第00話 ある少年のエピローグ、ある世界へのプロローグ。
長く艶やかな、それ自体が輝きを放つように目映い金の髪を腰にまで伸ばした美女がいる。いや、美女などという形容では足りようもなく凛と透き通るような美貌。女神、そんな言葉がストンと心の内に落ちてくる音を聞いた。
白磁より尚白く、それより余程温かみを感じさせる玉の、それどころか、珠玉、果ては至玉などという造語を用いてですらまだ生温いほどに美しい肌で形作られる顔の造詣は細やかにスッと通る鼻筋をして、見た者の心を千々、億万とどこまでもどこまでも小さく切裂いていくように切れ長に整っている。
曇りなど一片たりとも存在しない白の中にしんと佇む碧い瞳がもし自分に向けられたのなら、どれだけの至福を感じることだろうか。
その肢体は、飾りなど無粋と切って捨てるように簡素な、けれど決して質素ではないトーガに包まれ、豊満でありつつ華奢。伸びやかにしなやかにさらけ出された四肢は繊細にも関わらず生命を感じさせる。妖艶にして清楚、世のあらゆる嗜好をして理想であると確信させるだろう女性らしい柔らかさはこの世のものとは思えず、『絶世』の言い得た妙に場違いにも感心した。
奇跡と呼ぶ以外に適切な表現などできないようなバランスが生み出すそれは、正に、神の創り賜うた造形。美の一つの極致、女神と呼ぶに相応しいその女性に、俺、天利拓斗はこれが夢なのだと認識することで精一杯だった。
物憂げな面持ちの女神が、不意に手を伸ばす。そのたおやかな手にはいつの間にか小さな石が掴まれていて、そして、面白くなさそうな女神の手からそれは静かに放たれた。
◇ ◇ ◇
「縁日の的屋というのだったかしら? 大して欲しくもない景品を射的で撃ち落してみるようなものよね」
今、俺こと天利拓斗は混乱している。夢だけど、夢じゃなかった。そんな心持である。
あの後、女神が放った石は何万年、何億年の時を経て、何光年という距離を、ついでに物理法則を、あと時空とかを超えながら地球に向かっていく様をまざまざありありそれはもうありのまま見せ付けられた。
そうそう、女神だ、と思った女性はやはり女神だったようで、今は俺の隣のカウンター席で御神酒を嗜んでいらっしゃる。ロックで。
女神のことは、まあ良いだろう。いや、良くないんだけど今はそれより女神が投げた石のことだよ。あれ、隕石だったみたいなんだよね。
隕石が生まれた瞬間から、地球に落ちるまでの一大スペクタクルを特等席で強制的に視聴させられた。地球、その青い惑星に近付いていく隕石。空気抵抗で炎を纏いながら雲を突き抜けて、眼下にはどこか覚えのある町並み、更に高度を下げていく隕石の視点から見下ろすのは心当たりがありすぎる地形と学校の校舎、そして身に覚えがありすぎる位置にある建物。俺が通っていた高校と学生寮だということは、以前見た航空写真を思い出してすぐに理解できた。ロマンを感じる部分も無くはないのだが、やはりその目的と顛末を知ってしまった今となっては非常に複雑である。
曰く、『貴方たちの世界ね、言ってみれば共用の農場というか牧場というか……。そうね、貴方の感覚で言えば山に自生してる果物、みたいなものかしら? 勝手に収穫しても文句が出ない、みたいな』、『マスターとね、貴方の部屋の上の階に住んでる男の子居るでしょ? あの子に当てられるかどうか賭けをしてたのよ』、『結果、見事に外れちゃったわ。あの子、凄い運よね』ということらしい。
結果、女神はこの小洒落て落ち着いた雰囲気のバーに友人を連れてくることになったのだとか。女神友達だろうか? 紹介とかして欲しい。
ちなみに、俺の上の階に住んでいたのは俺の悪友の一人である。その悪友は、隕石が突き刺さるその数瞬前に寝返りを打った。その瞬間には思わず目を剥いたが、隕石はその男子生徒をスルー、その下の階で鼾をかいていた俺の顔に見事直撃しそうなその瞬間に悲鳴を上げながら飛び起きた。
まあ、今更飛び起きても既に過度な残酷表現を演出した後なのだが。つまり、あれだ。俺は完全に巻添えで死んだ。スイーツとか言ってる場合じゃない。
ただ、いつまでもその事実を無視し続ける訳にもいかない。そろそろ受け入れるとしよう。戦おう、現実と。
……あれ? 現実的に考えていくら小さいとは言っても隕石だぞ? あの後寮ごと倒壊とかしなかったんだろうか?
というか、あの寮は四階建てだから俺の下の階にも人が住んでいるはずで……何か、やばい気がしてきた。
「あ、あの! あの後どうなったんですか!?」
「続き、見たいの?」
思わず語気が強くなってしまった俺の声に、女神はなんでもないように返答する。
続きって、あの隕石が俺の顔面を決して言葉に出せないような状態にするヤツだろ……? スプラッタな映像をわざわざ好き好んで見るような趣味は持っていない。夜に一人でトイレに行けなくなってしまう。
「いや、どうなったか教えてもらうだけで良いです。ほら、隕石とかだと寮全部倒壊とかそういうのにならなかったんですか?」
「ああ、それは大丈夫よ。何も大量虐殺がしたかった訳じゃないのだし」
無聊の慰みに人を殺しておいて随分な言い分だと思う。ただ、まあ、それなら俺一人で済んで良かったと思っておくべきなんだろう。多分。
「避けたあの子は全身鞭打ちくらいにはなっただろうけれど、ね」
隕石の進路上に居てその程度で済むアイツは、やはりとんでもなく運を持っているんだろう。これが持つ者と持たざる者の差、というやつだろうか。爆発すべきヤツがのうのうと生き残り、そうでもないヤツが爆散するこの世の中は何か間違っていると思う。
死んでから思うことは一つである。ああ、今日死ぬならいろんな無茶を通してでもそういうお店で女の子のおっぱいを心行くまで揉みしだきたかった、と。いや、現実的に考えるとはやり未成年でそういうのは良くないし、多分無理だろう。となると、頼み込めばなんとかなりそうな女子に拝み倒してというのが現実的だったのだろうか。
――カラン。
俺の下らない思考は女神が傾けるグラスと氷のぶつかる音で霧散した。
「マスター、ギムレットを。貴方も飲みなさい。お詫び、という訳じゃないけれど、おごるわ」
「え、えっと。未成年なんで、何か冷たいジュースをお願いします」
それを聞いてくすりと笑った女神には、何か見透かされたような気がして顔が熱くなるのを止められなかった。
「お客さん」
俺の言葉を聞いたマスターが薄く目を開く。グッと気温が下がったような気がした。
「そうね、カルーアミルクなんてどうかしら」
「……かしこまりました」
マスターが次の言葉を発する間もなく割り込んだ女神の言葉で、その空気が霧散する。その一瞬だけで、俺は体が震え出して止まらなくなっていることに気付いた。
こ、こっええ。感想なんてその一つ以外浮かんでくる訳もなかった。
眼光というのだろうか、もう視線だけで人を斬り殺せるのではなかろうかと思ってしまうほど鋭かった。
思い返すと震えが強くなってくるような気がして、別のことを考えて気を紛らわせることにする。
カルーアって何だろうか。というか、ミルクって『テメーみてーなガキはママにおっぱいもらってさっさと寝ろ』とかそういうことだろうか?
そんな下らないことを考えてようやく、息が止まっていたことに気付いた。
「マスターは酒の神なのよ」
落ち着くのを見計らっていたように、女神の声が聞こえる。それは酒以外を頼むな、ということだろうか?
少し不安になる。未成年で飲酒なんてのは、できれば避けたい。
「あの、カルーアって」
「お菓子にも使うような甘い原液ね。そのままだと濃すぎるから薄めるのよ」
なんだか分からないがお菓子にも使うなら大丈夫だろう。となると次に気になるのは味だ。
「味はどんなのなんですか?」
「甘くて苦味が少ないコーヒー牛乳みたいなものかしらね」
コーヒー牛乳といえば俺の中では紙パックの甘いタイプのものだ。多分、それと似たような味なんだろう。
とりあえず納得してマスターの方を伺う。
カクテルといえばこれ、みたいなイメージがある三角のグラスに、銀色のあの振るヤツから淡い緑の液体が注がれる。ああ、シャカシャカやっているところを見過ごした。などと考えていると、グラスの縁に輪切りにしたライムを飾る。何だろう、多くを語らず流れるように注文をこなすマスターの姿が凄く格好良く見えるのは。
見た目からしてロマンスグレーの整った髪にしっかりとした体つき、皺は見えるものの老けているなんて思えない鋭い眼差しで、なんというか卑怯だと思う。白人の人ってだけでかっこ良く見えたり様になって見えたりするあの理不尽な気持ちに近い。
考えている間にもマスターは澱みなく新しいグラスを取り出して氷を入れる。透明で深みのあるグラスの中で氷を一回し、氷の角が溶ける。そこに牛乳とカルーア、だろうか、コーヒーのシロップだと言われればなるほどと思える濃い茶色の液体を流して三度氷を回した。そしてその上にミントのような葉を乗せる。
「お待たせしました」
俺と女神の前に新しいコースターを置き、その上に今し方できた飲み物を乗せた。
ちらりと女神を盗み見ると、気負いなくそのグラスに口を付ける。こちらもこれでもかという程に様になっていて、なんだか悔しい。
自分の前に置かれた飲み物に目を向ける。ハーブなんて詳しくはないが、多分ミントだろう葉の乗ったコーヒー牛乳にしか見えない。なんとなく負けた気になって、躊躇いながらその飲み物を口に近づける。
匂いを嗅ぐと、鼻をミントの爽やかな香りが通り抜けた。
胸の内のもやもやしたものが解けていくような心地がして、少しだけ飲んでみる。
甘い。そう感じると次に濃厚な牛乳の風味と味がして、その中に強すぎないコーヒーの香りと味がよく絡んでいることが分かる。
このコーヒー牛乳は、美味い。今までのどれより美味い、そう思った。
「貴方の今後の話をしましょう」
グラスを置くと、女神が話しかけてきた。今は死後だ、その後なんてあるんだろうか? そんなことを思いながら女神に目を向ける。こちらを見ながら微笑む女神に思わずどきりとした。
「こ、今後?」
少し上擦った声が出て、慌ててカルーアミルクをもう一口流し込む。
「貴方には二つの選択肢があるわ」
「二つ」
カルーアミルクを嚥下し、呟いてまじまじと女神の顔を見つめる。超絶美人である。今更緊張してきた。
そんな俺に構いもせず、女神は話し出す。
「そう、二つよ。そのどちらも私の世界で生きることになる」
「元の世界には?」
「戻れないわ。あの世界には、誰も戻せない。あの世界で生まれ変わることも、誰にもできない」
「そっか」
元の世界に戻れない。その言葉に、どことなく納得してしまう。
理由は多分、十七年だ。生まれてから十七年。それなりに長い時間で、肝試しだとか神頼みだとか、宇宙と交信だとかなんだとか、結構馬鹿なことをやってきたけどそのどれ一つとして成功なんてしなかった。何一つ不思議なことなんてなかった。
それが今日、今、いきなり自称ではあるが神様と対面して茶飲み話である。死んでみると途端に、ある意味不思議の究極系とも言える存在と遭遇。そういう意味では、これ以上ないくらいに説得力があるように思える。
なんて考えながら、その根拠の薄さに笑いそうになる。
いくら自分を騙そうとしても、もう理解している。今感じているのは、納得じゃなくて期待だってこと。
たった一度だ。一度だけで良いから、年を経る毎に少しずつ積もっていく常識ってヤツを壊して欲しいと、そんなことを考えながら、どこか冷めた目で自分自身を見つめながら、馬鹿げたことばっかりを好き好んで続けていた。
その一度が、今目の前にあるという期待。
その後ろで、こんなものは夢じゃないのかと呟いている部分を黙殺する。
夢なら夢で良いじゃないか。夢で夢が見られないなんてのは間違ってる。少なくとも、俺は夢の中で悲観するほど夢のないヤツではないのだ。
そんな考えを打ち払いながら、今この場のことを考える。
少なくとも、今のこの状況から推測できることがいくつかある。
この場所に居ることから考えられること、『目が醒めたとき』このバーの椅子に座っていて叫びながら転げ落ちた。そして、その直前に見ていた夢のことを女神から説明された。
つまり、少なくとも人が見ている夢を知ることができる技術か、もしかすると人の見る夢を操作するような技術があるということだ。夢の中で俺は確かにこの女神の姿を見ていることを考えると、後者である可能性が高い。
それは即ち、『女神の世界』にはそういった不思議技術が少なからず存在している可能性があるということだ。
そこまで考えて、気になるのはやはり『女神の世界』のことである。
「まず、どういう世界か聞いても?」
「ええ。まず、何もしなければ基本的な物理法則は貴方の世界と同じだと思って良いわ」
何もしなければ。その言葉に期待を募らせる。何故かって、何かすればそういう法則を無視できるってことだろうから。
一つ頷いて、次の言葉を促す。
「……多分気になっていることだろうけれど、魔力というものがある世界よ」
魔力! 酷くチープなその響きに、けれど大いに期待が高まる。いや、誤魔化すのはやめよう。今、死んでいる状態じゃなければ、胸の高鳴りだけで多分俺は死んでいると思う。
その想いがついつい口から零れてしまった。
「それはつまり、魔法とかそういうのがあるってことだよな!?」
女神は、厳かに一つ首肯する。その瞬間、俺の中で爆発的に夢が広がっていくのを感じた。
「そしてもう一つ、スキルが存在する世界よ」
スキル!! 一瞬で去来するのはサブカルチャーに分類される創作物の不思議能力たちだ。そして完全に理解する。
「もしかして、剣と魔法の」
「火薬兵器の地位が低い」
「戦いは数より質の」
「肌や眼だけなんてケチなことは言わないわ」
「多種多様な種族が闊歩する」
「もちろん魔物もいる」
「冒険者や騎士が名を馳せる!」
「ダンジョンの奥には財宝が眠る」
「徹頭徹尾ファンタジーな世界か!!」
「その通りよ。どう? 興味はある?」
ない訳がない! くうっと胸の奥に満ちる熱を確かに感じる。この熱を情熱と名付けよう!
「オーケー、理解したよ。一生ついていく!」
この感動を少しでも分かち合おうと、グッと右手を差し出す。
「流石ね。貴方なら分かってくれると信じていたわ」
女神と二人、しっかりと手と手を握り合う。握手。それは円滑なコミュニケーションの第一歩であり、互いが互いに向ける信頼の一つ目の形である。
感無量。その一つだけが心を満たす。
ふと思い返すのは生前、どれだけ探しても、どれだけ願ったとしても不思議要素なんてのは存在しなかったあの味気ない世界だった。
目を瞑り、黙想する。
――清々するよ。それじゃ、さよならだ。あのくだらない世界とは!!
万感の思い。それこそ、寂しさや無念、強がりと、本心、それに抑えきれない期待、その全部をその言葉に込めて、目を開いた。
「よし! 俺に選べる二つの選択肢、だっけ? それを教えて欲しい」
もう戻れない世界に別れを告げ、これから向かう世界に思いを馳せる。
「そうね。選択肢というのは、どんな姿で私の世界に行くのか、よ。生まれ変わって種族から選び直すか、人間種としてその姿のままにするか」
「種族から選び直すってのは、好きな種族を選べるってことで良いのか?」
「ええ。特別に好きな種族を選ばせてあげるわ。でも、生まれる前のことは全て忘れるから気をつけてね。もちろん、そのままの姿を選ぶなら記憶を失うことはない」
「記憶がなくなるのか……ならこのままが良いな」
確かに好きな種族を選べるというのは魅力的ではある。寿命が長い美形種族とかもう血統書つきの勝ち組だと思っても差し支えないだろうし。
だが、折角のファンタジー世界だ。生前の知識なしでその世界に行けたのだとしても、その世界の素晴らしさというものは理解できないだろう。何故かって、そんな世界で生まれ育てば間違いなくそれが常識になってしまうだろうから。
俺が欲しているのは、生前の少しつまらないと思っていた常識を壊してくれるような不思議なのだ。差異も分からず、新しい常識を得るなんてのは願い下げでしかない。
「一応それ以外のメリットもあるのだけれど、ね」
「と、言うと?」
「加護の強さよ。生まれ変わった方が容量は大きい、と言えば分かるかしら」
「加護?」
「ええ。ステータスボーナスだと思えば良いわ」
なんというか、女神の女神っぽさというのだろうか、例を並べられる度にそれが薄れていくような気がする。酷く俗っぽいというか……俺には非常に分かりやすくて有り難くはあるのだが。
そんな残念な印象を抱きながら詳細を尋ねる。
「それはステータスだけなのか?」
「特殊なスキルだとか、固有の魔法というのも選べるわよ。もちろん、筋力や知力を強くすることもできるけれど」
特殊なスキル……固有の魔法……物凄く心を揺さぶりに掛かってくる単語だと思った。端的に言えば、そういうの、欲しいです!
「えっと、とりあえず付けられそうなものとか、聞いても良いか?」
「多すぎるし、過去の例でピンと来るものがなければ新しく創ることになるからあまり意味はないと思うわよ? それなら、欲しいものが付けられるかどうか答えた方が早いと思うわ」
だから、何が欲しいか言ってごらん? と女神が目で催促してくる。
欲しいもの、欲しいもの。ざっと考えてみよう。
まず、行き先がゲームっぽいファンタジー世界だということを考えると何より欲しいのは安全だろうか。生前の日本並み、とまでは言わないが、そう易々と死の危険に陥るような状況は避けたい。
その次は、やはり、その、ハーレム、というヤツだろう。男なら避けては通れないそういう欲はやはりないとは言えない。
あとは、あとはそうだな。それなりに便利な生活というのは必要だろう。かなりニッチなニーズにも応える日本市場を知ってしまっている分、野生児のような真似はできないという自負がある。
「安全で便利な生活、かなぁ」
「それだけかしら?」
本当に? 嘘でしょ? 女神の目がそう語っている。い、いやだって目の前に女性が居る場で言うには流石に憚れるというかだな。
とりあえず、頷く。自分でも分かる。酷くぎこちない頷きだったと。
「どうせハーレムとかそういうのも欲しいんでしょう?」
「い、いいやほら、俺はその硬派な付き合いというかだな。そういうのに憧れてるから!」
スイマセン、欲しいです。誰がどう聞いても、自分で聞いてすら裏返った声が出た。顔が熱くなっていく。
誤魔化すようにカルーアミルクを煽る。おかしい、冷たい物を飲んでるはずなのに体まで熱い。
「マ、マスター! 何かサッパリした感じのヤツ飲みたいな! は、はは」
「私にはマティーニ、この子にはジントニックでも出してあげて」
「かしこまりました」
「ジントニックって?」
とりあえず、話題を変えるために飲み物のことでも聞こう。おかしい、やっぱり体が熱い気がする。
「少し甘みがある炭酸だと思えば良いわ。で、欲しいものはハーレムと戦闘能力と安全圏というところで良いのかしら?」
「わー! ち、違うんだ! ハーレムとかそういうんじゃなくて!」
女神の視線が露骨に生温い。誰か助けて! と思いながらマスターの方を見ると、丁度二つ目のグラスをかき混ぜ終わったところだった。
半分にカットされたライムが炭酸の上で軽く絞られて、カウンターの上へ。間髪入れずにそのグラスを掴んで半分ほど煽る。確かにサッパリしていて、すっと鼻を抜けるライムの香りが心地良い。
マスターは客同士の会話に干渉する気はないのか、洗ったグラスをキュッキュと磨き始めた。
何とか自力で話を逸らさないと!
「ハーレムを作りたいと言い出せないむっつりくん、一つ困ったことがあるわ」
打開策を考えている間にむっつり認定されてしまった。体が熱い。変な汗が出てきた。
早く話題を変えたい。とりあえず相槌を打つ。
「困ったこと?」
「その三つだと、どれか一つしか選べないわね。むっつりくん、どれにする?」
もう女神は俺のことをむっつりだという既成事実を作り始めるつもりらしい。
「むっつりじゃないから! 天利拓斗って名前があるから! 変な言い掛かりはやめてくださいお願いします!!」
言ってから気付いた。そういえばお互いに自己紹介とか一切してなかった。今更名乗っている自分にまた顔が熱くなった気がする。
「そう、タクト・ムッツリ・アマリね。それで、どれにするの?」
「なんでむっつりがセカンドネームみたいになってるの? ええと、ちょっと待ってね」
何だっけ、ハーレムと……ああそうそう、戦闘能力と安全圏のどれを選ぶかだったはず。
安全圏は捨て難いけど、折角のファンタジーなのにあまりそれに拘ると安全圏から出られなくなりそうな気がする。
ハーレムを作るにしても、旅とかすると危険もありそうだし、そうなると消去法的に戦闘能力だろうか?
もう少し深く考えたい。何か思考が空回ってるような気がする。とりあえず落ち着こう。落ち着いて、足りてなさそうな部分を質問しよう。
「何個か質問したいんだけど」
「ええ、何でも聞きなさいむっつりタクトくん」
「まずなんでむっつり確定なの?」
何だろう、言葉攻めだろうか? また顔が熱くなってきた。これは興奮してる訳じゃなくて単に恥ずかしいだけだ……と思いたい。
「ハーレムが欲しいと認めないからよ」
「それ、ほんとに欲しくなくてもむっつりにされるってこと!?」
「で、次は?」
「え、返答は?」
生温く見つめてくる女神。くそっ、完全におちょくられてる。落ち着け、俺。とりあえず次の質問だ。
「えっと、ギルド的なものとかはあるの?」
「あるわね。依頼の種類の幅はそれなりに広いけれど、危険度の高い魔物ならいつ倒しても報酬を貰えるわよ」
聞きたいのはそこでしょう? とでも言いたげな女神。その通りです。ありがとうございます。
「レベル的なものとかは?」
「レベルもゲームみたいなステータス画面なんかもないわね。あえて言えば、訓練で魔力を扱う技量を上げて、魔物を倒して魔力の総量を上げるという感じかしら」
やっぱり知ってるんだ、ゲーム。とは言わない。多分この女神、地球のサブカルチャーは大体網羅しているような気がする。
「ということは、腕力を強くする、みたいな加護を貰ったらそれは腕力にしか効果が無い?」
「その通りよ。といっても、その場合魔力の量もある程度多くするだろうから他の行動にも効果は出るだろうけれど」
「それだと、知力の場合は?」
「魔力を使って思考速度を早めたり、記憶力を高めたりすることになるわね」
知力すら魔力でどうこうできるらしい。それだと学者だとか何かの技師だとかも魔物を狩ったりするんだろうか。まあ、この辺りは実際に女神の世界に行ってから調べれば良いだろう。
ジントニックを口に含む。甘みと、僅かな苦味、それとライムの香りが心地良い。
「戦闘する場合って、魔力の総量が最重要に聞こえるんだけど」
「魔力だけ多くてもあまり意味はないわ。それをきちんと使える技量が必要ね」
「技量。なんとなく分かるけど、具体的な例えとかないかな?」
「魔力が持久力で、技量が瞬発力、というところかしら。下手な例えよりは分かり易いでしょう?」
なるほど、持久力しかないんじゃ戦闘ではあまり意味がない。むしろ瞬発力の方が重要な場面の方が多そうだ。
戦闘能力という意味で知りたいのはこれくらいだろう。次は安全性と文化レベルの面で知りたいことを聞こう。
「魔王的なのは居たりするの?」
「人間の王族と似たようなものなら居るわね。ゲームみたいな魔王は居ないけれど」
「ええと、やっぱり人が多い場所の方が安全だったりする?」
「魔物という意味ならそうね。人という意味では逆だけれど。地球でもそうだったでしょう? 未開地や田舎なら危険なのは動物や自然、都会なら危険なのは人間だと思うのだけれど」
詐欺とかそういうの、やっぱりあるんだろうか?
「治安は?」
「同じ都市でも地区によって違うわね。スラムと平民街は西洋、欧米と変わらないわ。貴族街なら日本よりも平和だけれど」
基本的には海外旅行に行くような警戒心を持ち続けた方が良いらしい。海外旅行なんて行ったことないんだけど、日本より危険だとあちこちで聞いた事があるような気がする。
「娯楽とか、どれくらいあるの?」
「中世ヨーロッパならどうか、考えてみなさい」
飲む、打つ、買う、という単語が頭の中を走り抜ける。あ、そうだ。
「成人は何歳から?」
「十五ね。そういうところがむっつりだって気付いているかしら?」
またむっつりと言われた。それでも俺はやってない!
「わざわざ言葉にしないで! そういえば戸籍とかどうすれば良いの?」
「気にしなくて良いわ。大半の人が戸籍なんて持っていないもの」
「え、それどうやって税金とか決めてるの?」
「個人ごとに税を掛けるなんてある程度情報化が進んでいる文明圏じゃなければ無理よ。例えば家ごと、畑ごとに掛けているわね。土地代、商売の認可代だと思えば良いわ」
凄いどんぶり勘定だ。あ、でも。
「ちなみに、紙で管理してるの?」
「そうね」
なるほど、納得できる。人口がどの程度かは分からないけど、紙で細々した個人情報なんて管理しきれるはずがない。電子媒体ですらちゃんとしたシステムを作り上げないと難しいだろうし、ほとんど完璧なシステムができたとしても、多分意図的に抜け穴を探すこともできるだろうし。
「そういえば、紙って羊皮紙とかそういうのだったりするの?」
「半々、かしらね。保存性、耐久性に保存状態。後は、利便性も含めた用途で種類が変わるわ。一般に出回るのは普通の紙だけれど、公文書なら羊皮紙というところかしら」
「え、一般に出回るって製紙って結構進んでるの?」
「ええ。印刷もね。知っているかしら? 八世紀の後半には和紙も印刷物も存在したのよ?」
この女神、間違いなく俺より地球のことに詳しい。え、八世紀って千二百年以上前ってことだよな?
と、それよりも重要なことがある。
「ちなみに、本とかは」
「高級品ね。当たり前でしょう? プリンタみたいな技術はないもの。金型で印刷するにしても地球ほど安価にはできないわ」
それを聞いて、がっくりと肩を落とす。
「あれ、そういえば俺ってそっちの言葉とか文字とか分かるのかな?」
「そこは任せておきなさい。日本語と変わらない程度には扱えるようにすると約束するわ」
これは心強い。言葉も分からない場所にいきなり放り込まれるなんて考えたくもない。
「お願いします。割と切実に。あと、医学ってどの程度まで進んでるの?」
「治療用の魔術、魔法と、錬金術を考えれば地球よりよほど進んでいるわ。手術で患部を摘出なんて荒っぽい方法じゃなくて、患部を正常な状態に戻したり、作りなおしたりするのよ」
作りなおすって、何それ怖い。
「ポーション的なものってこと?」
「そういうのもあるわね」
やっぱり傷口にかけると高速再生したりするんだろうか。うん、あんまり考えないようにしよう。
さて、安全性と文化レベルについてはこれくらいだろうか。文字を読めるようにしてくれると確約してもらったことだし、識字率だとかそういうのを聞いても仕方ない。
最後に、ある意味本命の話を聞くことにしよう……でもその前に。
氷がほとんど溶けてしまったジントニックを口に流し込む。
「マスター、何かオススメのお酒、ください!」
これから行く世界では俺は成人している訳だし、ローマに行ったらローマ人がするようにしないといけない。要は郷に入れば郷に従えってこと。
それに、間違いなく俺は冒険者になるだろう。冒険者といえば、なんとなく酒場とかで酒を煽っているようなイメージがある。筋肉質で厳つい顔のおっさんだとか、ニヒルなイケメンエルフだとか、あ、できればセクシーな防具のお姉さんとか居ると嬉しい。
「景気付けかしら? なら、そうね。ウイスキーを二つ。ロックで行きましょう」
「かしこまりました」
マスターが背の低いグラスを二つ取り出す。氷を入れて、くるりとグラスの中で回す。少し丸みを帯びた氷の上に琥珀色の酒を注ぎこんだ。
琥珀の海に大振りの氷が一つ浮かんでいるグラスが、音を立てずに目の前に置かれた。
そのグラスを手に取って、匂いを嗅ぐ。鼻の奥を擽るような刺激と、よく分からない甘い香りの中には木材のそれが交じり合っているように感じる。
匂いだけで酔いそうで、でも良い匂いだと思った。思い切って琥珀色のウイスキーを流し込む。
初めての、刺すような刺激で正直味はよく分からない。飲み込むと、喉から胃へと熱いものが流れていくのが分かる。すると一気に鼻の奥からさっきより濃い香りが抜けた。
「ケホッ!」
少し涙を滲ませながら咳き込む。
「あら、タクトにはまだ早かったかしら?」
女神がころころと笑って、それを横目で見ると一気に顔が熱くなるのを感じた。これはきっと酒のせいだと思うことにしよう。
笑って、綺麗な仕草でグラスを傾ける女神が俺と違ってやけに様になっている。悔しくなって、さっさと質問を投げつけることにした。
「その、一夫多妻制とか、あるんですかねぇ?」
「あるわよ、逆もね」
女神は手の中でグラスを回す。カラ、カラと鳴る氷の自己主張を聞きながら、もう一口ウイスキーを飲んだ。
「なら、奴隷、とかは?」
「いるわね」
即答してにやにやと俺を見つめる女神。やめてください、顔が熱いです。
咄嗟に、ひんやりと掌から熱を奪っていくグラスを覗き見る。
照明の光を乱反射しながら、緩やかに溶けていく氷を見つめた。
体がじんわりと熱い。頭がぼうっとして上手く考えがまとまらない。
何が欲しいのか、か。よくよく考えると、欲しいもので何がしたいのかを考えていない。
どうせなら、前の世界じゃできなかったことをしてみたい。
ファンタジーな世界で何がしたいのかって、最初に思いつくのは冒険だ。なら多分、それが一番したいことなんだと思うことにしよう。
「冒険者って、やっぱり強い方が良いんだよね?」
「そうね」
グッと、ウイスキーを流し込む。
胸が熱い。
決めた。
「なら、それで」
「ええ、任せなさい。それと、これは餞別よ」
女神が言うと同時に、腰の左側に重みを感じた。
慌てて目を向けると、飾りっ気のない剣が一本。そして服がどう見ても革の服って感じになっている。ノービスってイメージするとそれそのもの、みたいな服だ。
「あ、ありがとう」
動揺してグラスを口に付けると、もうウイスキーは飲み干してしまっていた。
「あの扉を潜れば私の世界よ。それじゃ、楽しんできて」
入り口を指して言う女神に頷きを返す。
立ち上がると少しふらふらした。けれど、できるだけしゃんとして扉に向かう。
ああ、そうだ。扉の前で振り向く。
「それじゃ、もう行くよ」
「いってらっしゃい」
もう一度頷きを返して、俺は異世界へと足を踏み出した。
※カルーアミルク:コーヒーリキュールを使ったアルコール飲料。
※ジントニック:炭酸割りのアルコール飲料。
※※ お酒は二十歳になってから!! ※※




