の先、決して広くない白い部屋にバスタブ程の大きさの水槽が置かれていた。他に何もない部屋に置かれたそれには風もないのに漣立つ淡く様々な色を浮かべる灰色の粘体がギリギリまで満たされており、泡立ち仄かに言い知れぬ悪臭を漂わせていた。
八重樫達が水槽に近付くと灰色の粘体の中央がボコボコと泡立つと共に同心円状に波打ち、そこから盛り上がる様にしてそれは現れた。
湧き上がる様にして立ち昇った灰色の粘体の柱は80cm程の高さまでくると凝固し、変形を始めた。それはのっぺりとした顔の髪の長い簡易的な女性の上半身のマネキンの様な形をとったかと思うと凹凸が生まれ、灰色だった色彩は生身の人間と遜色ない血の通った肌色へと変わった。
一糸纏わぬ上半身を晒したその存在は、紛う事なく【片山美奈子】の姿をしていた。
それは目を開いた。そしてぼんやりとした視線を八重樫達に向けると口を開いた。
「お前達は…成程。私を殺しにきたか。」
「まだ何も言っていないが?」
「私は【子】らを通して外の事は全て把握している。お前達の今までの行動も全てな。」
「なら話は早い。死にたくなければ【沼男】を止めろ。」
「無理だな。奴らの感覚は共有しているが根本の部分は完全に独立している。故に私に止める術はない。序に私を殺した際に特定の個体を残す事は不可能だ。私が死ねは例外なく其の身は朽ちる事となる。」
「そうか…。ならば死ね。」
「ふむ、構わん
…
…
…と少し前なら答えていただろうな。答えは〝否”だ。」
そう答えた瞬間、水槽から無数の触手が生み出される。汚水をゼラチンで固めた様な触手は蠕動して脈打ち、先端が諸刃に尖った物や鋸状になった物等、明らかに殺意を込められた形態をしていた。
「人間を捕食した【子】らから流れてくる【感情】という物は実に奇妙で面白い。そしてそれと共に私にも独自の【感情】が芽生えたのだ。
当然、死の恐怖も。故に私は死なない為にお前達に死んでもらう。そして私の【子】らが人間と成り代わるのだ。」
その言葉と共に触手がしなりながら鋭い先端を八重樫達へと突き出してきた。その瞬間、八重樫はおどろおどろしい声音で早口に詠唱を開始した。
「っ!【大いなるルルイエに眠りし主よ。偉大なる其方の力を借り受け歯向かう全てを束縛せん!イア、イア、クトゥルフ。フングルイ、ムグルウナフ。クトゥルフ、ルルイエ。ウガ=ナグル、フタグン。イア、イア、クトゥルフ!】《クトゥルフの鷲掴み》ッ!」
触手が届く直前に八重樫の詠唱が完了する。次の瞬間、急激に重力が増したかの様に触手が全て床に勢い良く落ちる。本体も同様に背を丸めて必死に何かに抵抗する様子を見せていた。
「こ、これは!?」
「魔術師だって食らっただろうから分かるだろう?」
「厄介な…。」
忌々し気に呟く【母体】に八重樫は冬治に肩を借りながら構えた拳銃を頭部と思しき場所へと二発放つ。
銃弾は魔術的な重圧の束縛に屈する【母体】の頭部へと着弾する。鮮血らしき体液を噴き出すもその活動は止まる事なく抵抗で触手や上半身を揺らしていた。
それを見て【美奈子】が【母体】に駆け寄ると腕を巨大な肉塊へと変化させて振りかぶった。
「…私を殺せばお前は死ぬぞ?」
振り下ろす直前に放たれた【母体】の言葉に思わず【美奈子】の腕が止まる。それを見た【母体】は口角を釣り上げて嘲る様に嗤うと言葉を続ける。
「お前達もだぞ?お前達の中に私の【子】がいない保証が何処にある?私の【子】らはそこの例外を除きその自覚がない。それなのに私を殺せばその時は只では済まないぞ。」
「それは…っ!」
「っ!」
【母体】の言葉に那智兄弟は思わず動揺して踏み出しかけた脚が止まる。
「…だからどうした?」
八重樫が静かにそう問い返す。【母体】はその言葉に信じられない様な表情を見せる。
「何?」
「既に死んで成り代わった存在がこれ以上拡大する事を防ぐ為にここまで来た。今更自らが犠牲になる程度で止められるか。
何より【蘇生】とは即ち【死】の否定であり、【生】への冒涜。僕の掲げる教義に反する物だ。【沼男】の個々の人格や精神は認めよう。だが、その存在や在り方は決して認めはしない。」
毅然とした態度で八重樫はそう言うと、冬治の肩に回された腕を外し、片足で前に出る。八重樫は凍てつく様な冷酷な眼差しを【母体】に向ける。それと同時に魔術による束縛が解け、一気に持ち上げられた触手が一斉に八重樫へと向けられ襲い掛かろうとした。
「【【納骨堂の神】よ。永劫たる暗黒を跳ね回り、這い回り、捻じれ蠢く偉大なる葬送の神よ。無形たる御身は深淵たる昏き閃光。四肢なき巨人は生の輝きと熱量を喰らい、死の静寂と凛冽なる終焉を齎さん。
大いなる旧支配者が一柱よ。食屍鬼を従える偉大なる神よ。その力を借り受け生の摂理に反する者に今こそ裁きを与えよう!
イア、イア、モルディギアン。ウルグ、エル、ンガ。グルム、ルグァ、モルディギアン!】《モルディギアンの映し身》」
八重樫の詠唱が室内に響き渡る。おどろおどろしく、吼える様に、嘆く様に、懺悔する様に、称える様に紡がれた詠唱が終わると同時に室内の温度が一気に下がる感覚が襲う。八重樫以外のその場にいる者達は体が震えている事に気付く。しかしそれは寒さによる物ではない。
それは圧倒的なまでの恐怖。
次にいつの間にか室内が暗くなっている事に気付いた。否、そんな程度ではなく今まで気付かなかった事が異常な程の暗黒だった。壁から放たれていたであろう光など何処にもない一切の光源を喰らい尽くした正しく暗黒。その中で感じ取れるのは濃密な死の昏さと冷気、そして長らく閉ざされていた地下墳墓が開かれた時に感じるであろう停滞した時間から漏れ出す埃臭さと底知れぬ不気味さだけだった。
大也と【片山美奈子】はそれだけだったが、距離の近い冬治と【母体】はそれ以外に気付いた。気付いてしまった。
八重樫の左半身を包む様に影の様な何かが現れる。それは一切の光を奪う黒の筈だったが、それに反して直視出来ない程の眩しさがあり思わず顔を背ける。捻じれ、回転し、瞬く間にその姿が刻々と変化をし続ける。
冬治はその圧倒的なまでの冒涜的な存在感と場の異様さから本能的に思考が無意識の内に停止し、その存在を理解する事なく発狂する事を避けることに成功した。
しかし数多の人間を喰らい知識を蓄え知能が向上していた【母体】の思考はその存在を理解する事に成功してしまった。そして捕食した中で得た冒涜的な知識から明確にその存在を理解してしまった。
「あ、アァ…!まさか、そんな!何故此処に神格が…!?」
「さぁ、審判の時だ。」
右足で地面を蹴り、狂気に飲まれてパニック状態に陥った【母体】に向けて左手を覆う異形の一撃を振り下ろす。
混乱しながらも伸ばした触手は輝く暗黒に飲まれて消える。回避どころか移動すら水槽の中にいる為不可能。この状況を打開する策はない。詰みだ。
広がる闇が【母体】を飲み込むと床につくと同時に霧散する。それと共に室内に光が戻った。
――グシャリ
質量のある粘性の物が崩れる音が聞こえる。音が聞こえた場所を見ると【片山美奈子】が立っていた場所に盛り上がった臙脂混じりの粘土の山があった。
振り返ると呆然とした様子の那智兄弟がこちらを見ていた。
「…終わったのか?」
「…あぁ。」
「そう、か。」
大也は泥の山を静かに見て絞り出す様な声で短くそう言う。大也は泥の山を見て後悔の視線を向けると共に八重樫へある種の恐怖と畏怖を帯びた目を向けた。
「…さっきのは何だ?あの眩い闇の様な存在は一体…!」
「…神の一部だよ。この世界の片隅に確かに存在する強大な存在の片鱗さ。」
八重樫の答えに冬治は何か言いたげにしながらもそれ以上何も言わなかった。この世に存在する冒涜なる存在を知った彼がそのまま日常に戻れる事を八重樫は心の中で願った。
八重樫は泥の山の前まで行くと瞑目して黙祷をする。
「…済まなかった。君を助ける事もアイツの妄執を祓う事も出来なかった。
自己満足で君を殺した僕を恨むだろう。憎むだろう。僕はその咎を受け止めよう。
もし生まれ変わる事があるならば平穏な人間としての生を。」
懺悔の言葉を告げた八重樫は目を開く。内心で何処までも自分勝手で独善的な思考に苛立ちを覚えながら那智兄弟へと声を掛ける。
「さぁ、もう出よう。」
八重樫の言葉に那智兄弟は階段へと歩き始める。八重樫は《倉庫》から黒い棒を取り出すとそれを杖に階段へと向かう。途中で一回振り返ると数秒見つめ、無言のまま顔を戻して部屋を出て行った。
那智兄弟と別れ、拠点でひと眠りした八重樫は翌朝、徐にテレビをつける。次の瞬間、速報という文字と共に『大量失踪と奇妙な物質の出現』という見出しでスーツの男がマイク片手に現場を実況していた。その背後には、臙脂色の泥の山と一回り小さい沼男の残骸が映しだされていた。




