通れないお墓の近道 ~ 夜になると、カタン……カタン……と音がする ~
私は、美優。中学二年生だ。
住んでいるのは、地図を見ても見落としてしまいそうなほど小さな山あいの村。
祖母の話では昔は賑やかな村だったらしい。でも私が物心ついた頃には空き家の方が多く、夕方六時を過ぎれば人影はほとんど消えてしまう。
私は祖母と二人暮らしだ。
両親は幼い頃に亡くなり、祖父も三年前に他界した。
祖母は今年八十二歳になる。それでも毎日畑へ出て働き、夕方になれば私が帰る時間に合わせて夕飯を作って待っていてくれる。
だから私は、午後七時までには帰るという約束だけは、できるだけ守るようにしていた。
その日は学校帰りに、友達の結月の家へ集まっていた。クラスの五人でゲームをしたり、お菓子を食べたりしながら、たわいもない話で盛り上がっていた。
ふと壁の時計へ目を向ける。
六時三十七分。
「あっ、やばい!」
思わず立ち上がると、友達も一斉に時計を見上げた。
「もうそんな時間?」
「ごめん、帰る!」
私は慌ててバッグを肩へ掛け、自転車へ飛び乗った。夕日はすでに山の向こうへ沈み始め、村はゆっくりと藍色の闇に包まれようとしていた。
走れば十分ほどで家へ着く。
そう思って県道へ出た私は、数分後、その考えが甘かったことを知る。
道路工事のため、家へ帰る一番早い道が通行止めになっていた。
迂回すれば二十分以上。
どう急いでも、門限には間に合わない。
私は自転車を止め、薄暗くなった山の方へ視線を向けた。
残された道は、一つしかない。
お寺の裏を抜ける、墓地の近道。
三年前から、一人で夜だけは通れなくなった道。
カタン……。
カタン……。
あの夜の記憶が、不意によみがえった。
*
小学五年生の夏――
あの日も友達の家で夢中になって遊び、気がつけば辺りはすっかり暗くなっていた。
家まで一番近いのは、お寺の裏にある墓地脇の細い坂道だった。昼間なら何でもない道だ。学校帰りにも何度も通っていたし、友達と一緒なら夕方でも平気だった。
だけど、その夜だけは違った。
坂道へ足を踏み入れた途端、急に肌寒くなった気がした。
風は吹いていない。
虫の鳴き声もしない。
静まり返った墓の方を見ないように、私は早足で歩いた。
その時だった。
カタン……。
思わず足が止まる。
聞き間違いかと思い、息を止めた。
そして、もう一度。
カタン……。
カタン……。
腕の産毛が逆立つ。
見たくはなかった。
そっちは――。
だけど、恐る恐る墓の方へ顔を向けた。
墓石が、一瞬だけ白く光る。
その向こうを、黒い何かが横切った気がした。
次の瞬間には、私はもう走っていた。
*
私は夢中で自転車を漕ぎ、息を切らせたまま家へ帰ってきていた。
明かりのついた家の玄関へ着くと、ようやく張り詰めていた息を吐いた。
無事に帰ってこられた。
怖かったけれど、何事もなく墓地を抜けることができた。
「おかえり。遅かったねぇ」
台所から祖母の声が聞こえる。
「……うん。ちょっと結月の家で話し込んじゃって」
靴を脱ぎながら答えると、
「手ぇ洗っておいで。ご飯できてるよ」
いつもと変わらない祖母の声だった。
居間へ入ると、食卓には煮物と焼き魚、それに味噌汁が並んでいる。
「いただきます」
手を合わせたものの、箸がなかなか進まなかった。
味噌汁を一口飲む。
だけど、味がよく分からない。
頭の中では、さっきのことばかりが何度も繰り返されていた。
(……今日は、聞こえなかった。
三年前、あんなに怖かった、あの音が)
「美優?」
祖母が箸を止め、私の顔を覗き込む。
「どうしたんだい。具合でも悪いのかい?」
「え?」
「さっきから、ぼーっとしてるよ」
「あ……ううん。何でもない」
そう答えた。
でも、何でもなくなんかなかった。
祖母は何も言わず、肉じゃがの鍋へ箸を伸ばした。
「ほら、あんたはお肉ばっかり食べるんだから」
じゃがいもを箸で半分に切り、私の茶碗へぽとりとのせる。
「ちゃんと野菜も食べなさい」
「……うん」
その何気ないやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
私は味噌汁をもう一口飲み、小さく息をつく。
「……ばあちゃん」
「ん?」
「実はね、小学生の頃から、夜になると怖くて通れなくなった道があったんだ」
「どこの道だい?」
「お寺の裏の、お墓の横の道」
「ああ、お寺の裏かい」
祖母は小さく頷いた。
「あそこは夜になると気味が悪いからねぇ」
「違うの」
私は首を横に振る。
「お墓が怖いんじゃない」
祖母は何も言わず、私の続きを待った。
「小学生の時、変な音が聞こえたの」
「変な音?」
「うん」
私は頷く。
「カタン……って」
祖母の箸が止まった。
「一回じゃないの」
「カタン……」
「少しして、また」
「カタン……カタン……って」
祖母は黙ったまま、じっと私を見つめている。
「墓石の向こうで、何かが光って……黒いものが動いた気がして」
私は苦笑いを浮かべた。
「それからずっと、一人で夜は通れなくなった」
少し間を置いてから続ける。
「でも、今日はその道を通ったの」
祖母の目がわずかに揺れた。
「……それで?」
「何もなかった」
私は肩をすくめる。
「だから、もう平気なのかなって思って」
祖母は笑わなかった。
しばらく黙って私を見つめると、静かに口を開く。
「……その音は、聞こえたのかい」
私は首を横に振った。
「ううん。一度も」
その瞬間、祖母の顔から血の気が引いた。
「……本当に?」
「うん」
祖母は隣の部屋の壁時計へ目を向けた。
「いま、何時だい」
私もつられてテレビ台の時計を見る。
「七時十五分」
「……いやな予感がする」
祖母は何かを決心したように立ち上がった。
「ばあちゃん……?」
返事はない。
「……ちょっと駐在所さんへ電話してくる」
玄関先へ向かい、受話器を手に取る。
「え? どうして?」
私は、廊下へ顔を出して声を掛けた。
だが、祖母は顔を上げなかった
震える指で、黒い電話のダイヤルを回し始めた。
*
祖母は受話器を置いてもしばらく動かなかった。
「ばあちゃん……?」
「……大丈夫。ちょっと、お巡りさんに様子を見てもらうだけだから」
そう言って笑おうとしたけれど、その笑顔はどこか引きつっていた。
その夜、私は布団へ入っても眠れなかった。
時計の針が進む音だけが、静かな部屋へ響いている。
目を閉じるたび、さっき通った、お寺の裏道が浮かぶ。
カタン……。
カタン……。
三年前には、あんなに怖かったあの音が。
今日は聞こえなかった。
結局、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
外が、妙に騒がしい。
玄関を出ると、遠くで近所の人たちが三、四人集まり、何かをひそひそと話していた。
何があったんだろう。
胸がざわつく。
その時、祖母がゆっくりと坂道を上ってきた。
いつもなら「おはよう」と笑う祖母が、今日は何も言わない。
私は慌てて駆け寄った。
「ばあちゃん……?」
祖母は玄関へ入ると、その場へ力が抜けたように座り込んだ。
震える手を膝の上で握り締め、しばらく俯いたまま動かない。
「……おハルさんが」
かすれた声だった。
「昨日、墓石の裏で倒れているのが見つかったそうだよ。
もう……四、五日経っていたらしい」
「え……?」
思わず息を呑む。
頭の中が真っ白になった。
四、五日前……。
じゃあ昨日、私が墓地を通った時には、もう……。
祖母は小さく息を吐いた。
「あんたは知らなかったねぇ」
私は何も言えなかった。
「おハルさんはね、九十一歳になっても毎日欠かさず、おじいさんのお墓参りをしていたんだよ」
祖母の視線が、お寺のある山の方へ向く。
「おハルさんは、小さな手提げ灯籠を下げて歩いていてね。
夏でも冬でも。野の花を一輪だけ摘んでね。
灯籠が揺れるたびに、カタン……カタン……って鳴るんだ」
私は黙って聞いていた。
祖母は静かに続けた。
「それが聞こえるとねぇ、夕飯の支度をしている人も、戸を閉める人も、
『ああ、今日もおハルさんがお参りに行ってるな』って」
私は祖母の顔を見つめた。
あの音は。
幽霊なんかじゃなかった。
九十一歳になっても、毎日欠かさず夫へ会いに行く、一人のおばあさんの音だった。
ずっと聞こえていてほしかった。
だけど、もう二度と――。
「まさか……あの音が聞こえなくなる日が来るなんてねぇ……」
祖母が、横でぽつりと呟いた。
私はその日以来、お寺の裏道を通るたび、耳を澄ませてしまう。
もう聞こえないと分かっているのに――。
【了】




