義の友
慶長五年 九月十五日
不破の関とも呼ばれ、交通の要所として栄えた関ヶ原に豊臣家を守る為に挙兵した石田三成ら西軍十万、豊臣家の天下を奪い取ろうと野望を露わにした徳川家康ら東軍八万が集結していた。
西軍の中に戦国の世で義を貫き、友情で固く結ばれた者がいた。
大谷吉継と石田三成である。
石田三成は彼がまだ佐吉と呼ばれる頃から豊臣秀吉に仕え、秀吉が天下を手中に収める頃には、豊臣家に無くてはならない存在となっていた。
大谷吉継も三成と同じく、豊臣家に仕える武将の一人で、秀吉が「百万の兵を吉継に采配を任せてみたい」と賞賛するほどの戦上手であり、吉継は何より義を重んじ、相手が秀吉であろうと、堂々と間違いを指摘する為、秀吉の怒りを買い、謹慎を命じられることもあったという。
慶長五年 六月 関ヶ原の戦いの幕開けとも言える上杉征伐へ向かう途中吉継は謹慎中の三成の居城である佐和山城に立ち寄った。
この頃、吉継は謎の病に侵されており、視力は落ち、身体も思うように動かず、顔の出来物を隠す為に頭巾を被っていた。
吉継が三成を待っていると、カチャカチャと音と共に三成が部屋に入ってきた。
「刑部殿、お待たせ致した。」
三成はあまり見せない笑顔を浮かべ、親しげに吉継に会釈した。
刑部とは吉継の官位のことである。
「治部殿、何故鎧具足を身に付けておる?」
治部とは三成の官位のことである。
吉継はカチャカチャというのがすぐに鎧具足の音だと気付いた。
三成は謹慎中の身である為、上杉征伐には参加しないことになっている。
三成は答えた。
「これより大坂に戻り、打倒家康の兵を挙げる為。」
吉継は静かに言った。
「お主では徳川内府には勝てぬ。」
内府とは徳川家康の官位のことである。
「やってみねばわからぬ!!」
三成は強く反論した。
一方、吉継は落ち着いた口調で三成を諭した。
「上杉征伐には豊臣家恩顧の大名達も多く加わっておる。虎之助、市松でさえ今では内府殿を慕うておる。一方、お主はどうだ?はっきりと申して、人望が厚いとは言えぬ。今、この日の本にお主に味方するものなど一人もおらぬぞ。」
虎之助、市松とは幼少期から三成らと共に秀吉に仕えている加藤清正、福島正則のことである。
三成は静かに立ち上がると、静かに「刑部殿が何と言おうと、私は家康を討たねばならぬ。太閤殿下の御遺言に背き、秀頼様をないがしろにし、豊臣家の天下を奴に渡すわけにはいかぬ。」と言うと、家来に「刑部殿を送って差し上げよ。」と言いつけ、部屋から出て行った。
佐和山城を出た後、吉継はずっと思考にふけっていた。
確かに徳川家康の所業には許し難い。しかし、三成が兵を挙げたところで、味方するのは少なくとも片桐且元、宇喜多秀家、小西行長、などの奉行衆のみ。到底徳川には敵うまい。友としては三成に協力したいが、それは三成を死に導くも同然のこと。
吉継は寝ずに翌朝まで考え続けた。
陽が高く昇ると、吉継はすぐに佐和山城へ向かい、三成に会い、挙兵を止めるよう説得したが、三成は聞き入れなかった。
しかし、吉継は毎日毎日佐和山城へ通い、三成を説得した。
一週間ほど経ったある日のことだった。
佐和山城へ向かう途中、右手が痛み始め、咳が止まらなくなり、家来達は水や薬を持ってくるなりして大騒ぎになった。
その時、吉継は一つの結論に達した。
どうせ、病に侵され、長くはないこの命。それならば、豊臣家の為、義の為、友の為に使おう。と。
佐和山城に着くと、いつものように三成と面会した。
三成が座ると、すぐに吉継は言った。
「策を聞かせよ。」
三成は少し驚いた表情をしたが、すぐに話し始めた。
「徳川が上杉征伐に動いている隙に大坂で挙兵し、徳川を挟み撃ちにする。戦が長引けば長引くほど、徳川を見限りこちらに付く大名が出てくるはず。そうなれば徳川は上杉征伐どころではない。」
吉継は問うた。
「お主が考えたのか?」
三成は答える。
「私と上杉家重臣直江山城守殿とで考えた策にござる。」
吉継は再び問う。
「徳川はお主と違い、大大名の一人だ。策だけでは勝てぬぞ。誰を味方につける?」
三成は答える。
「毛利様を。」
「毛利を?」
吉継は聞き返す。
三成は答える。
「刑部殿の言う通り、私には人望が無い。しかし、毛利様ならば日の本に名の知れた大名にござる。毛利様が豊臣家に付くとあらば、それに続く大名も出てくるはず。」
と言い終わると、三成は吉継に頭を下げこう言った。
「無謀な戦とは重々承知にござる。その上でお頼み申す。どうか、どうか刑部殿のお命、それがしに預けては頂けまいか?」
吉継は答える。
「相分かった。天下を狙う大罪人、徳川家康を共に討ち果たそうぞ。」
その言葉を聞くと、三成の目からは涙が零れ出し、「刑部殿のような友を持つことが出来たこと、誠に嬉しゅうござる。」と言って深く頭を下げたので、吉継は三成に「そうと決まれば、泣いている暇はない。治部殿、急ぎ大坂へ参るぞ。大坂には諸大名の妻子が人質として暮らしておる。その者らを抑えれば、こちらに付く者も増える。」と言ったので、三成は深く頷き、吉継は三成に支えられながら立ち上がった。
この時より、豊臣家屈指の名将、石田三成と大谷吉継は日本史上最大の戦いにその身を投じていくことになるのである。
三成と吉継は大坂に着くとすぐに人質達を抑え、大坂城では宇喜多秀家、片桐且元、小西行長らが加わり、吉継と三成は挙兵へと動き出した。
吉継は諸大名に西軍へ味方するよう促す文を送りつけ、三成も小早川秀秋らを味方に引き入れようと必死になっていた。
「治部殿、これを真田へ。」
文を受け取った三成は吉継に聞き返した。
「うむ。真田は味方につけておきたい。真田安房守殿は徳川の大軍を上田城で追い払った名将。敵には回さぬ方が良い。それに真田源次郎信繁と言えば我らもよく知っておるし、太閤殿下からも可愛がられていた。我らに味方するに違いない。」
三成は重臣の島左近を呼びつけると、「これを真田安房守殿の元へ届けよ。」と命じ、再び文を書き始めようとした時、三成の家臣舞兵庫守が血相を変えてやって来て、「申し上げます。細川屋敷より火の手が上がりました!」と報告した。
「なんだとっ!?」
三成は立ち上がり、激しく動揺した。
吉継は舞兵庫守に問いかける。
「ガラシャ殿は?」
舞兵庫守は静かに答える。
「我らの人質となるのを拒み、家来に命じ、槍の一突きを受け、亡くなられたそうにございます。」
「厄介なことになった…。」
三成はそう言うと、腹を抑え、部屋から出て行った。
吉継は静かに呟いた。
「この騒ぎに紛れ、逃げ出す者もおるだろう…。」
事実、この騒ぎに紛れ、黒田、加藤の人質は大坂を脱出したのだった。
ある日、吉継の娘であり後に真田幸村の名で知られる真田信繁の妻である春が吉継の元を訪れた。
「父上様、春でございます。」
吉継はゆっくり顔を上げると、「おお、春か。」と嬉しそうに呟き、筆を止めた。
「父上様、御身体は?」
吉継は春の肩に手をやり、「大事ない。」と言った。
「父上様、私と真田の皆様をどうぞよろしくお願い致します。」
と、春が言うと、吉継は右手も春の肩に乗せ、「任せよ。大坂におれば、春も、真田の者らもわしが守っておる故、案ずることはない。春も、しっかりと信繁殿を支えよ。いまは会えぬが、戦が終われば、信繁殿は春を迎えに来よう。」と言った後、両手を春の頬に当て、「それにしても美しゅう育ったの。目がよく見えなくてもそれだけは分かる。春、そなたはわしの自慢の娘じゃ。」とあまりに嬉しそうに言うので、春は「父上様、恥ずかしゅうございます。」と顔を赤らめてしまった。
関ヶ原の戦の後、春は真田信繁らと共に九度山に蟄居となり、大坂夏の陣まで、真田信繁を支え続けた。
同日、三成の元にも、正室のうたが訪れていた。
「うた、よく聞け。もし、私がこの戦に敗れ、捕まり、罪人として処刑されるようなことがあれば、必ず私の最期を見届け、私の最期を私を知っておる者達に伝えよ。」
「かしこまりました。」うたは深々と礼をすると、「御武運を。」と言うと、三成は深く頷き、うたはその場を後にした。
二人にはこれ以上の言葉を口にする必要はなかった。
石田三成の妻としての強さと覚悟だったのだろう。
これが三成と吉継にとって家族との最後の時間だった。
うたが出て言った後、三成は徳川家康から送り込まれたが、三成に惚れ込み、今や側室のような存在になっている伊賀忍のくのいち、初芽を呼びつけ、「これを内密に清正に届けよ。」と命じ、文を渡した。
初芽が「これは?」と聞き返すと、三成は次の文を書きながら、「私が敗れるようなことがあれば、秀頼様をお前がお守りせよ。と書いてある。」と言った。
初芽はそれを聞くと、すぐに加藤清正の元に向かった。
この頃、真田、毛利、長宗我部、伏見攻めの際、徳川家臣鳥居元忠の裏切り行為により、東軍から西軍に寝返った島津など西国の諸大名が続々と味方に付き、その数10万となっていた。
西軍は伏見城を落とすと、吉継の軍勢は関ヶ原に野営、三成の軍勢は関ヶ原から程近い大垣城へ入った。
一方、西軍の手にあった岐阜城は血気にはやった福島正則の手に落ちていた為、東西陣営に緊張が走り、いつ両陣営が激突してもおかしくない状態だった。
さて、ここで戦況を整理しておこう。
関ヶ原に野営しているのは大谷吉継勢、小早川秀秋勢、そして朽木元綱ら四隊が布陣、そして大垣城には三成をはじめとする西軍の主力部隊、信州上田城には真田昌幸、真田信繁、越後には上杉景勝。
一方、東軍は岐阜城に福島正則、そして関ヶ原方面に進軍中の徳川家康本隊、そして家康の息子秀忠は上田城にて真田親子による足止めを食らっていたが、家康の命により、関ヶ原へ進軍している。
冒頭で述べたように、関ヶ原というのは交通の要所で江戸へ行くにも、大坂へ行くにも、ここを通らなければならない。
つまり、西軍としては東軍に関ヶ原を通らせる訳にはいかなかった。
三成らは大垣城を出て、関ヶ原へ進軍。
三成は関ヶ原の北に位置する笹尾山へ、続いて島津、小西、宇喜多らが布陣。
毛利、長宗我部らは南宮山方面に布陣し、東軍の背後を取る形となった。
関ヶ原の南に位置する松尾山には小早川秀秋、その麓には朽木元綱ら四隊が布陣。
そして小早川の裏切りに備える為に、松尾山の麓に大谷吉継が布陣していた。
そして西軍に相対すように東軍は深く前進し布陣。
徳川家康は桃配山に布陣。
息子秀忠は未だ木曽山中を関ヶ原方面へ向け、激走している最中であった。
明治の世になり、この布陣を見た外国人は「これは西軍が勝たなければおかしい」と西軍の布陣を評価したと言われている。
東軍、西軍が布陣し、九月十五日、運命の一日が始まろうとしていた。
午前八時、関ヶ原を包み込んでいた濃霧が薄くなり、笹尾山からは東軍の旗印がはっきりと見えるようになった。
「我らの相手は黒田か。」
三成は呟いた。
石田隊と相対して布陣していたのはあの黒田官兵衛の息子、黒田長政である。
三成が家臣に「左近を呼べ」と命じようとした時、宇喜多隊のあたりから銃声が響いた。
しばらくして、銃声が再び響き渡り、兵士達の叫び声が上がり、軍旗が動き出した為、戦の火蓋が切られたことを三成は理解した。
三成はすぐさま、家臣に「大筒を撃ち込め!」と命じ、迫り来る黒田勢に無数の弾を浴びせ、笹尾山の麓で鉄砲隊、騎馬隊、槍隊を指揮していた島左近、蒲生郷舎による見事な迎撃で黒田勢は笹尾山に近づけなかった。
鉄砲隊による迎撃戦が繰り広げられた後、左近は槍隊、騎馬隊、騎馬鉄砲隊を率い、黒田勢に勇猛果敢に立ち向かい、左近目掛けて迫る敵を、槍で次々に薙ぎ倒し、深く前進し、「石田三成に過ぎたる者ここにあり!!」と叫び、槍を振るっていたが、敵の軍勢が徐々に多くなり、苦戦し始めたので、撤退しようとしたところ、黒田家家臣後藤又兵衛率いる軍勢が左近に襲いかかった。
又兵衛は槍で左近を二度、三度突いたが左近はこれを防ぎ、又兵衛を押し返したが、左近の太腿に一発の銃弾が命中したことにより、左近は馬上から崩れ落ちた。
そこを又兵衛が槍で突いてきたが、左近は咄嗟に刀を抜き、槍を斬りはらい、自分の槍を又兵衛目掛けて投げつけた。
槍は又兵衛の脇腹をかすった。
又兵衛は脇腹を押さえながら、黒田の陣に退いていった。
左近もまた、家臣達に担がれ、笹尾山に戻った。
「左近!!しっかりしろ!左近!!」
家臣達に担がれ、戻ってきた左近の元へ三成が駆け付け、必死に呼びかける。
左近は少しだけ目を開け、かすれた声で、「殿…。少し暇を頂戴致す。」と言うと、目を閉じてしまった。
三成はしばらく「左近!!起きろ!左近!!」と呼びかけ続けていた。
一方、吉継は藤堂高虎勢と激しい戦いを繰り広げていた。
吉継は病で身体が思うように動かない為、輿に乗って采配を振るっていた。
吉継の元に家臣が走ってくる。
「申し上げます!!小早川が裏切りましてございます!!朽木らもこれに同じ!」
それは日本の歴史上有名な裏切りの一つ、小早川秀秋の裏切りを告げるものだった。
しかし、吉継は冷静だった。
「やはり裏切ったか…。小早川らを食い止めよ!ここから先に行かせてはならぬ!」
吉継はすぐに態勢を立て直し、目前に迫る藤堂勢、小早川勢を食い止めようとしたが、藤堂勢、小早川勢、朽木元綱ら四隊の猛攻は凄まじく、程なくして吉継の大谷隊は壊滅し、吉継は家臣達と共に茂みの中へと向かった。
「わしはこれまでじゃ。腹を切る。」
吉継の周りの家臣達は皆、涙を流し、嗚咽を漏らしている。
「五助、わしの首を隠せ。家康にこの醜い顔を見られとうない。」
五助と呼ばれた家臣は黙って頷いた。
吉継は脇差を取り出し、腹に突き立てた。
「わしの死後三年のうちに小早川の小僧を祟殺してくれようぞ。」
吉継が死の間際に残したとされるこの言葉通り、小早川秀秋は三年後、21歳という若さで謎の死を遂げる。
吉継は笹尾山の方に目をやり、静かに呟いた。
「三成、先に逝くぞ。」
大谷吉継は自刃。その首は見つからなかった。関ヶ原合戦後、藤堂高虎の手により吉継の墓が建てられた。石田三成の墓は幕府により破壊されたが、吉継は敵からも一目置かれる武将だった為、その墓が破壊されることはなかった。
大谷隊の壊滅で、小早川勢がなだれ込み、西軍の敗色が極まり、戦場に残る西軍は島津隊と石田隊のみとなった。
「ここまでか。」
三成は呟いた。
そこに島左近がやって来て、「殿、ここはこの左近にしんがりをお任せくださいませ。殿は山を越え、佐和山にて家康相手にもう一戦なさいませ。」と言うので、三成は「無論、そのつもりだ。だが左近、お前を置いて行くわけには行かぬ。お前も共に来るのだ。」と言ったが、左近は「それがしの足では山越えは無理にござる。それならばここで殿を守り、討死致します。ささ、はよう行かれよ。」と言った。
しんがりとは大将が無事撤退出来るように最後まで戦場に残り、敵を防ぐ役目のことである。
三成が黙っていると、「殿、参りましょう。」とどこからともなく初芽が現れた。
三成は黙って、初芽が連れた馬に乗ると、左近を振り返り、「さらばだ。」と言って、馬の腹を蹴り、初芽と共に笹尾山を後にした。
島左近についてはこのような逸話が残っている。
三成撤退後の奮戦は凄まじく、数年後も黒田家の兵士は夢にうなされるほどで、ある時、黒田家臣達が関ヶ原合戦時の左近の鎧具足について口論になり、関ヶ原の時、石田隊にいた者に聞くと、黒田家臣達の言い分はどれもあっておらず、左近があまりにも強いのでその姿を直視出来た者はいなかったということである。
三成と初芽は佐和山に向かっていたが、関ヶ原の戦いの翌日、小早川秀秋の手により佐和山城は落城した為、三成と初芽は山中に身を隠した。
「初芽、近う寄れ。」
岩に座っていた三成にそう命じられ、初芽は三成の側に行った。
三成は無言のまま、初芽を抱き寄せた。
「初芽、そなたに暇を出す。そなたは家康を裏切った身。私と共に見つかれば命はないぞ。」
三成は静かに言った。
「初芽は…初芽は最期まで殿と一緒にいとうございます。」
初芽は涙を流しながら、三成を強く抱きしめた。
しかし、三成は「ならぬ。そなたを死なせる訳にはいかぬ。」とそれを認めなかった。
三成は初芽から手を離し、立ち上がると、「奉公御苦労であった。さらばだ。」と言って、佐和山の方へ歩いて行った。
初芽は涙を流しながら、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
その時、誰かがやって来る音がして、初芽は振り返った。
そこには顔を黒い布で覆った男と五人の鎧武者がいた。
初芽は顔を黒い布で覆った男に見覚えがあった。
「頭…。」
初芽が呟くと、顔を黒い布で覆った男は布の隙間から見えている右目を大きく開き、「これはこれは…。こんなところで裏切り者に出会うとはな。となれば、近くに石田三成がいるということだな。」と低い声で言った。
五人の鎧武者がゆっくりと刀を抜いた。
顔を黒い布で覆った男が右手を上げたのを合図に鎧武者達は一斉に斬りかかった。
しかし、初芽は素早い動作で一人の鎧武者に短刀を突き立て、刀を奪い、残りの四人の鎧武者達を斬り捨て、顔を黒い布で覆った男に斬りかかった。
顔を黒い布で覆った男は、隠し持っていた短刀で、初芽の刀を受け止め、初芽に蹴りを入れ、初芽を押さえつけた。
「お前が俺に敵うはずがなかろう。」
顔を黒い布で覆った男はそう言うと、ためらわずに短刀を振りかざした。
初芽に関しては諸説ある。
関ヶ原以降も生き延び、三成を弔ったとも、存在しなかったとも言われている。
三成は佐和山領内にある寺に匿われていた。
ここで三成に関する逸話が残っている。
その寺の僧侶が三成に「何かお望みのものがありましたらお申し付けください」と言ったところ、三成は真っ直ぐな目で「家康の首」と即答したと言われている。
匿われていた三成だが、「これ以上迷惑はかけられまい」とある日、東軍に下る事を決意した。
関ヶ原の戦いから約一ヶ月が経とうとしていた。
三成は全ての罪を背負わされ、京の六条河原で斬首となった。
武士らしく腹を切ることは許されなかったのである。
六条河原へ護送中、三成は護送兵に水を所望したが、水はない為、「干し柿で我慢しろ」と言われたが、三成は「干し柿は体に毒である。」とこれを断った。
護送兵が「いまから斬首になる者が体の心配か」と嘲笑うと、三成は「そなたにはわからぬだろうが、大義を思ふ者は仮にいま首を斬られようと、最期まで命を大切にし、本望を達しようとするのだ。」と言い放ったので、護送兵は何も言い返せなかったという。
「言い残すことは?」
六条河原で護送兵は三成に尋ねた。
三成は真っ直ぐ前を見つめ、「ない。」と答えた。
呆れた護送兵は刀を構える。
処刑を見に来た聴衆の中に三成の妻、うたの姿もあった。
三成はうたに気づくと、微笑を浮かべ、呟いた。
「刑部殿、太閤殿下、いま参ります。」
その生涯を豊臣家の為だけに捧げた義の武将、石田三成は六条河原にて斬首された。
京の街では三成の祟りを恐れ、供養塔が建てられた。
「三成様…」
供養塔の下で手を合わせる一人の女がいた。
初芽である。
初芽の目からは涙が溢れ出している。
初芽は京の空に輝く太陽の光に目を細めると、供養塔に一礼してその場を後にした。
関ヶ原の戦いより十五年後、大坂夏の陣で吉継の息子、大谷大学、吉継の娘、春の夫である真田信繁らが奮戦するも大坂城は落城。
吉継と三成が守ろうとした豊臣家は滅亡。
吉継の娘、春は城を脱出し、その後家康の許しを得て、京でその余生を過ごす。
豊臣家を守る為に戦った大谷吉継と石田三成の友情と生き様はいまもなお、日本中で語り継がれている。