第三話
内容が長めになります。
夜会当日になった。私は朝早起きして、家事を済ませ、買い物を終えて家路についた。すでに午後3時を回っている。午後6時には夫が馬車を手配しているので、それまでに準備をしておかなくてはならない。だんだん気が重くなってきていた。私はもともと人ごみは苦手だし、過去の嫌な出来事や人の好意的でない視線を思い出すと萎縮してしまいがちである。しかし今はもうアルベールの妻であり、クレイトン家に嫁いだ身。妻としての勤めをはたさなくてはいけないのだ。溜息をついて、ドレスに着替え化粧を始めた。他の女性なら、髪結いや化粧をする専属メイドがいるのだが私にはいないため、それなりに見られるように化粧をした。薄くおしろいを塗り、頬紅を薄くつける。薄い色の紅を唇にさし、柑橘系の香りがする香水を首筋に少量つけた。髪は結い上げ方が難しい、流行の髪型はもちろん私の技術では不可能なため、一つにまとめた髪を、青い小さいコサージュと真珠つきの髪留めで留めた。
この髪留めは、結婚前まだアルベールとであったばかりの頃に、彼から旅行の土産と称してもらったものだ。私はうれしくて、こわれてしまったりしないように、彼と会うとき以外は大切に宝石箱にいれて保管していた。土産物でも、愛する彼からの初めての贈り物である。どんなものでも私にとっては大切だ。しかし彼は結婚後まもなく、私がこれをつけているのを見ると怪訝な顔をして「なんだ、それは?道化かなにかになったつもりか?」と言い放った。私が「あなたからもらったのですが・・・。」というと、彼は顔をしかめて「ああ、あの安物か・・・。忘れていたがな・・・。それはもう付けるな。似合わん。」と鼻を鳴らして部屋を出て行ったのだった。私はショックで自分の角部屋に閉じ篭り、泣いた。捨ててしまえばいいのに、私も未練がましく今の今まで捨てられずにきているのだ。似合わないのはわかっている。分不相応とも言いたいのだろうが、どうしても私は彼とのつながりを自分から断つようなことはできなかった。
だが今回は、それとは別に見栄えのするアクセサリー類を私が持っていず、それだけが唯一もっている髪留めだったから付けたにすぎなかった。いつもは黒いゴムでたばねるか、そのままストレートにしておくかであったから。深い意味はないと思う。だが・・・もしかしたら結婚後初めて一緒に出かけるから、思い出の品をつけていきたいという感傷もあったかもしれない。
なんとか準備を終えて靴をはくと、角部屋の扉をノックする音が聞こえた。私はあわてて扉を開けるとアルベールが無表情で立っていた。彼は一度宮廷からもどってきており、彼も着替えていた。タキシードを着こなし、金髪はゆるく黒いリボンで束ねている。美しい彼のタキシード姿はとても様になっており、女性の目をひきつけてやまないであろう。
「すみません。お待たせして。」
「・・・・行くぞ。」
彼は私の姿を一瞥しただけで、なにも言わなかった。彼にしてはめずらしい。いつもは嫌味の一つも言われると思ったのだが・・・。
屋敷の外にでると、馬車が迎えにきていた。彼はさっさと馬車に乗り込んでしまう。私は普段着慣れないドレスのため、馬車の高い階段を登るのに時間がかかってしまった。その時、強い力で体を引っ張られる。アルベールが業を煮やして私を引っ張りあげたのだ。私はちょっと意外だった。彼は私に関しては、冷たい言動が多い。普段は今のようなことがあっても、不機嫌な顔をし嫌味を言うか、舌打ちするかであまり私には触れないからである。今日はどうしたのだろうか?彼らしくない。
「ありがとうございます。」
と私がいって彼の向かいに座ると、馬車が動きだした。彼は黙ったままだった。
馬車の景色は窓越しに次々と流れていく。夫は馬車に乗っている間中、窓に目を向けていた。一言も発しない。私も窓の外に目をやった。馬車の動く音が聞こえるだけで、馬車のなかは城につくまでずっと静かなものであった。やがて森を抜け、街道を通り過ぎ城門が見えてきた。
馬車が城門内に入り城内への入り口につくと、彼は一人でまたさっさと下車してしまった。私は彼の性格をわかっていたので、転ばないようゆっくり降りようとした。そのとき、腰を抱かれ気がついたときには地に足がついていた。私は目を丸くして夫を見た。彼は無表情で私を馬車からおろすと、私を待つことなく、城内へと足を向けた。王宮はかぐわしい色とりどりの花に囲まれた、それは美しい城であった。外壁は白く、壮麗である。また、吹き抜けの回廊を抜けるとドーム型の広いホールへつくのだが、その天井には高名な画家により、美しい天使や神の壁画が描かれていた。その奥、さらに回廊を進むと王の間がありそこにはクリスタル製の彫刻が置かれ、金銀宝石で彩られた玉座があった。私は王宮に入るのは初めてだったので、全てがもの珍しく、目を奪われていた。田舎者のようにきょろきょろしてしまい、夫にはにらまれていたが。でも、私は今だけは彼の視線を無視した。今度は来られるかどうかすらもわからない。だからこの素晴らしい城をよく見ておきたかったのだ。ホールを抜け、回廊を歩く。しかし、周りに人はまばらであった。そういえば、城門を抜けても人があまりいなかった。そう、彼は夜会開始より遥かに前にここへ着くようにしていたのだ。私ははじめ、彼の意図がわからなかった。しかしついた王の間で、王と王妃がいるのをみて納得した。彼は夜会で人目につく前に、王と王妃に私を会わせたかったのである。私は夫に連れられ、二人の前に立った。
「お初にお目にかかります。本日は、お招きいただきありがとうございました。私はアルベールの妻のオリエ=クレイトンと申します。」
と丁寧に膝を折り、お辞儀をした。すると王は、顔を上げよ、と命じた。王は銀髪に、しわのきざまれたいかめしい顔つきで私を見ていた。脇で王妃も笑顔で私を見つめている。王妃も銀髪であったが、顔はまだ若々しく、はつらつとしていた。王妃が夫をみて言った。
「アルベールほどの人が、どんな美女と結婚したのかしら?と思っていたけど・・・ちょっと意外でしたわね。」
王は黙ったまま、私を値踏みするように見ていた。そして夫に言った。
「お前ほどの男なら、もっと良い女もいただろうに。だから言ったではないか。分家のマルグレット姫との婚姻を進めよとな。」
夫は黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「あの縁談は、私にはすぎたお話です。姫につりあいません、私では。」
すると、王妃はくすっと笑って、夫に言った。
「あれが忘れられない?・・・そうね、あなたも年をとったということかしら。たしかあそこは今年・・・」
私は目の前の会話から突然締め出され、彼らがなにを言っているか理解できずにいた。夫はわかるらしく、無表情できいている。王も静かに王妃の話を聴いていたが、王妃が言葉を切ったところで夫は
「そうですね。私もそれなりに大人になったんでしょう。では、私達はそろそろ・・・」
とさりげなく話を切ってしまった。そのときちょうど宰相が、彼ら自身の夜会の準備のため、王と王妃に退室をうながしに来た。その為、二人との謁見はこれで終了したのだった。王妃は去り際私に「アルベールは才能のある人間よ。妻として足を引っ張らないようにね。」と言い残し、王と共に去っていった。私はうなだれた。アルベールの縁談話は噂で知ってはいたが、いざ自分の耳で事実を聞くとこんなにも苦しいものなのかとつらくなる。しかも、私は彼にとってのお荷物的存在でしかないとみなされるのはわかっていながらも、いざその言葉を実際聞くとやはり傷つくものだ。そして、最後のあの会話・・・妻の私が知らない何かを、他人は知っている。妻扱いされてないからそれも仕方ないのだろうが・・・
私は二人が見えなくなるまで膝を折り、頭を垂れていた。しばらくすると夫から「行くぞ。」と声をかけられ、私は我に返って夫の後を追ったのだった。
王の間から伸びる放射上の回廊の一つを南西に抜けると、美しい広大な庭が見える客間にたどりついた。そこにはたくさんの人だかりができている。男性はタキシード姿、そして女性は色とりどりのドレス姿。華やかな空間がそこにあった。私は夫より二・三歩後から、彼を見失わないようついていくのに必死である。それほど大勢の人間が集まっていたのだ。私は人ごみを掻き分けついていっていたが、もたもたするうちに、ついに彼の背中が見えなくなってしまった。彼は歩幅も大きいし歩く速度も速かったため、私は置いていかれてしまったようだ。もちろん彼は、私を待ってはくれない(見向きもしなかった)ので、わかりきった結果ではあるが。
あたりを見回し夫の姿を探していると、ふいにオーケストラの演奏する華麗なファンファーレが鳴り響き、それと共に王と王妃が螺旋階段から降りて来た。人々は雑談をやめ、静かに王と王妃のほうに向き直り膝をついて頭を垂れた。王が人々を見渡して言った。
「皆のもの、良く集まってくれた。顔をあげよ。今回のこの宴は、我が同盟国ルーニア王家に嫁いだ娘のアデリシアが、無事第一王子を産んだ祝いの夜会だ。今宵は存分に楽しむが良い。」
すると、人々は口々に「おめでとうございます!」といいながら、拍手し立ち上がる。それは大きな波となり、やがて両手をあげて「エダル万歳!!」と叫びはじめた。王はしばらくして、満足そうに手を上げ言った。
「そのあたりでよい。さあ、皆のもの宴を始めようではないか!!」
その言葉を合図に再び室内楽演奏が始まり、王は螺旋階段の上にある賓客席へ、王妃と側近を伴って下がった。また室内に喧騒が戻ってきた。しばらくすると、中央が広く開いて男女がダンスを始めている。演奏もいつのまにかワルツに変わっていた。私は人の合間をかいくぐって夫を探す。しかし見つからないため、休憩しようと近くの柱の隅に身を沈めた。侍女が飲み物をくばっていたのでもらって、一気に飲み干す。度重なる緊張で喉が相当渇いていたようだ。一息ついて、ゆっくりと室内を見渡してみる。久々に味わう雰囲気だが、王宮の宴はやはりスケールが違う。集まる人の多さもだが、華やかさや華麗さも一貴族のそれとは大違いだ、と私は思った。人が多く室内も広いので、私を見知った貴族たちが近づいてこないのもありがたかった。
ぼんやりと人々を見ていると、中央よりやや右に人がたくさん集まっている。目を凝らすと、夫とその友人知人たちが談笑しているのが見えた。彼は交流範囲も広く、容姿端麗で地位もあるためたくさんの人とつながりがある。妻として出て行き、挨拶すべきか・・・と逡巡したが、やめておいた。彼は王と王妃には義務で結婚報告をしているが、それ以外の他人には私のことをおおっぴらに吹聴していない。別に隠し立てしているわけではなさそうだが・・・。ただそれでも、私は彼のまとう雰囲気で、彼が私を妻として他人に認識させるのを嫌がっているように感じた。だから、自分から妻であることを名乗ることは、恐ろしくて出来ない。他人はもちろん、夫からあからさまに嫌がられるのは避けたかった・・・自分が傷つくし、一番は夫に嫌われたくなかったからだ。だから、今もこうして柱のすみっこ
で、自分とは異世界にいるようなきらびやかな集団を、ただ眺めているだけ・・・。
夫はしばらくして、彼の脇にいる女性達のほうに振り向いた。一人はピンクの胸の大きく開いた大胆なデザインのドレスを着た金髪の碧眼美女で、もう一人はグリーンの最新流行デザインドレスをきた黒髪黒目の美少女。そして、青い髪に茶の瞳を持ち、薄いブルーのマーメイドドレスを着た美少女である。彼女らは夫に手をかけたり、寄り添って微笑みあい、なにか楽しそうに話していた。その時、人目を引くラメの入ったばら色のドレスを着た、金髪の女性が夫に話しかけた。夫は振り向き、一言二言言葉を交わすと、その女性と中央へ連れ立って行ってしまった。脇から、周囲の会話が聞こえてくる。
「あれ、アルベール・クレイトンと・・・あいつまた愛人変えたのか。よくやるよ。まったく。」
「あの女知ってるよ。ミドー伯爵の一人娘だろ?たしか・・・フォレンティーヌ・・・だっけ?」
「週末迎えに来てんだろ?アルベールにぞっこんらしいって本当か?あいつに泣かされた子、結構いるんだよなー」
「結婚すんのか?かなり乗り気らしいじゃないか。まあ美人妻を持つにこしたことはないな。ミドーとクレイトンなら組み合わせとしてアリだろう。なにしろ、あの顔に肢体だぜ?」
「まあ、お下品よ、口を慎みなさいな。」
私はその会話を聞きながら、切ない気持ちで夫を見つめた。うすうすわかっていたことだが、週末の帰りが遅いのはやはり女性関係からだったのか・・・。夫はそのフォレンティーヌと呼ばれた女性と、ワルツを踊っている。美男美女がステップを踏み、踊る姿は華麗だ。確かに誰が見ても、文句の付けようのない組み合わせだと思った。しかし、そう冷静に頭で判断する自分がいる一方、私だって夫を愛している、自分のほうを向いてほしいという欲求も、夫とフォレンティーヌと呼ばれた女性の光景を実際目の当たりにし、抑えられないくらい高まってきていた。しかし、私にはそれだけの価値がない。身分や容姿、結婚にいたる経緯・・・どれをとっても、自信をもてるものがない。しかも私は夫に嫌われている。ただの法律上の夫婦にしかすぎないのだ。離縁されないだけでも有難く思わなくては・・・と、その欲求を心の底へ押さえ込んだ。
夫のことをもっと聞きたい、そして夫の行動を見たいと思う反面、それにより傷つくのも怖かった。
私は、気分転換にそっと庭へ出た。
庭はかぐわしい花々の香りで満たされている。私は深呼吸をして、近くの木製のベンチへ腰掛けた。暖かくて良い夕べだ。宵闇に一番星が輝いている。ぼんやりと遠くの景色を見つめていると、不意に後から声をかけられた。
「いい夕べですね。」
後を振り向くと、背の高い黒髪の青年が立っている。周囲にそっと目をやるが、彼の近くには誰もいない。私に話しかけたようだが、私は彼を知らない。しかし、無視するのは失礼なため、あいまいに笑って無難に答えた。
「そうですね。暖かい、いい季節になりました。」
彼はそれを聞くと、ふっと微笑んだ。
「ああ。警戒してます?申し訳ない。いきなり失礼でした・・・。私はウィル=オースデンと申します。貴女はアルベール=クレイトンの奥様ですね。」
そういって彼は私の手をとり、手の甲にキスをして恭しくお辞儀した。私はどぎまぎして、居心地が悪くなる。ほとんどこのような紳士的挨拶をされたことはないからだ。せいぜい、結婚前の夫からされたぐらいで・・・。私が困っていると、彼は手を離しごく自然なしぐさで、私の隣に腰掛けた。
「いや、実は彼とはちょっとした知り合いでしてね。あんまり彼は公にしてないみたいですけど、結婚したって話をきいたものですから。この機会にぜひご挨拶を、とおもいまして。」
彼はどうやら、夫と同じ宮廷内の職場にいるようであった。彼は夫と同い年であるという。ブルーの瞳をいたずらっぽくきらめかせ、ユーモアを交えて感情豊かに職場や夫との日常の話、また他愛もない世間話をする彼は、実年齢より若く見えた。
「・・・そういえば、アルベールはどうしたのです。一緒ではないのですか?」
私はどう答えていいか迷ったが、こう答えた。
「ご友人の方とお話があるようで。私は少し休憩しておりました。」
すると彼は、難しい顔を一瞬してから、すぐに笑顔になった。
「そうですか。彼は顔が広いですからね。・・・・さて、私はもうお暇させていただきますので、これで失礼します。また、お会いすることもあるでしょう。その時には、ぜひお茶でも・・・おっと、アルベールにしかられるな。人妻を誘うなってね。」
それじゃ、と軽く頭を下げて彼は去っていった。久々に人間らしい会話をして私は楽しかった。夫と愛人のことをつかの間、わすれることができた彼には、感謝もしていた。私は長いこと、彼の去っていった方向に目を向けていたようだ。すぐそばによく知った人物が近付いてきているのにも関わらず、まったく気が付いていなかったからである。
その頃、アルベールはフォレンティーヌとダンスを踊っていた。ワルツの調べに優雅に乗る男女を見つめながら、ふと、妻のことを思う。
今日あいつを見て、いつもと同じく何も思わなかったはずだ、と彼は考えていた。
結婚していることを知っており、妻の顔もわかるフォレンティーヌには、「いつもとなんかちがうじゃない、形だけの妻に情がわいたのかしら?馬子にも衣装ね。」と笑われてしまう始末である。そういうフォレンティーヌはバラ色の大胆なデザインのドレスを身につけ、その豊満で魅力的な肉体を見せ付けるようであった。他にもよってくる女達は皆、華麗で美しかった。それなのに、彼はどこか上の空であった。考えてみれば、馬車でもたつく妻を助けてやったり(乱暴に引っ張りあげ、下ろしただけだが)、嫌味がなんとなく出てこなかったりと、不可解な自分の行動に首をひねるばかりだ。考えれば考えるほどいらいらしてきて、わざと置き去りにして、俺は知人や女性達との話に花を咲かせていた。妻のことだから、どこからか見ていることは予想できる。思ったとおり、柱の隅に妻を見つけた。彼はわざと、近寄ってきたフォレンティーヌと中央に出てワルツを踊った。他の貴族達が、俺達が公然と愛人関係にあることについて噂しているのを、妻がきいたらどんな顔をするだろう・・・。面白い、わざと噂の種を提供してやろうじゃないか。まったく、他の奴らは暇である。噂するしか能がない。内心、しらけながらも、一方で、矛盾した自分の行動と感情に戸惑ってもいたのは確かだ。
「ねえ、いいの?奥様を際し置いて愛人とダンスしているって、噂されちゃうわよ?」
と、フォレンティーヌが耳元でささやいた。言葉とは裏腹に、いたずらっぽく笑っている。この状況を楽しんでいるようだ。アルベールは彼女の腰を引き寄せ、ささやき返す。
「ふん、お前・・・この状況を楽しんでいるんだろうが。」
すると彼女はますます笑みを深くして、意味ありげにそっとささやく。
「あら・・・心外ね。でも、このあと、もっと・・・激しくて楽しいダンスを、私としてくれるんでしょ?もちろん、二人きりで・・・。」
------ダンスが終わってしばらくして、彼女の挑発的発言にのって、人気のない小部屋にフォレンティーヌを連れ込んだ。二人でもつれあうようにして部屋になだれ込み、激しくキスをしながら彼は後ろ手にドアをしめ、鍵をかける。ここは薄暗い、空き部屋である。宮廷に出入りしているので、これくらいの部屋を見つけることは造作もない。
彼女のまとめあげた髪は少し乱れ、紅潮した頬、潤んだ大きな瞳で俺を見つめるその様子が、余計扇情的に彼を煽った。
この不可解な感情と矛盾した行動を、忘れたかったのもあり、男としての本能と欲求に、忠実に従った。彼女は声を押し殺し、必死でしがみつく。そしてふと、近くの窓の外に目がいった。ここは3階のため、小さな窓から下の庭の様子が見える。庭に備え付けの木製ベンチに、妻が座っていた。妻の表情が珍しく柔らかい。誰かと話しているようだが、陰になって相手の顔は見えない。彼は情事中であることを一瞬忘れてしまい、あれと話している人間の顔を見ようと、目をこらしていた。あれは・・・。
「・・・アル?」
彼女が甘い声で呼んだ。はっとして、視線を戻す。彼女は不思議そうに、突然動きを止めた彼を見上げていた。物欲しそうな彼女に対し、さっきの光景を見てなんだか萎えてしまった。自分の着衣を整え、彼女から離れて言った。
「今日はここまでだ。」
彼女は拍子抜けしたようで、乱れたまま彼を見つめていたが、かまわず外へ足を向けた。
「ずいぶんと呆けているな。」
冷たい声が不意に後から聞こえた。我に返ると、夫が無表情で私を見ている。私はあわてて立ち上がり、「すみません。」と謝った。夫はじっと私を見ていたが、
「いままでどこで油をうっていたかと思えば、お前という奴は・・・。」
夫は、今まで私がどこかでふらふらしていたと思っていたようであり、その態度をなじられた。私はもう一度謝った上で、こう切り出した。「ごめんなさい。あなたがどこにいるかわからなくて。ここはとても広いから・・・」と、そこまで言ったところで夫はそれをさえぎり、
「おい、いいわけをききに来たわけではないんだが。それにしても、お前が・・・意外だったな。夫に隠れて密会か?」
それを聞いて私は驚いた。夫は、先ほどウィル=オースデンと私が話をしているところを目撃したらしい。しかし、密会なんてそんなたいそうなことではない。庭には人がほとんどいなかったとはいえ、彼はきちんと紳士的に振舞っていたし、ベンチに座ったときも、距離をとってすわっていた。だから、夫がどこから見ていたのかはわからないが、密会というものではないと言い切れるのに・・・。しかしながら、夫は密会と頭から決め付けているようで、話をきられてしまい理由を説明することはかなわなかった。しかし、ウィル=オースデンについては彼に話しておくべきだと思い、「あの、でも一緒にいた方はあなたと同じ・・・」
そこまで言いかけたとき、明るい澄んだ声が聞こえた。
「・・・クレイトン先生?先生もきていたのね!」
私は、言葉を切って、声のした方向に振り向く。夫もつられて視線を流した。そこには、プラチナブロンドの美しい長い髪に菫色の澄んだ瞳をもった美少女が立っている。年は16か17くらいであろうか。瞳と同じ菫色のドレスのすそを持ち上げ、小走りにこちらへやってきた。そして、夫の腕にしがみつく。どうやら察するに、夫の職場の生徒らしい。どこかの貴族令嬢だろうか。夫は軽く目を見開いて、彼女を受け止める。
「シルレーネ、いきなりそういうことをするなと言っているだろう?淑女として恥ずかしくないのか?父上にしかられるぞ。」
夫はいつになく優しく彼女を見つめ、そっと彼女の腕をはずした。シルレーネと呼ばれた少女は、頬を膨らませて夫に抗議した。
「でもお父様は、先生のこと知ってるし大丈夫よ。今日来るなら、言ってくれたらいいのに・・・。ね、先生一緒に踊りましょうよ。私、ずっと先生を探していたんだから。」
すると夫は苦笑いしてこう言った。
「私生活のことを、わざわざ生徒に報告する義務でもあるのか?・・・さあ、そろそろ子供は寝る時間だ。帰らなくていいのか?父上の元を勝手に離れてきたんだろう?」
シルレーネは、そっぽを向いて「私、子供じゃないわ!」と反論した。そしてふとこちらに視線を向け、次の瞬間、菫色の瞳を大きく見開いた。
「あら??・・・もしかして、こちらの方は・・・」
そして私に向き直り、手をポン、とたたいて笑顔になった。
「やっぱり!先生結婚したって本当だったのね!お父様から噂できいてはいたけど、先生もてるから、本当かしらって、思っていたの。この間も、バルバラやリサと話してたのよね。 」
若い娘特有のいきいきした表情と、話振りに終始苦笑いをしている夫。でもその目はいつもと違う。私でもなく、愛人や他の女性を見るときのものでもなく・・・温かい愛情に満ちた目だ。彼女が、本当にただの生徒なのだろうかと、疑ってしまうほどに。愛人、という俗っぽい言葉ではなく、むしろ恋人に向けるような、純粋な視線。私はつい先刻の、ホールでのフォレンティーヌと夫の逢瀬の時に感じた、暗いどろどろとした嫉妬ではなく、この二人を前にしては物悲しい気持ちを感じた。あきらめの境地、というべきかもしれないが・・・。この湧き出る感情に、なんと名前をつけたらいいかわからない。複雑な心境で二人を眺めていた。すると、シルレーネが私の手をとって挨拶した。
「はじめまして。私はシルレーネ=ベルティーナ。先生にはいろいろ教えていただいてます。先生の奥様ってどんな方かしらって思っていたけど、先生の周りにいままでいなかった感じの方なんですね!」
夫に学んでいる、ということから貴族令嬢ということであろうが、ベルティーナ家について私はほとんど知らなかった。私は物怖じしない彼女に少々面食らいながらも、取られた手を優しく握り返し、恐る恐る(夫もいるので)慎重に挨拶をし、笑顔を返した。
「こちらこそ、お会いできてうれしいです。はじめまして。私はオリエと申します。」
すると、シルレーネは花が咲いたように満面の笑みを浮かべて、夫に向き直りこう言った。
「先生、感じのいい方ね。優しくしてあげないとだめですよ!」
夫がその言葉を言われた時、一瞬渋い表情を見せた。私はその瞬間を見逃さなかった。
シルレーネはそれからしばらく、その場で夫と他愛のない話題を話していた。私はそばで静かに話しを聞く。すると彼女は私にも笑顔でこう話しかけた。
「先生って、家ではどんな感じなのですか?」
私は会話を聞いていた、といってもどこか上の空だったらしく、突然話を振られて慌てた。しどろもどろに「・・・そうですね・・・これといっては・・・」と答えようとすると、夫が遮った。
「シルレーネ、本当にもどらなくていいのか?私達も、そろそろ疲れたから帰るつもりなのだが。」
シルレーネが答えようとしたその時、2人の侍女らしき服装をした女性が近づいてくる。
「シルレーネ様!!こちらにいらっしゃったのですね。」
「旦那様が心配されておいでですよ、すぐお戻りください。」
シルレーネはそれをみると、舌をぺろっとだして茶目っ気たっぷりに笑った。そして私と夫に別れの挨拶をし、手を振りながら、侍女と共に去っていった。
少女が去り、あたりはまた静かになった。遠くに宴の喧騒が聞こえてくる。が、城内入り口の方も少しずつ人の話し声が聞こえてくることから、帰宅する人間もちらほらいるようだ。夫は私の方を振り返ると、言った。
「話の腰を折られたな。帰るぞ。」
夫は静かにそう言うと、私に背を向けて歩き出した。私も慌ててその後を追った。
「・・・なんで・・・」
一方その頃、3階の一室、先ほどまでアルベールと逢瀬を交わしていたフォレンティーヌは、情事の名残を色濃く残したまま、近くのソファにけだるそうにして寄りかかっていた。髪は乱れ、衣服は乱れたままだ。彼女は髪をかきあげた。
〝アルは、なんだか様子がおかしかった。いつもなら、このまま私を抱いていたはずなのに・・・最近ずっとそう。ぼんやりして私に集中してないじゃないの!まさかとは思うけど・・・〟
そこまで考えて、むしゃくしゃした彼女は鼻を鳴らした。すると、入り口付近で男の声がする。
「いけないな、ミドー家の令嬢ともあろう人間が。」
フォレンティーヌは驚いて息を潜める。鍵はかけてあるから入り込まれる心配はないが、用心して男の気配をうかがった。ドアの外で、男の声がまた聞こえる。
「今さら無駄だ、いないふりをしても。さっきまで、クレイトン家の次男坊といいことしていたんだろう?楽しめたか?。想像に易いぞ、お前の今の姿は・・・」
と、男はいったん言葉を切った。舌なめずりをする音が聞こえる。どうもフォレンティーヌとアルベールの情事を知られているようだ。これ見よがしにダンスをしていたし、愛人関係の噂も飛びかっていたので、誰かにその場面をおさえられてもしかたないのだが。しかし、この男はなんだか気味が悪い。フォレンティーヌは答えずにそのまま男の言葉を聴いていた。
「だがな・・・お前、あの男の真意がわかっているのか?大方遊ばれて捨てられるのがおちだぞ。」
それは彼女もわかっている。最初からビジネスと体の関係と割り切っているのだから。・・・わかっているはずだ。彼女は自分にいいきかせるように心の中でつぶやく。男は続けた。
「あの男の心がどこにあるか、知りたいのではないか?だんだん自分でない誰かの・・・そう、例えばお前より遥かに劣るあの女のもとに注がれた視線が・・・気になるのではないか?そして・・・」
するとフォレンティーヌは、思わず立ち上がって男の声にくってかかった。
「 無礼者!なにを根拠のない勝手な妄想を・・・!!」
叫んだとたん、彼女ははっ、として口をつぐんだ。これでは男の思う壺ではないのか。
案の定、男は低くしのび笑いをして言った。
「くく・・・まあいいだろう。どうだ?俺も協力してやっていいのだぞ?あの男に本気になったのならな・・・ただし、ただとはいえぬがな。」
彼女は息を呑んだ。何を言い出すのだろう、この男は?
「わかっているだろう?お前なら俺をどう喜ばせることが出来るか。」
夫と私は、外に待たせていた馬車に乗り込んだ。城内入り口には帰る人で混雑している。夫は、私がもたついて後に馬車へ乗る人の列が閊える事を気にしてか、今回は私を先に馬車内へ押し上げ、その後自分もさっと乗り込んだ。馬車が走り出した。馬車内は行きと同じく静かだった。しばらくして夫が、
「お前がどこぞの誰かと密会とは・・・。いいご身分だったな。」
と抑揚のない声で言った。私は先ほどの話を蒸し返していると思った。話を切り上げたのは自分なのに、どうしてこんなことを言うのだろう?しかも私は密会なんてしていない。自分だって、愛人とダンスを公然としていたではないか。しかも、仮にも妻である私の前で。その前に、王達との謁見後に私をおいてさっさとどこかへ行ってしまったのは、自分ではないか。
私は口まで出かかった言葉を必死で押さえた。でも、ここだけははっきりさせておきたかったので、一言夫へ言った。
「私は密会なんてしてません。」
夫は青い瞳を細め、せせら嗤った。
「ではなんだ?冷たい夫より、優しい男にほだされたのだろう?」
「そんなこと・・・。」
確かにウィルの優しさに心引かれたのは事実だが、私はアルベールの妻だ。彼は、簡単に私が不貞を働くと思っているのだろうか?ウィルだって、人妻に手を出そうとはしないだろう(ましてや私だし)。社交辞令で話しかけたに過ぎないのに。なぜ、こうもなじられなくてはならないのだろう?
夫は沈黙した私を眺めていた。やがて、うつむいた私の頬に彼の指先が触れた。私はひどく驚いて、はじかれたように顔を上げる。彼がこんな風に私に触れたのは、結婚してほとんどない。どういう風の吹き回しだろう?いぶかしげに彼を見つめた。彼の美しい容貌には、先ほどのように意地悪い表情はなかった。最近よく見かける無表情で私を見ている。青い瞳には私の姿が浮かんでおり、私は夫の青い瞳に吸い込まれるように視線を合わせた。彼はそのまま言った。
「深入りはするな。」
彼はそう一言つぶやくと、私に興味がなくなったのか頬から手を離し、また窓の外に視線をむけてしまった。彼の言葉は何に対してかはわからない。しかし、ウィルに対してであろうことは、うすうすわかった。彼の発した言葉には、私に対して絶対的拘束力はないように思えた。もしだめなことなら、禁止令をだせばいいだけであり、彼がこのような言い方をするのは珍しいことであった。面倒事にならなければ勝手にしろ、ということであろうか?彼の真意は、表情からはやはり読み取れない。彼は、家につくまで一言も話そうとしなかった。