2 怪域
日本の真ん中にある、モノノ怪たちの住まう土地『怪域』。
地図上だと長野となっている場所がそこだ。
しかし長野が消えたわけではなく、空間違いで同時に存在している。
長野にある幾つかの神社に怪域へ通じる門があって、そこをくぐると辿り着くことが出来るのである。
「…………さて、これで全部かな」
怪域の外へ飛び出して暴れ回っていたモノノ怪を退治したカエデは、そう呟いてその門をくぐる。
トン、と軽く足を踏み入れた瞬間に周りの景色にノイズが走り、瞬きの間に怪域へと移動した。
いつ見ても不思議な光景である。流れる時間は一緒だから、門をくぐった先の空も昼間の綺麗な青空が広がっている。
ただ、空間だけが別なのだ。
コインに裏と表があるように、世界にも裏と表が存在していて、何かの拍子でそちら側へと行ってしまう。かつて神隠しと呼ばれていたそれがどうして起こるのか、現代になってようやく解明されたのがこの門だ。
それは鳥居であったり大樹の洞であったりと、見た目はバリエーション豊かだが、そこを偶然くぐり裏の世界へ行ってしまった――それが神隠しの正体の一つだった。
人の世である表と、モノノ怪の世である裏。それらが表裏一体で存在するのが、この日本という国だ。そしてカエデは裏である怪域で生まれ育ったのである。
「あ、やっと戻って来た。ちょっと時間がかかり過ぎじゃありませんか?」
怪域へ移動したカエデの目に真っ先に映ったのは、神社の石段に座って棒付きキャンディーを口に咥えたアズマの姿だった。
「モノノ怪を逃がした人が言う台詞ではありませんよ。労ってください」
「あっはっはっ、それは悪かった。よく頑張った頑張った。ほら、飴ちゃん食べます? 好きでしょ、苺味」
「やった、好きです。いただきます」
差し出された赤色の棒付きキャンディーを受け取ると、包みを取って口に咥える。甘さが、疲れた体に染み渡るようだ。美味しい……と顔が緩む。
そうしているとアズマはひょいと立ち上がって「ほな、帰ろうか」と歩き出した。
カエデも彼の半歩後ろに続く。
左右を竹林に囲まれた石段を下りて行くと、怪域の町の中心――黄昏通りへ続く石畳がまっすぐに伸びている。
その先には、京都・祇園の花見小路通を彷彿とさせる、どこか懐かしさを感じる街並みが広がっていた。
夕方に、この石段から橙色に染まった黄昏通りを見るのが、カエデは好きだ。
モノノ怪も人も皆が同じ色に染まって、誰なのか分からなくなる時間帯。言葉通りの誰そ彼だ。
今はまだ昼間なので、それは見えないけれど。
「あの……おばあ様への結婚の報告ですが、そろそろしようと思っていまして。いいですか?」
歩いていると、アズマが振り返らずにそう言った。
彼の後頭部――というか、歩く度に揺れる後ろ髪を眺めながら、カエデは「はい」と頷く。
「構いませんよ。お好きなタイミングでどうぞ」
「そうですか。それなら、帰ったら話してみますね。……君、ちゃんとそういうフリするんですよ?」
「念を押されなくても、ちゃんとしますよ。アズマさんこそボロが出ないように気を付けてくださいね?」
「うっ。と、当然ですとも……」
念を押されたので指摘し返すと、アズマは一瞬言葉に詰まって、慌てた様子でそう言った。
悪い人のような見た目をしているのに、中身はなかなか愛嬌があるのだから、アズマという人間は面白い。カエデはそんな風に思っている。
篠塚アズマ。篠塚家の若き当主で、カエデの主人だ。
彼と出会ったのは今から十年前のことだ。
カエデがまだ十二歳の頃、両親がモノノ怪に襲われて命を落とし、自分もまた死にかけていたところを助けてくれたのが、アズマと彼の祖母ユキメだった。
そして行く当てのないカエデを家に置いて、育ててくれたのも彼らなのである。
カエデにとって二人は命の恩人だ。
受けた恩を返したい――そう考えたカエデが篠塚家の手伝いをしていたら、アズマの従者に抜擢された。
その当時は外部からの嫉妬の目がそれはもうすごかった。昔から怪域の治安維持を任されている篠塚家は、怪域内の信頼が厚い上に、政府機関や各方面とも繋がりがある。だから色んな目的で懇意にしたいと思っている者が多いのだ。
そこへ拾われただけの半妖の小娘がぽっと現れたものだから、それはもう面白くなかっただろう。たぶん性別が男だったら、そんなに敵視されなかっただろうとカエデは思っている。
(アズマさんの奥さんの座は、皆狙っていましたからねぇ)
結婚する相手がいないとアズマは言ったが、選ばなければ引く手あまたなのだ。
ただ結婚は誰としても良いということではない。
結婚して欲しいとお互いが望んだならともかく、一方的に望まれたのならば、その中からちゃんと見極めなければならない。
そして、その上でアズマは「相手がいない」と言ったのだろう。
それは「そういう相手が近寄って来ていた」という意味も持つため、実に厄介な話である。護衛役でもあるカエデにとってはなかなか頭の痛い話だ。
「ところでカエデさん、妖力って上手く扱えるようになりました?」
「まぁ、ほどほどに……どうしてですか?」
「虹華石の指輪を作るでしょう」
虹華石というのは花のような形をした宝石のことだ。最初は無色透明だが、一定の手順を踏んで霊力や妖力を注ぐと、色が変化する不思議なものである。
怪域では祝言の際に、お互いの虹華石の指輪に霊力や妖力を注いでそれぞれの色に染める風習があって、アズマが言ったのはそのことだ。
ああ、とカエデは手を軽く叩いた。
「……そういえば、それがありましたね。忘れていました。どうしましょう」
「ほどほどにという言葉はどこに」
「いえ、そのう……指輪の石は小さいので……。あれ、割れやすいじゃないですか」
「まぁ、実際に三割くらいは割れているらしいですが、さすがに僕たちの時はね」
まずいでしょ、とアズマは言う。それはそうだなとカエデも思った。
虹華石に霊力や妖力を注ぐ時、その量が多すぎると割れてしまう。
人間はともかくモノノ怪側は、内に秘めている妖力が基本的に多いため、繊細なことをしようとするとなかなか上手くいかないのだ。
カエデも半妖とは言えモノノ怪の血を引いており、そちらよりの体質のため妖力は多い。
しかも人間の血も引いているため霊力も持っており、その二つが混在している影響で、どちらもいまいち上手く扱えないのである。
宝の持ち腐れとはこのことだと、妖力や霊力を使わなければならない時にカエデはいつも思う。
だからカエデは護衛の仕事の際にそちらを極力使わない。
もともと犬のモノノ怪の血を引いていることで体は頑丈だし、牙や爪も武器として使えるため、特に不便を感じたことはなかった。
(予想外のことで妖力を使わなければならなくなったものです)
人生――いや、半妖生とは実に不思議なものである。
「ちょっと。空はまだこんなに青いのに、何を黄昏ているんですか」
「私の二十二年の半妖生に思いを馳せておりました」
「急に?」
アズマは若干引き気味だった。会話の内容からずいぶん話が飛んだと思われたのだろう。
「まぁ、結婚ってなるとそうなるか……。何ですか、君にもそういうかわいいところがあるんですね」
ふふ、とアズマは今度は小さく笑った。
カエデは、それは聞き捨てならないと反応する。
「何をおっしゃいますか。私はいつもかわいいでしょう。見てください、このお母さん譲りの白い耳と尻尾。かわいい。褒めてください」
「そういうところですよ?」
耳をぴこぴこ、尻尾をふさり、と動かして見せれば、アズマから呆れた視線を向けられてしまった。何故だろうか、こんなにかわいいのに。
解せない気持ちになりながらカエデが歩いていると、不意にカエデの嗅覚が、妖力交じりの血の匂いを感じ取った。
「……!」
目を見開き、耳を動かし、周囲の情報を収集する。
「血の匂いがします」
「なるほど。またモノノ怪が暴れたか」
「最近多いですね、実に物騒。行きますか?」
「もちろん。怪域の治安維持は僕たちの仕事ですからね」
「承知しました。それでは失礼」
アズマが頷くと、カエデは彼をひょいと横抱きにする。この方が速いからだ。
見た目と違って腕力のあるカエデは、アズマを軽々と抱き上げたまま、血の匂いのする方へと駆け出した。




