第五話
一週間後、クレイトン家で茶会が開かれる日。
その日は朝から快晴で、茶会にはもってこいの日和である。しかし、私の心中は暗雲立ち込め、憂鬱であった。理由は、クレイトン家に足を踏み入れる事に対し気が重いのと・・・フォレンティーヌと顔を合わせるのが最大の要因である。あの日、街でフォレンティーヌと出会った事は夫には言っていない。愛人と噂される女性について、夫に問いただすほど私は精神的に強くはなかった。
溜息をつき、朝早くから暗い気持ちで茶会に行く準備を始めた。真新しいバスケットに、昨日焼いたクッキーと花、果物をつめる。エダル地方では、昔からある慣習があった。それは王宮以外で開かれる茶会には、各家の物(料理・菓子など)を差し入れ、それを交換しあう慣習である。それは、親睦を深める交流的意味合いだけでなく、各家の伝統・裕福さ・格式・プライドなどを水面下で張り合う、また独身者、特に独身女性にとっては、料理の腕を競い女性らしさや将来良い主婦になるというアピールの場でもあった。その慣習の名残が、今でもエダルには残っているのである。
私は茶会に行く準備をした後朝食の準備を整えた。その後、茶会用のドレスを身につけ、化粧をする。今日は、モスグリーンのシンプルな形のドレスを選んだ。夫の実家に行く場合には、地味でも無難な格好をしていかないと、何を言われるかわからない(地味であっても、嫌味を言われる可能性はあるのだが)。化粧もなるべく華美にならないよう、地味に仕上げた。
用意を終えたところで、身支度を終えた夫も下りてきた。テーブルに着くと、置いてあった新聞を手に取り、読み始める。私は紅茶をいれ、夫の前にカップを置いてから話しかけた。
「おはようございます。あの・・・その、今日の茶会に持っていく物なのですが・・・、これでよろしいですか?」
すると夫は、つまらなそうに横目で差し出したバスケットを眺めた。一応伺いを立てておかないと、後で夫からの叱責や、向こうの家からの言葉が怖い。私は何か言われるのではないかと、身構えて夫の言葉を待った。・・・が、夫は予想に反して軽くうなずいただけで、また新聞に視線を戻した。私はほっとして朝食をテーブルに並べた。
二人で軽い朝食をとった後、馬車でクレイトン家に向かう。
クレイトン家は森を超えた先、なだらかな丘の上に大きな屋敷がある。王宮までは行かないが立派な門を通り、屋敷の玄関に着いた。玄関では壮年の執事が出迎えてくれた。彼は夫に一礼し、挨拶をする。
「アルベール様、お久しぶりでございます。ローラン様とカリッサ様がお待ちですよ。」
「べネ・・・久しいな。父上と母上は、あれから大丈夫だったのか?」
「はい。ローラン様も回復されまして、奥様はほっとされています。」
二人は話をしながら屋敷の中へ入っていく。執事のべネは、義父ローランの父親、つまり夫にとっては祖父に当たる人物、そして現当主ローランと親子二代に渡って、クレイトン家に仕えてきた。もう定年をすぎたので引退したい、といっているらしいが、クレイトン家の隅々を把握しているので当主夫妻が手離したがらず、彼はなかなか自分が望む隠遁生活が出来ないようであった。べネはいつも私にのみ、慇懃無礼に接する。どうも、私はこの執事に嫌われているようだ。前にたまたまこの家の執事・メイドが話をしているのを小耳にはさんでしまったのだが、どうやら格式高く伝統あるクレイトン家に、不釣合いな嫁が来ることを良くは思っていなかったらしい。ベネも貴族の出身であり、また由緒正しいクレイトン家執事としての矜持や、忠誠心が厚いために、成金から貴族の仲間入りした私を認めたくない、という保守的思考は理解しているが、私としては正直、やはりいい気持ちはしない。
客間に通された。それから程なくして、白髪の男性と銀髪の凛とした気品のある女性がやってくる。義父ローランと義母カリッサだった。二人は笑顔でアルベールと抱擁しあった。
「ああ、アルベール、元気だった?しばらくぶりね。あら、ちょっと痩せたかしら・・・?ちゃんと食べているの?体は大丈夫?」
「母上、お久しぶりですね。・・・父上も大丈夫でしたか?体調崩されていたときいていましたから・・・。」
「ああ、もうこの通りだ。心配かけたな。」
親子の挨拶が一通り済み、しばらく近況を報告しあった後、義父と義母はようやく私の方を向いた。私はぼんやりと成り行きを見守り、愛想笑いを浮かべていたが、にわかに緊張する。私はバスケットを握り締め、挨拶した。
「お久しぶりです、お義父様、お義母様。こちらに来るのが遅れてしまい、申し訳ありません。体調を崩されて大変だったとお聞きしまして・・・。」
「あら・・・顔をちっともみせないから、どうしたものかと思っていましたが。まあ、あなたがこの家に来ることを渋っているのは、知っていますけどね。・・・オリエさん、アルベールがなんだかやつれているけど、あなた、妻として健康管理はしているの?夫や家庭を守るのが妻としての役割のはず。まったく・・・良妻として最低限の条件もわからないなんて・・・前から思っていたけれども、あなたはいろいろと常識に欠け・・・」
いきなり雲行きが怪しくなった義母を、それとなく義父が遮った形で私に話しかけた。
「もうその辺でいいだろう、カリッサ。・・・オリエ、良く来たな。ゆっくりしていきなさい。」
それだけ言って、その場を去っていった。義父も結婚前、夫と私の婚姻に反対していた。義母ほど感情をあらわにしないだけ心は軽いが、それでも、私とは必要以上に話さないところに、やはりよそよそしさや良く思われてないことを感じる。義母は義父の後姿を見ていたが、私に向き直りバスケットを指した。
「それは、今日の?」
私はあわててバスケットを差し出し、答えた。
「は、はい。今日の交換用と、花と果物はお義父様、お義母様に、と思いまして・・・よろしければお受け取り下さい。」
義母はしばらく値踏みするように、バスケットを見つめていたが、やがて溜息をついて言った。
「この花、匂いが強すぎますね。それからこの果物も、ローランはあまり好きではないのよ。いただいても・・・困ったわね・・・。とりあえず、べネに預けておきなさい。それから、品物を交換するのに、クレイトンの恥をさらさない物を持ってきたのでしょうね?・・・その表情では・・・いえ、もう聞かないことにしましょう。とりあえず、お客様に粗相の無いように。」
やはり予想通り、義母の言葉は私の心に突き刺さった。私は重くなる心を必死に奮い立たせ、努めて明るく答える。
「あの、申し訳ありません。お二人のお好きなものがわからなくて・・・。これからは気をつけます。」
すると義母は、私の返答が癇に障ったらしく、美しい顔が厳しくしかめられた。
「わからないって・・・アルベールに聞けばいいでしょう。あなた、どこか足りないのね。言い訳は結構。あなたと話していると疲れるわ。・・・アルベール、皆様がこられるまで少し時間があります。皆でゆっくりしましょう。いらっしゃい。」
と、私との会話を打ち切り、アルベールに誘いかけて奥の部屋に去ってしまった。私だって、話かけにくいのに勇気を出して、夫にバスケットの中身を朝確認したのに・・・。そして、夫は何も言わず、うなずいただけだったのに・・・。でも言ったところで、それは全て言い訳なのだ。私は、理不尽さに泣きそうになるのを、うつむき加減になり唇をかみ締めて、ぐっと耐えた。
すると、ずっと黙って様子を見ていた夫が私に言った。
「あの人は、ああいう人だ。」
そして、いつかと同じように大きな手が私の頬に触れた。夫のしなやかな指が、いつの間にか目尻にたまっていた涙を拭い去る。そして、私の腕からバスケットを取り上げると、義母の去った方向へ行ってしまった。
私は、夫の去った方向に行くことは出来なかった。義母にあそこまで言われてのこのこ行くのも怖かったし、クレイトン家の一員としては見られていない中、夫家族の団欒に混じってはいけないような気がしたからだ。とりあえず、やることもなく手持ち無沙汰になってしまった。なにか手伝えることは無いか、近くにいるメイドに尋ねてみるが、「ありません。」と冷たく言われるのみであった。忙しい中、足手まといになるだけだし、そういわれても当たり前といえば当たり前だ。だいたい、主の息子の妻に雑用なんか頼まないだろう。
私は、そっと裏手から外に出て、庭へ回った。義母の趣味で色とりどりのバラが植えてある。ちょっとしたバラ園さながらだ。私はバラのむせ返るような香りをかぎながら、庭においてあるベンチに腰を下ろした。気持ちが沈んでどうしようもない。情けない話だが、こういう時、実家がものすごく恋しくなる。私の実家の両親は、私が夫と結婚しクレイトン家に嫁いでからあまり連絡をよこさない。というか、余程の事がないと連絡しようとしない。うすうすであるが、私と夫、そしてクレイトン家との微妙な関係について、気が付いているからであろう。ここで両親が娘の為に抗議に出てきた場合、エダルで有力な貴族に楯突いたととられてしまい、両親はおろか私がますますつらい立場になること、そして離縁されることを恐れているのだ。離縁を恐れるのは、私の実家自体、今はクレイトンの援助で何とか生活している為に私が出戻りしても困ること、そしてなにより離縁さえしなければ、私が飢える事もなく、またそれなりの庇護を受けられ安泰だ、という親心からであることは、容易に想像できた。身売りされたように考えた時期もあったが、ドレスを送ってきたりする両親を思うと、最近はなんとなくそう考えることが多くなった。
部屋を出たアルベールは、オリエから受け取ったバスケットをべネに預け、奥の大きな居間に入った。窓際の大きいソファには父、その横に母が座ってくつろいでいる。そして母の横には長兄のクロードと妻のイリーナ、弟のブリスがそれぞれ座ってお茶を飲んでいた。兄弟・義姉と挨拶を交わし、母カリッサがアルベールにも椅子をすすめ、座ったところでおもむろに口を開く。
「あら、オリエさんは?」
「気分が悪いとの事で、休んでいます。」と、アルベールは嘘をついた。さすがにあんなことを義理の母に言われては、この場に居づらいだろう。
カリッサは溜息をついた。
「まったく・・・なんであんな娘が家に・・・。やはり、あのハロンドの、成金の家の娘ね。」
すると弟のブリスがニヤリと嗤った。
「兄さん、趣味が悪いですよ。あんな地味な女を・・・。そうそう、聞いていますよ、ミドー伯令嬢との噂。フォレンティーヌ嬢のほうが、よっぽどうちにはふさわしかったのではないかな。」
長兄クロードも横から口を挟む。
「おい、アルベール。いくらなんでも浮気を公にするのは家の恥になるぞ、やるならうまくやれ。」
「クロード兄さん、いいのですか、そんなこと言って。義姉さんの前ですよ?」
クロードの妻イリーナは、夫を少し睨んで言った。
「あなた、それは聞き捨てならないお言葉ですわね。」
「おいおい、冗談だよ。イリーナ、そう睨むな。・・・だが驚いたな。アルベール、お前、いくら縫製の技術がほしいからってあの家の娘を正妻として娶るのは、やりすぎだったのではないか?」
するとここで、カリッサがアルベールに向かって言った。
「本当にそうよ。貴方は家を継がないからって、勝手に決めて・・・だいたい、あの家の縫子を条件なんか飲まずに、一方的に買収すればよかったのよ。お金を積めばなびいたのではなくて?わざわざ回りくどい方法をとることも無かったでしょうに。なぜそれをしなかったの?」
カリッサが言っているのは、オリエの実家、ハロンド家の事である。ハロンド家は優秀な縫製技術を持ったお針子を何人か抱え、その技術は確かなものであった。爵位を得たハロンド家は、その技術で商売に出て一財を築き、成金と称されていたのだ。しかし、昨今縫製器械が普及し、街でも良いものが安く手に入るようになると、時間がかかりそのわりには割高の手縫いの品は廃れていった。また、ハロンド家の現当主、つまりオリエの父は経営手腕があまりなく、せっかくの技術も猫に小判状態であったのだ。そこで、せっかくの手縫いの技術を眠らせておくのはもったいないと目をつけたアルベールが、ハロンド家と交換条件の上でその技術を買った。アルベールは経営の才もあり、その技術を生かして再び莫大な利益を生み出し、さらにその利益の一部をハロンド家に回して援助した。そして当時、ハロンド家から技術を買う際、条件として出されたのが、利益の一部を回し援助することと、オリエを娶ることであったのだ。
確かにカリッサが言うとおり、一方的に周りから追い詰めて、あるいは引き抜きという形で技術を買収する、ということも出来たのだが、なぜかアルベールはそれをしなかった。そこが、カリッサやその息子達にとっては、どうしても首をひねるところだったのだが・・・。
カリッサはさらに言葉を続けた。
「クロードやブリスを見なさい。きちんとした、由緒正しい家柄の方に来ていただいてるでしょう。あなたも、早く離縁して、きちんとした方に来てもらうほうがいいわ。貴方ほどの人なら、良縁がたくさんあるんですよ。」
ちなみに長兄クロードの妻イリーナ、弟ブリスの妻マリアンは、各々エダル有数の貴族の出であった。マリアンはつい数週間に出産し、現在は実家で生まれたばかりの子供と静養している。今回はブリスが出産の報告と、両親の快気祝いをかねて一人で帰省していたのだった。
アルベールはずっと沈黙していた。が、彼は家族の会話が途切れると一言言った。
「終わったことを言っても仕様が無いだろう。兄さん、ブリス、余計なことは言わないでくれ。あと、母上も少しは自重してください。あいつとの離縁は今のところ考えていませんよ。」
するとブリスが驚いたように言った。
「アルベール兄さん、まさか、あの女にほだされたのですか?驚いたな。・・・あんなにけなしていたではないですか。」
アルベールは黙ったままだった。そして、彼の父親のローランも同様に。
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私はあれから庭にしばらくいたが、少しずつ来客の姿を見かけると、先ほどの部屋へ戻った。そこには、先に到着していた義兄・義姉、そして義弟がいたので、挨拶をした。すると義兄・義姉はあいまいに頷くのみ、そして義弟はこう私に冷たく言った。
「ああ、久しぶりではないですか。今まで何していたのです?貴方はこの家で客人か何かですか?クレイトン家の人間に、仮にも、なったのですから、もっと協調性を持ってもらわないと・・・。家のしきたりに従うのが当然では?・・・それから、今日は兄に恥をかかせないでくださいよ。貴方は、兄の横で笑っていればそれでいいのですから。くれぐれも余計なことは言ったり、したり、しないでください。いいですね。」
義弟は私を絶対義姉とは呼ばない。
彼は最後まで私達の結婚には反対し、私の前でも、「成金出身の女を義姉とは認めない。」と言い放っていたのだ。だから、彼の言動は今に始まったことではない為、私も今ではあきらめの境地である。彼との距離は、いくら努力しても今後縮まることは無いと思う。しかし、礼を逸することはできないため、「わかりました。」と返答した。
「まあ、お久しぶりね。ご招待ありがとう。ご主人、もう体はいいのかしら?」
「そうなの。もうひやひやしましたのよ・・・。」
にわかに、客間のホールがにぎやかになってきた。義母とその友人が世間話に花を咲かせ、義兄・義姉、そして義弟、そして夫が招待客に挨拶回りをしている。そして人の波をかいくぐるように、メイド・執事がせわしなく行き来していた。義父も、招待した人々と歓談している。だが、その親しそうな、明るく華やかな雰囲気の中に、私が入っていくのは難しそうだった。だからといって、すみに逃げてしまうと先ほどのように、あとで何をいわれるかわからない。その為、彼らがなるべく見える位置であいまいに笑って、飲み物を注いだりしているしかなかった。それは、なんとも居心地は悪く、手持ち無沙汰であるから、とにかく早く、この苦痛な時間が過ぎ去ってくれるのを、待つしかなかった。
「あら、オリエさんではなくて?」
後ろから聞き覚えのある、いや、忘れたくても忘れられない、妖艶な女性の声が聞こえた。振り向くと、やはりそこには・・・フォレンティーヌが立っている。相変わらず美しかったが、今日は昼間の茶会であり、クレイトン本家に来ているためか、幾分薄化粧であり、ドレスも露出の少ないものを身に着けている。それでも彼女が着ている、淡いブルーの洗練されたドレスは、彼女の魅力を十分引き立てていた。
彼女は私を見ると、扇で口元を覆いくすくす笑った。
「そんなところに立っていらっしゃって・・・そうだわ、私にもお茶をいただけます?」
すぐそばに執事もメイドもいるのに・・・と思いながらも、今回は招待した側の人間になるため、そして厄介な言動をするなと、釘も刺されていたため、しかたなく、近くにあったテーブルのティーポットから、カップに茶を入れて、彼女に給仕をする。彼女は私の入れたお茶を一口啜って、顔をしかめた。
「・・・なにかしら?これ。お茶はとても良いものなのに・・・。オリエさん、あなた主婦よね。お茶の入れ方を、きちんと基礎から習ったほうが、よろしくてよ。お茶のたしなみは、貴族女性の基本ですわ。・・・もっとも、アル・・・あら、ごめんなさいね。・・・ご主人が、このお茶を飲んでいるかは・・・わかりませんけれど。これでは、あの方の嗜好に、あわないのではないかしら。」
彼女の言いたいことは、大体わかる。多分、自分は妻の私よりも、夫の嗜好も把握していると・・・私の知らない、夫の姿を知っているのだと、彼女は言いたいに違いない。私はそのあからさまな発言に、切り返す術を持っていなかった。ちょうどその時、私の後ろから、男性の声が聞こえた。
「フォレンティーヌ嬢、ここにいたのか。」
声のした方向を向くと、黒に近い、藍色の髪に、ブルーの瞳をした、背の高い男性が立っている。彼女を探していたのか、やや額に汗がにじんでいた。彼女は男性の姿を認めると、やや不機嫌になったのが傍目からでもわかった。
「・・・カレル様。」
「御当主に、挨拶をしに行くのだろう?」
すると、彼女は立ち上がり、私に「失礼。」と言って、義父達のところへ行ってしまった。彼女の後姿を眺めていた男性は、私に向き直り挨拶をする。
「はじめまして。私は、ダグラス=カレルと申します。・・・彼女、フォレンティーヌ嬢とは、知人、でしてね・・・。今日もたまたま、一緒に馬車に乗り合わせてきたのですが・・・。」
ダグラスと名乗る男性は、苦笑をしてからまじまじと興味深そうに、私を見つめた。この種の視線にさらされるのはなれておらず、なんだか気まずく感じた。すると、相手のほうが、ふっと、視線をそらして、「これは失礼。」と、言った。私も慌てて、挨拶を交わす。彼はひととおり、当たり障りの無い世間話をした後、もう一度私を見つめてから、去っていった。彼の視線の意味が全くわからず、私はどこかで会った人だろうか、と考えこんでいた。
しばらくすると、考え込んでいた私の耳に、楽しそうな会話が飛び込んでくる。それは義母と、フォレンティーヌの会話だった。
「ローラン様、カリッサ様、お体の具合はいかがですか?父も、心配いたしておりました。本日は父が急用で、私のみの出席となってしまい、申しわけありません。」
「まあ・・・いいのよ。気になさらないで。私達は、あなたに会えて嬉しいのよ。ミドー伯爵には、くれぐれもよろしくお伝えくださいましね。」
「はい。奥様。それから・・・、お二人のお好きなものをいろいろお持ちしましたので、喜んでいただければ幸いです。」
「お気使いありがとう。あら、この花は、私も主人も大好きですのよ。」
義母の声は弾んでおり、顔には優しい笑みが浮かんでいる。周りには二人を囲む人でごった返しており、声と、表情を遠くから伺うだけだが、フォレンティーヌは私よりも、クレイトン家になじんでいるような気がした。
取り巻きの周囲では、ごく小さな声で、「あの次男の愛人と噂の?」「もう未来の母親に取り入っているのか。」「でも次男はまだ離縁してないぞ?」などの噂話が、なされていた。
私はいたたまれなくなり、その噂話をしている集団から、そっと離れた。窓のカーテンの端に身を寄せ、下を向き体の力を抜く。すると、私の前に人影が落ちた。
視線をあげると、そこには夫がいた。妻としての役目を果たさず、何をしているのか、と詰問されると思った私は、慌てて居住まいを正し、小さい声で「申し訳ありません。」と謝罪の言葉を紡いだ。すると、彼は嘲笑するような表情で私を見下ろした。
「物好きというか・・・最近は、変な虫がついてくるようになったもんだな・・・。俺が娶ってやらなければ、本来、誰もお前には近づかないはずだが・・・。なんだ、相手にされないと、やはり女としての本能が雄を求めるのか?」
夫が何を指して、そのようなことを言っているのかは、前回の夜会でのこともあるため、すぐわかった。恐らく、先程ダグラス=カレルと挨拶を交わしていた所を、彼は目撃していたのだろう。私はあの時のように、必死で言い募った。
「違います。あの方は・・・カレル様は、」
すると夫は先程までの表情を消した。そして私に言った。
「黙れ。奴がどこの馬の骨かなんぞ、聞きたくもない。」
夫はそう言った後、私との間合いをつめ、すぐそばにあるカーテンに私を追い込んだ。彼は背が高く、私は小柄、そして大窓の、幅のあるカーテンの陰に覆われた私の姿は、他所から見えないことであろう。
夫は右手で私の顎を乱暴に掴み上げ、上を向かせた。驚いて声をあげようとした瞬間、それは飲み込まれてしまった。なぜなら、私の唇に夫の薄く、形の良い唇が押し付けられていたからだ。彼は空いている左手で私の腰を掴んで引き寄せた。右手は固定したまま、上から激しく貪られる。私は苦しくて涙目になり、彼の腕を掴んで爪を立てた。一度彼は唇を離したが、私の下唇を軽く食んだかと思うと、すぐに角度を変え唇を合わせてきた。彼の舌先が、私の唇をこじ開け、口腔内に侵入してくる。歯列をなぞり、私の戸惑う舌を彼の舌先がくすぐったかと思うと、口蓋を優しく舐めまわした。彼との初めての口付けは、かすかに煙草の香りと味がした。
私はこんな口付けをされたことが無かった為、やっと彼との口付けから開放された後、カーテンにつかまっていないと立っていられなかった。激しい口付けに酸欠気味なのか、頭がついていかない。心蔵が激しく鼓動を打っており、顔は上気しているようだ。一方、夫はあんな口付けをしても息一つ乱れておらず、黙って私の情けない姿を見下ろしていた。
「欲求不満は解消されたか?・・・お前は俺の妻だ。その事実を忘れるな。」
彼はそう言うと、私のそばを離れていった。
私はしばらくそこから動けずにいた。口付けを交わした時間はごく短時間であったはずなのに、私にとっては、永遠とも取れる長い時間に感じた。彼はなぜこんなことをするのだろう。冷たい言動で私に接してしているかと思えば、こんな・・・・・。
なぜ、貴方は私の心を乱れさせるのですか?貴方は、何を考えているのですか?
そう私は心の中で、彼へ問いかけた。しかし、当然、その問いに対する答えは返っては来ない。
しばらくして、私はカーテンの陰で少し乱れた髪を直した。深呼吸をし呼吸を落ち着かせると、徐々に足の振るえも止まってきた。頃合いを見計らって、私はそっとカーテンから出た。
カーテンを出たところで、夫の姿を見つけるが、先程の出来事は夢だったのではないかと疑ってしまうほど、彼はいかにも自然で、何事も無かったかのように招待客と話をしている。てっきりフォレンティーヌといるのかと思ったが、彼女はまだ義母と楽しそうに話をしていた。
やがてピアノの音が鳴り出し、優雅な音楽が響き渡る。それに合わせて、義母と義父がそれぞれ前に出てきた。
「皆さん、よくいらしてくださいました。ありがとうございます。今日は存分にお楽しみください。」
この言葉と音楽を合図に、人々は別テーブルに置き場所を用意され、置いておいた持ち寄りものを取りに行った。そして、優雅な音楽に合わせて、人々が歌い始める。この音楽はエダル地方に伝わる民族歌であり、この地方に住む誰もが、知っているものだ。曲が始まると、どこからともなく歌いながら、皆がもちよったものを交換しあうのである。人々は、親しい人、意中の人・・・それぞれ交流を深めたい人物の側に行き、持参した物を交換し始めた。
私は、その光景を眺めながら、持ってきたものをどうしようか・・・と思案していた。夫家族へのものとは別に、一応、品物を用意していたのだが、考えてみたら、私にはあまり親しい人がこの界隈にはいないことを思い出した。実家の周辺には、同い年で貴族ではない、女友達がいるのではあるが、嫁いで以降実家に帰省していないので、彼女達とも会っていない。
義母・義姉も親しい人達に品物を配っている。女性特有のはしゃぎぶりに、夫やその兄弟達は苦笑いしてその様子を見守っている。そして夫の隣には、いつの間にか、あのフォレンティーヌが寄り添っていた。二人は絵のように美しく、その様子はまるで、彼らが夫婦であるかのように自然だった。
私が遠くから眺めているのは、一族の肖像画のような、そんな家族の情景。フォレンティーヌのいる、夫家族の光景はとても自然で、あたかも元々家族の一員になったのが、彼女であったかのような・・・。 悔しい、腹立たしい・・・そういう怒りの気持ちより、自分が取り残されている現実がつきつけられていることに対して、胸が締め付けられるような、苦しい想いを心の中で強く感じる。それは、激しい疎外感と共に、蜃気楼の先の遠い、手の届かない風景を見るような感覚を伴った。
その光景を、ただただ眺めていると、不意に夫がこちらを振り向く。視線が合った。夫は、皮肉めいた笑みをその美しい顔に貼り付ける。まるで、私へあてつけるかのように。
そのゆがんだ笑みをたたえた彼は、私にとって残酷なほど美しく、また同時に心乱される存在であった。先程キスされたのが白昼夢であったのか、私の願望だったのではないか?私は、彼の何なのであろうか?彼は、私にどうしてほしいのだろうか?そう心の中でまた幾度となく、問いかける。
彼については、ある意味そういう人間であるとあきらめていたはずなのに。キスだけでも、愛情・・・いや、興味を自分に少しは抱いているかもしれない、とおろかなことだが、勘違いしてしまいたくなる。私は、彼に見返りを求めるつもりなど毛頭ない。しかし、相手を黙って想うばかりでは、いつか限界がくる気がしていた。こう想い始めたのも、やはり私の欲からくるものであるのだろうか?
「あの、」
不意に声が後からかかり、私は我に返った。振り向くと、濃茶の長い髪を結い上げた、華奢な体格の女性がそこに立っている。その女性の手には、小さく綺麗な包みが抱えられていた。
「貴方は、クレイトン夫人ですよね。はじめまして。私、バルバラ=ディーツと申します。もしよろしければ、これ、受け取っていただけませんか?」
彼女は私がぼんやりと何もせず立っていたため、気になったのだ、と言った。彼女もまた、交換相手がおらず途方に暮れていたようであった。
彼女が話すには、最近、エダルに別荘を作った夫と共に、こちらに越してきたという。知り合いもあまりいないとのことで、本来はこの茶会も断ろうと考えていたが、夫に近所付き合いを大切にしろ、と言われて連れてこられたそうだ。なんだか、それなりに彼女も大変そうだ。誰もが、何かしら事情を抱えて、この社会に生きているものなのである。大変なのは自分だけではないのだから、と今までの暗い考えを頭の隅に追いやった。気を取り直して、私は彼女に向き直って挨拶をし、名乗る。
「ええ、もちろんです。私はオリエ=クレイトンです。よろしくお願いしますね。私も、あなたに差し上げたいものがあります。よければどうぞ。・・・そういえば、ご主人はどちらに?」
「あ、あら?さっきまでこの辺りにいたのに・・・もしかしたら・・・知り合いがいたのかもしれないわ。主人は、顔の広い人だから。・・・まあ、おいしそうなクッキーですね。ありがとう。あの、私からは最近手に入った、珍しいお茶を・・・。とてもおいしいし、気分も和らぎますよ。」
彼女は笑顔で品物を受け取ってくれた。そして、周囲を見渡すが夫はいないようだ。彼女は夫を探してくる、と言い、会釈して私から離れていった。彼女の姿が見えなくなると、渡された小さな青いラッピングをされた包みを開く。中には乾燥した葉と花が入っている。葉の形が細く、花まで入った茶は確かに珍しい。香りを嗅いで見ると、かすかに柔らかく甘い香りがした。
私は母がお茶好きなのを思い出した。夫やその周囲からの軋轢で苦しんでいる今、実家が恋しくなっている私は、これをおすそ分けする、という名目で一度実家に帰省させてもらえないか、と考えた。情けない話だが、ある意味実家に逃げ帰って、現実逃避するようなものだから、あの夫の様子では、きっと私の考えを見透かし、許しは得られないだろう。なんとかいい理由はないか、と頭の中で考えをめぐらせた。
私はふと、最近やり取りした母との手紙の中で、母も風邪気味であった、と書かれていたことを思い出し、これを理由にして、夫に切り出してみよう、と考えた。これなら夫もうなずかざるを得ないはずだ。そして母にも珍しい、おいしいお茶を飲ませてあげられる。実家が困窮しだしてからは、母は貴重な茶道具、収集していた高級茶葉などは全て売りに出していたので、おいしいお茶を久しく口にしていないはずであるから、きっと喜んでくれるだろう。
私は自分の立てた計画を、今日、この後すぐにでも実行しようと考えていた。
品物の交換も終わり、茶会は滞りなく進んだ。そして茶会はお開きの時間になり、人々は親しい人との時間を名残惜しみつつ、帰って行った。知り合ったバルバラとも、また会うことを約束して別れた。
全ての客人が帰途に着き、私達もお暇しようか、と夫を探していると、玄関に近い別の部屋から押し殺したような声が聞こえた。
“・・・そんな・・・、や・・・・できな・・・”
“・・・りだ・・・“
この声は、忘れもしないフォレンティーヌの声だ。まだ帰っていなかったようである。そして低い声は・・・夫だろう。たまたまだが、密会現場に出くわしてしまったようだ。彼らは、妻や夫の家族達がいるのに、はばからずこんな時までも・・・。私はそこから去らなければならないことはわかっていた。しかし、足が地に付いてしまったかのように離れない。立ち聞きなどという、はしたない真似をしているのはわかっていたが、どうしても二人のことが気になってしまう。二つの感情に挟まれ、迷っているうちに、うっかり床のきしむ音を立ててしまった。中の二人は突然言葉を切って、外の様子を伺っているようである。私は慌ててその場から、小走りで走り去った。やはり、噂には聞いていたが実際、逢瀬を目にするとショックである。それと同時に、彼の理不尽さに対し疑問が湧いてくる。彼は私を責め立てるが、自分のやっていることはどうなのだろう?そんなに愛人がいいなら、いっそ離婚したほうがいいのに。夫の家族だってそれを望んでいる。
無償の愛なんて、ありえないのだ。私だって、好きな人に愛されたい。こんなの苦しすぎる。もう、自分は偽れない・・・私だって彼に愛してほしい。彼に振り回されるのには、もう・・・疲れた。
私が走って客間に戻ると、夫の家族達もおり、一息つこうと軽食を取っていた。程なく、夫も戻ってきた。私は彼をそっと盗み見るが、乱れている様子はない。私は彼から視線をはずした。フォレンティーヌは、帰ったのだろう。
夫は椅子を勧められたが、立ったまま義父たちに帰宅を告げる。
「まあ、もう?いいじゃない、泊まっていけば。部屋はあるし。」
と、義母が残念そうに夫を引き止める。が、夫は答えた。
「いえ、明日仕事もありますし、こいつも気分が優れないみたいだから、帰ります。また、近いうちに顔を出しますよ。」
「そう?・・・仕方ないわね・・・。オリエさん、貴方、もう少し社交性を養って頂戴ね。大方、人酔いしたようなものでしょう?夫に迷惑をかけないようにするのも、妻の務めですよ。わかりましたね。」
私はうなだれた。多分、義母は今日の茶会での私の行動を、逐一見ていたのであろう。話に夢中で、私は眼中にないだろうとばかり考えていたが、そうではなかったようである。人見知りの私にとっては、一生懸命がんばったつもりであるが、義母にいわせれば、努力が足りない、といったところであろうか。だがそれと同時に、心理的には、嫌いな相手だからこそ言動が気になって、槍玉に挙げたくなるのだろう。私は、「はい、すみません。」と謝って挨拶をし、夫と共にクレイトン本宅を後にした。