8 独占したい想いがある
一郎視点です。
「さっき汐里のことを『宮木』って呼んでたな」
前までは『彼女』という三人称だったのに。なんでいきなり。
圭太が『宮木』と呼んだ時、汐里は微かに口の端を上げていた。多分陽介は気付いただろう。俺と陽介しか気付かない表情の変化だった。
「今は『彼女』じゃ変だろ。でも名前で呼ぶのは違うかな、と。だから苗字で呼んでみた」
「そういうことか。何かあったのかと思った」
汐里と何かあったのかと思った。俺の知らないところで何かが。
「何かあっただろ。お前と付き合うことになったから、宮木を『彼女』って呼ぶのが変なんだ」
「……じゃあ、俺のことはまた『イチロー』って呼んでほしい」
幼馴染みの間での呼び方。汐里が提案してクリーガーで知り合った友達同士でも呼ぶようになった。
特別な呼び方。その呼び方を、俺が言うのを止めてほしいと言った。
「いいのか? 『一郎』の方が良いって言ったのはお前だから、お前が戻したいならそう呼ぶけど」
「ああ。優ちゃんが『一郎くん』って呼んでくれるようになったから『一郎』にしてもらったけど、『イチロー』は特別だから」
俺が「一郎くんで良い」と言ったから、優ちゃんは俺を『一郎くん』と呼ぶようになった。
優ちゃんにとって、俺や友希の呼び方は名前プラス『お兄ちゃん』になるから、簡略化した方が良いと思って言い出したことだ。言いにくいだろうし。友希も『友希くん』と呼ばれている。
「『イチロー』っていうのは、幼馴染みとクリーガーで知り合った友達だけにしか呼んでほしくない。たとえ優ちゃんでも、呼んでほしくないんだ」
圭太との関係が変わった今、『一郎』は嫌だった。幼馴染みとクリーガーの友達しか呼ばない『イチロー』が良かった。
ケータから呼ばれる『イチロー』は、何よりも特別だった。
「わかった。じゃあイチロー、今日は俺の家へ来るか?」
久しぶりの『イチロー』という呼び方に動揺した。無理矢理笑顔作ったけど、上手く笑えた気がしない。
誤魔化すように、携帯電話を取り出した。
「ユーキに連絡しておく」
「任せた」
今日は俺の家で勉強会をする予定だったけど、ケータの家でも問題ない。ユーキに変更する旨をメールで送った。
優ちゃんが俺に会いたいと言ったときにケータの家に呼ばれていた。今日もそうなんだろう。
当日に変更することはよくあった。いつもはユーキが俺の家に来てから一緒にケータの家に行っていたけど、まあユーキもケータの家は覚えているだろう。
「一郎くん!」
ケータが「ただいま」を言ってから靴を脱いでいたところで、優ちゃんがリビングから顔を出した。
ケータの家に来るのは久しぶりだ。最近は中間試験があったから、勉強会は俺の家が多かった。たまにユーキの家に行ったりもしたけど。
「ユーキは後から来るからね」
「じゃあ、それまでは一郎くんが教えて」
「俺が教えてやる」
ケータが優ちゃんの背中を押してリビングに入って行った。思わず『ユーキ』と言ってしまったけど、友希の発音はそんなに変わらないから優ちゃんには気付かれなかったようだ。
気を付けないといけない。圭太、圭太。優ちゃんの前では『ケータ』と言わないようにしないと。
途中でケータはお母さんからお茶と軽食を受け取って、机に置いた。
「一郎には第一志望に合格してもらわないといけないからな。自分の勉強優先だ」
「はーい。お兄ちゃんも頑張ってね」
優ちゃんは宿題を広げ、漢字の書き取りを始めた。ユーキに教えてもらいたいのかな。ユーキは小学生の家庭教師をしていたから、教えるのが上手い。
優ちゃんに倣って過去問集を出した。まずは数をこなさないと。
ケータも課題を机に広げて、自分の勉強を始めた。
ケータの集中力は凄い。優ちゃんが手が疲れたと言って休憩していても、気付いていない。優ちゃんと顔を見合わせて笑った。
麦茶を飲みながらケータを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。さっきユーキから「もうすぐ家に着く」とメールがあったから、きっとユーキだろう。
優ちゃんは玄関に走って行った。
そのまま頬杖をついてケータを見ていると、ケータはチャイムの音で顔を上げた。
「すごい集中力」
やっと俺に気付いた。フッと笑って立ち上がり、玄関の方へ向かった。
ケータがどんな顔をしていたか、見ていなかった。
次の日の帰り、汐里からケータの待ち伏せを提案された。昨日はケータが来てくれたから、お返しをしようということらしい。そういうの、良いかもしれない。恋人っぽい。
「下世話なことを聞くけど、恋人の覚悟はしているの?」
ケータの学校に着き、校門の横で待っていると汐里が訊いてきた。
「恋人の覚悟?」
「キスやそれ以上の行為」
本当に下世話なことだった。
キスやそれ以上の行為、か。考えないようにしていたけど、やっぱり恋人っていったらそれは必要か。
まあ、精神的な繋がりで満足している夫婦もいるらしいけど、俺達は思春期だし。生理的に性的な衝動がある時期だ。そこに恋人がいると。
「ケータ以外とは考えられないけど」
「うーわーイチローからそんなこと聞くとは思わなかった。ま、本当の恋なわけね」
当たり前だ。というより、それに気付いたから恋愛感情だとわかったんだし。
お兄ちゃんとはキスはできてもそれ以上は無理だ。頭を撫でられるのは好きだったけど、人に触れられるのは苦手だった。人の体温が苦手だった。汐里はよく一緒にいるから慣れてきたけど、必要以上に触れられたくない。
でも、ケータには触れたいと思った。触れられたいと思った。クリーガーの戦いのとき、指をケータの口に入れたあの感触は嫌じゃなかった。
「あ! やっと来た」
汐里がケータを見つけて手を振った。十分目立っていたけど、遠慮して軽く肩まで手を上げた。
俺達のせいで周りが騒がしくなっていたのに気付いていたけど、無視していた。用があるのはケータだし。
「どうしたんだ?」
「昨日はケータが来てくれたからね。私は付き添い」
「立花の勉強友達? 僕は瀬尾。同じクラスで同じ志望校のライバルだよ」
ケータの隣にいた青年が爽やかに笑って汐里に手を差し出した。汐里はにこやかに握手に応えていた。
瀬尾。どこかで聞いたことのある苗字だった。
来栖有紗と瀬尾秀一。そうだ。お兄ちゃんの友達だ。
「瀬尾……瀬尾秀一さんを知ってるか?」
「瀬尾秀一は兄だけど」
「じゃあ、須賀由宇は」
「由宇さん!? 兄の友達だけど。君は誰?」
「由宇さんの従弟の宮野一郎」
瀬尾は急に手を両手で握ってきた。一瞬悪寒が走った。
気持ち悪い。でも、ケータの友達のようだし、失礼な態度を取らないようにしないと。
掴まれた手をやんわり解いた。
「一郎くんのことは聞いたことがある。僕と同い年の従弟がいるって」
「秀一さんと有紗さんのことは聞いたことがあるけど、友達のことはあまり話さなかった。俺と会うのは年に二回くらいだったから」
お盆と正月くらいでしか会わなかったし。優ちゃんに小学二年の夏休みの話をしたけど、夏休みに遊びに行ったのも数回だ。
瀬尾はいつでもお兄ちゃんに会える立場にいた。瀬尾は俺とお兄ちゃんのことについて話したいみたいだけど。
お兄ちゃんのことについて、共有できることなんて何もない。俺にとっての『お兄ちゃん』と、瀬尾にとっての『由宇さん』は別ものだ。お兄ちゃんも、俺に見せていた顔と瀬尾に見せていた顔は違うはずだ。
ごめんケータ。お前の友達とは仲良くなれそうにない。