10 呼び方
「やってしまった……」
ナデシコを怪域の外へ送り届け、篠塚家の屋敷へ戻ってユキメに騒動の顛末を報告した後。
居間に移動して、カエデの淹れたお茶を一気に飲み干した直後に、アズマは両手で顔を覆ってそう嘆き始めた。
つい先ほどまで涼しい顔をしていたのに、今は耳まで真っ赤である。
お茶を飲んでほっとして、緊張の糸でも切れたのだろうか。
カエデが苦笑しつつ、空になった湯呑みに二杯目を注ぐ。
「とりあえず、何とかなって良かったですね」
「……そうですね」
顔を覆ったまま、アズマは頷く。
あのままナデシコが居座って、強引に他の術を使おうとしたら、もっと大事になっていただろう。ひとまずそれがなかっただけ良かったとカエデは思う。
ちなみにナデシコを怪域の外へ放り出した段階で、アズマが八森家へ連絡をしたのだが、とんでもない勢いで謝罪されたそうだ。
直ぐに迎えを寄こしてくれると言って、本当にあっと言う間に遣いのモノノ怪がやって来た。
椿柄の美しい着物姿の、尻尾が二本に分かれた猫のモノノ怪だった。
(あのモノノ怪には、ナデシコさんも頭が上がらないみたいでしたね)
暴れずに帰ってくれて良かったとカエデが思い出していると、
「……あの、カエデさん」
と、アズマから気まずそうに名前を呼ばれた。
「はい、何でしょう?」
「その……ですね。さっきは……すみません」
「さっき?」
謝られてしまったが思い当たる節がなく、カエデは首を傾げる。
するとアズマは顔を赤くしたまま、
「カエデさんを妻や奥さんと呼んだり、勝手に肩を……その、えっと……抱いたことです……」
と続けた。
ああ、そのことかと、カエデは理解して小さく笑う。
「アズマさんと結婚したので、妻も奥さんも合っていますよ。肩の方も特にお気になさらず。それを言うならば私だって、結婚前からアズマさんを抱き上げているじゃないですか」
いわゆるお姫様抱っこという奴だ。
護衛の際や移動時間の短縮で、カエデはアズマを抱き上げて走ることがある。
接触がどうのと気にしているのならば、あれの方が肩を抱く以上ではないだろうか。
アズマから嫌がられないため続けているが、そう言えば成人男性を横抱きにして走り回るのは、いかがなものだろうか……などと一瞬カエデは考えた。
あれも止めた方が良いのかもしれないと思っていると、
「それはそうなのですが……契約結婚がどうのとか、いつも通りで良いとか言ったのは僕なのに……これはあまりにも、あまりにも……っ」
アズマはわなわなと震えながらそう言った。
どうやら接触云々の部分を気にしているわけではなさそうだ。
(アズマさんは真面目ですねぇ)
口は悪くなるし態度も尊大な時はあるが、こういう部分もまたカエデの主の良いところだ。
ただ契約結婚とは言え、今後も同じような対応をする場合は、度々起こるだろう。そのたびにこうして落ち込ませてしまうのは、カエデもちょっと嫌だ。
アズマは元気な姿が一番だ。楽しそうに笑う主を見るのが、カエデにとって日々の楽しみの一つなのである。
ならば、どうすれば良いだろう。もうこれは慣れてもらうしかないのではないか?
ぽん、とカエデは両手を合わせた。
「では、それがいつも通りになるように練習をしましょうか」
「え? 練習?」
「はい。夫婦であることに慣れる練習です。私にも必要なことですから。そうですねぇ、まずは呼び方に慣れた方が良いんでしょうかね」
「は、はぁ……呼び方……?」
「ええ。名前はいつも呼んでいますから他の呼び方……何かこう、例えば、そうですねぇ……うーん……あ、そうだ。ええと、こほん……旦那様?」
これはどうだと胸に手を当ててカエデが笑うと、アズマはポカンと口を開けた。
ややあって、ぼんっ、と音が聞こえそうなくらい一気に顔が赤くなる。
「だっ、だっ、だっ、だん……っ⁉」
わなわなと小刻みに身を震わせながら、ぱくぱくと口を動かすアズマを見て、これは時間がかかりそうだとカエデは悟った。
――それにしても。
(こんなに照れられると、こちらまでつられそうですね……)
何となく自分の顔まで熱くなってきた気がする。
指でぽりぽりと頬をかいて、カエデは少しだけ視線を彷徨わせて、
「…………と、とりあえず、のんびり行きますか」
と言うと、アズマはこくこくと何度も頷く。
「え、ええ、そうしましょう。心臓がいくつあっても足りませんからね」
「そんなに?」
「そんなにですよ、はぁ……」
何となく残念そうな表情で息を吐くアズマ。
良い提案だと思ったが、どうにも余計に疲れさせてしまったようだ。
しまったな、と思いながらカエデは自分の湯呑みに手を伸ばす。
顔が熱いせいか、飲んだお茶が少しぬるく感じた。
* * *
(旦那様と呼ばれた……)
自室に戻ったアズマは壁に背中を預けながら、先ほどのことをぼんやりと思い出していた。
「旦那様」
カエデの口から、そんな言葉が出るなんて思いもよらなかった。
しかも、はにかみながらだ。
あれは予想外だった。まさか、あんな不意打ちを受けるなんて。
その光景が頭の中で蘇ってアズマの顔が赤くなる。
思わず叫びそうになり、慌てて手で口を覆って堪える。
「これはまずい……」
アズマは呻いて頭を抱える。
なるべく態度に出さないようにしていたが、初恋の相手と籍を入れられたことに、実のところアズマはだいぶ浮かれていた。
そこへ「旦那様」である。
あの一言を聞いたら、アズマの我慢なんて一瞬で崩壊してしまった。
(カエデさんの前でああも真っ赤になるなんて……)
あれでは自分の気持ちを、自分でバラしているようなものではないか。
アズマは悲鳴を上げたくなる。
もっともカエデは、こういうことにそこまで聡くないので、気付いてはいなさそうだけれど。
それでも精神的にダメージを負ったアズマが、胃の辺りに手を当ててげっそりとした顔をしていると、座卓の上に置いた袋が目に入った。
虹ノ小間物店の袋だ。中にはカエデに内緒で買った藤の花の髪飾りが入っている。
そっと手に取って髪飾りを中から出した。
しゃらり、と藤の花弁を模した飾りが揺れる。
(渡せなかったなぁ)
今日一日ゆっくり過ごして、家へ帰る前くらいに渡すつもりでいた。
それがナデシコのせいで、後始末やら連絡やらに追われて、渡す機会をすっかり逃してしまったのだ。
時間を置くと、ますます渡せなくなってしまう。
(なるべく早めに、タイミングを見て渡そう)
そう思いながらアズマは髪飾りを袋の中へと戻した。




