肉はうめえ
コロナ。寝込むおれ。喉が痛い。ふと思った。肉が食いてえ。
熱々に熱せられた鉄板の上に、一枚の牛肉がのっている。じゅわじゅわと音を立てて、油が跳び跳ねている。肉の上のオニオンソースが鉄板にこぼれると、じゅわあっと、音を立てて泡立ち、薫りが膨らむ。ナイフとフォークを持つ。しかし、上品さなど欠片もない。マナーなど知ったことか。食欲のままに、刃をつきたて、繊維をたちきる。口のなかにいれると、脂とソースの薫りがたちこめた。うまい。おれの体は肉を欲している。欲するものが、体に入ってきたことで、歓喜の渦に巻き込まれていく。噛むほどにエキスが口を満たす。唾液と混じりあい、おれの体に溶け込んでいく。ひとくちを噛みしめ、飲み込み、お茶で口を洗い流す。そして、一呼吸。洗い流して、なお、残る脂の余韻を楽しむ。そして、また、ひとくち。この単純な繰り返しの中に、喜びが塗り重ねられていく魔法のようなトリックが仕込まれているのだ。ああ、料理とは素晴らしい。食事とは素晴らしい。心と体を満たしてくれる、この上ない、人の文化である。噛みしめるたびに、うまみが口のなかに広がり、うまみが塗り重ねられていく。喜びの厚みが増していくようだ。お茶で洗い流すことも、重要だ。ウーロン茶は定番だろう。プーアル、ジャスミン、口のなかをリセットしてくれる香りを、脂で塗りつぶしていく背徳感もまた、肉をむさぼる楽しみを増長させる。
肉の繊維に、歯をたて、噛みちぎる。それにほのかな愉悦を覚えるのは、生物としての性なのだろうか。肉を裂くことが自らの命を繋ぐことであると、この体に、遺伝子に、どうしようもなく、刻み込まれているのだろうか。体のうずきが止まらない。小刻みに震え、喜びをにじみ出さずにはいられないこの体に、自分は、ひとつの命であると、実感せざるをえない。命を食らい命を繋ぐ、どうしようもない、生物としての摂理のなかにいるのだということを、それこそ、骨の髄から、じんじんと沸き上がる食の喜びを通じて、目の当たりにしている。
食べる。まさに、命の咆哮。体は、唸りをあげ、昂る。明日を生きる力を得た喜びに、沸き立つ体は、やはり、命そのものと言う他あろうか。
食べる。食べる。食べる。
胃がだんだんと熱くなってくる。消化だ。無惨に引きちぎった肉を、今度はあとかたもなく溶かし、自分の体の糧にするという、至極当然の、そして、なんとも、強引な行為である。人は生きてるゆえに仕方ないという。他の命を蹂躙しているにも関わらず、それを、生物の生理機能を持ち出して正当化するのだ。命の存続がかかるときほど、尊厳という言葉の意味が希薄になることはない。所詮、ひとつの命の前では、もうひとつの命など、糧か、敵かでしかないのだ。
その敵を、全く外の存在として、糧となった命を頬張る人間とは、なんとも、傲慢な食を手に入れたものだ。奪い去る命の儚さを忘れ、自己の明日を過ごすことだけを考えていればいい時間を獲得するに至ったのだ。欲の顕現とはかくも恐ろしい側面を持っている。生物の当然を遠ざけるに至ったのだ。
牛の首を切り落とす様を見たことがあるのは、どれほどの人間だろう。おぞましくはない。命を絶たねば、ある命に次はないのだ。首を裂き、皮をはぎ、血を抜き、肉をそぎおとす。都合よくバラバラにした命であったものを、自らの糧として、さらに細かく砕いていくのだ。生命とは、命を砕いてその形を保っていくものなのだ。
これは昨今の格差社会、分断を擁護する発言ではない。弱肉強食とは言われるが、他の命は、単なる糧ではない。共に世界を喜び、ときに奪い合う。全ての命は、世界を形作る同志なのだ。命を繋ぐための摂理のなかに、矛盾した思いを抱えながら、命に翻弄される、それが生物としての矜持を構築していくのだ。
2つの命、そのどちらかが、糧となるか、そのせめぎあいに立ったとき、命は死を共有する。死の縁に手足をかけながら、生きる時間を獲得するために、持てるもの全てをつぎこむのだ。対峙した両者は、互いに死を体現している。死と向かい合う時間の先に、生きる場があることを理解している。それが本能として肉体に刻み込まれているのだ。
命の対峙は、儀式である。命を捧げる儀式ではない。自然の摂理に従い、その摂理を敬う儀式なのだ。ある命は、観念的な姿へ還り、ある命は、物質的な生命の道をひた進む。物理的な形を得ていることだけが、生命の全てではない。死と対峙することにより、生物は、命の観念的な姿を意識することができるのである。食において、生命は、その本質を直感するのである。自然の中において、繰り返される、生命の循環の中にいることを、限りなく主観的感覚をもって、実感するのである。ひとつの運命は、多数の運命と絡み合って存在していることを、自らの死が近づくこと、そして、相対する命の最期を目の当たりにすることによって、実感するのである。
生かされている。狩猟文化において、人の手を越えた生命の誕生と輪廻への畏怖、敬意、慈悲は、恵みという言葉に詰まっていたのだと思う。恵みによって生かされている生命としての実感。狩ることを生活の外においやった現代では、その恵みに含まれる概念が、かなり薄まっていると言われて久しい。人の集落、つまり営みの場と、自然、神秘性を持った命の息づく土地の境界がはっきりあった頃、ある領域から、人の領域に降り立った生命によって、活力が分け与えられ、人の営みが続いていく、その循環が、人間と自然の間をとりもっていたのではないだろうか。いつしか、漁獲量、生産量という数値を前提に、第一次産業は語られるようになった。自然の神秘性、生命のバランスを感じとり、調和を祈る、といった文化が薄れていった気がする。自然と関わり、自然の恵みを頂く現場にあった、自然と調和する人間の感覚が失われていったのではないだろうか。国産だろうが、海外産であろうが、命は命である。商業的な価値を重視し、モノ化された生命、そんな概念に、我々はじわじわと苦しめられているのではないだろうか。
例えば、山は神の持ち物であり、そこに生きる動物もまた、神の持ち物である。その神から、分け与えられた命で、我々の命は保たれるのである。そんな自然信仰も、唯物論的な、自然の物質代謝におされ、あまり聞かれなくなった。神の宿る土地というような、信仰があったころ、食物としての命が育つ土地であることを、意識していたのではないだろうか、などと言われていたが、現代は、緑の経済成長、つまり、環境に配慮した経済成長を行うという方針で動くようだ。開発による環境破壊を抑えて、成長に伴う破壊を切り離していくことを、絵図にしているようだ。それは、信仰のあったころの絵図と、似ているのだろうか。デカップリングとは、主にエネルギー消費について、環境被害を切り離していくことであるが、命育む地球を守ることは、近いところがあるのかもしれない。
恵みから、生産物に変わった我々の食事。そこには、本来デカップリングすべきではなかった概念が、置いてきぼりになってしまった故の、空白があるのかもしれない。
食欲から、思考が飛びまして、あんなことを書きました。かしこ。