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教室では宮野さんと新田君がよく話をしていた。ホームルーム前などに、彼の席で笑い合ったり、宮野さんが新田君をつついたりしている。二人はつき合うことになったのかもしれない。わたしは新田君とご飯を食べるのを避け、近頃は香澄たちのグループとご飯を食べていた。新田君は男友達と一緒に食べている。
新田君は、何度かわたしに話しかけようとしていた。けれど、わたしは何かが恐くて逃げてばかりいた。何かというのは多分新田君の決定的な言葉だ。宮野とつき合うから、昼は別々に食べよう。そう言われるのが恐くて、滑稽なことにお弁当を一緒に食べるのを避けていた。
髪を切ろう、と思った。切ったらすっきりするだろう。思いも断ち切ることができるかもしれない。わたしは土曜日の午後、部活を終えてから急ぎ足で帰り、家の近くの新しい美容室に向かった。いつもの美容室は、美容師さんと親しすぎて髪を切る理由を訊かれてしまいそうだったからだ。
真新しい美容室は、白い壁と床で清潔に整えられ、おしゃれでとてもきれいだった。おずおずと中に入ると、いらっしゃいませと声が上がる。華やかな美容師さんばかりだ。ちょっと体が強ばってしまう。
「あれ? ミーナちゃんじゃない?」
意外な声がした。そちらを見ると、やはり新田君のお姉さんだった。お姉さんはこの間とまた違う髪型にしていて、明るいところで見るととてもきれいだ。わたしは口をぱくぱくさせた。お姉さんは笑い、わたしをシャンプー台に連れていった。そのままわたしは動揺しながらシャンプーをしてもらい、カット台に行った。
「お姉さん、美容師さんだったんですね」
「そうだよ」
お姉さんは面白そうに笑う。
「髪切るの? せっかく長いのにもったいない」
わたしの髪はセミロングで、つやつやしていてきれいだと新田君が褒めてくれたのを思いだし、胸がきゅっとなった。
「邪魔だから、切りたいんです」
「まさか失恋じゃないよね」
お姉さんの一言に、ぎくりとなった。図星だったからだ。鏡の中のお姉さんは、困ったようにわたしを見ていた。
「失恋したの?」
「いいえ、あの」
「何?」
「した、かもしれなくて」
「はあ?」
お姉さんは呆れ返ったように鏡の中のわたしを見た。
「かもしれない? わからないのに髪切るの?」
「えーっと」
お姉さんはドライヤーを持ったままため息をついた。
「告白した?」
「新田君にですか? いいえ」
わたしはどぎまぎした。お姉さんは、心の底からわたしに呆れているようだったからだ。お姉さんはちょっと考え、優しい口調で話し始めた。
「義矢はね、鈍いからミーナちゃんから言わないと何も進まないと思うよ。猫と野球のことしか考えてないような奴だけど、言ったらさすがに反応してくれる。その反応も待たずに大事な髪を切って、諦めちゃうの?」
わたしは黙った。お姉さんの言うことは、もっともだったからだ。わたしにはあまりにも勇気がない。
「でも、新田君はきれいでかわいい女の子に好かれるんです。わたしなんて、かわいくないし」
「ミーナちゃんもかわいいじゃない」
お姉さんは驚いたように言った。わたしはびっくりして鏡ではなく実物の彼女を見た。お姉さんは、わたしに視線を合わせてくる。
「好きな人のことで思い煩う思春期の女の子なんて、皆かわいいものだよ。見た目だって、ぽっちゃりして柔らかそうで、かわいいよ。おしゃれだってちゃんとしてる。それでかわいくないなんて、誰も言えないよ」
お姉さんは、わたしが座っている椅子に、両手を乗せて体重をかける格好になった。
「悩まないで、告白しなさい。勇気を出して!」
お姉さんは、わたしの肩をぽんと叩いた。不思議なことに、わたしは気分が一気に軽くなっていくのを感じた。告白、したい。
「はい」
お姉さんに答えた。彼女はにっこり笑い、わたしに髪型の注文を聞いた。わたしは毛先だけカットすることに決めた。お姉さんはわたしの髪をドライヤーで乾かし、クリップで留め始めた。わたしは不思議と落ち着いていて、やるしかない、と思っていた。
*
日曜日、わたしは午前の部活が終わると先輩のマネージャーと一緒に鍵を職員室に返し、まだ残っていた新田君のところに行った。新田君は数日ぶりにわたしに話しかけられたからか、とても嬉しそうに笑っていた。わたしたちは一緒にバス停に向かう。街はうちの学校の生徒がぽつぽつと歩く以外は人気がなかった。真昼だから、このようなものだろう。小さなビルが建ち並ぶ通りは、曇り空の下で静かに息をしているようだった。
「黒助、元気?」
わたしは訊いた。新田君は大きくうなずき、
「おう、元気元気。ちょっと大きくなったかな」
と言った。
「新田君のお陰だね。黒助が生きてるのは」
「そんなことないよ。黒助の生命力のお陰だし、ミーナだって手伝ったじゃん」
新田君は唇を真一文字にして笑う。わたしはきゅんとして地面を見詰める。新田君は、わたしの価値を容易に見いだしてくれる。
「新田君、いいかな」
わたしは彼の顔を真っ直ぐに見た。新田君は笑ったまま、
「何?」
と訊く。わたしは目が潤むのを感じた。関係が壊れてしまうかもしれない。そう想像すると、怖くてたまらなかったからだ。新田君はいつもと様子の違うわたしを不安そうに見る。わたしは一息ついて、言った。
「新田君のこと、好き」
新田君はこげ茶色のビルの前で足をとめた。わたしもそれに合わせてとまる。新田君は、動揺して何も言わずにわたしをまじまじと見ていた。段々顔が赤くなる。わたしは精一杯の勇気で続ける。
「新田君にはきれいな子が似合うってわかってる。でも、好きなんだ」
「ほんと?」
新田君は、真顔でわたしに訊いた。わたしは何度もうなずいた。わたしは、新田君が好きだ。
「おれも好きだよ」
新田君が小さな声で言った。わたしは耳を疑う。新田君は、耳まで真っ赤になってつぶやく。
「何だよ。こんなことなら早く言えばよかった」
「え」
「言えなかったんだ。まさかミーナがおれのこと好きだなんて、思えなかったし」
「そうなの?」
わたしは胸が一杯になった。何だか、泣きそうだ。
「宮野さんは?」
「宮野は、友達だから断りにくくて、ずるずる日にちが経ってたんだ。明日、断るよ」
「わたし、新田君の彼女になっていいの?」
「うん」
新田君は白い歯を見せて照れくさそうに笑った。わたしは半分泣いていた。ほっとしたのと、嬉しいのとで、体温が上がっていた。新田君はそんなわたしの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「ミーナ、泣くなよ」
「うん」
「おれまで泣きそう」
わたしは新田君を見上げた。確かに、目が妙にきらきらしている。わたしたちは、お互いを見てくすくす笑った。
「行こう。バスが来る」
新田君はわたしの手をぎゅっと握り、そのまま引っ張った。わたしは新田君と手を繋ぐという初めての経験にどぎまぎしながら、歩きだした。新田君は真っ赤だし、わたしも多分おかしな表情をしている。誰も彼もがわたしたちを見ているような気がしてならなかった。
「うちにおいでよ。黒助に会わせたいから」
新田君がわたしのほうを見て笑う。わたしはうなずいた。この上ない満足感につつまれながら、わたしは新田君と歩いた。街がいつもより明るく輝いて見えた。
《了》