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人知れずのお祈り

作者: 音喜多子平

私小説?

 ある若い修道士見習いの少年が、寒さでかじかんだ両手に自分の息を当てて暖めていました。手をわずかに温くした息は、指の隙間から白く抜け出ては木枯らしにさらわれて向こうの森の方にまで飛んでいきます。


 少年は今いる土地のずっと南の生まれであったので、ことさら寒いことが苦手でした。


 そんな少年が真冬に北の教会にいたのには理由があります。少年は、今よりも小さい時から神様のお話を聞くのが好きで、いつかは神父になるのが夢でした。その為に町の教会へ入っていたのですが、その教会の神父様の命令でどうしても手助けが必要になったこの北の村の教会にやってきては色々とお手伝いをしていたのでした。


 教会の床を箒ではいたり、氷のような水で濡らした雑巾で窓をふいたりするのが少年の仕事でした。歯をカチカチ鳴らして、鼻水をずるずるとすすって、少年は一生懸命に教会をピカピカにしていました。


 それでも北の村の教会の神父様も優しい人でしたし、村の人たちも親切な人たちだったので少年は辛くはありませんでした。


 一日の半分をかけて磨いた北側の窓は鏡みたいにピカピカになりました。そうして木のバケツと雑巾を片付けようとしたとき、少年は窓に映った森の中に何かが動いていることに気がつきました。


 振り返って目を凝らすと、森の中を歩くお爺さんを見つけました。ボロボロのマントのすき間からは枝のような細い足が見え隠れしています。村の教会に来て一月も過ごしていた少年ですが、あんなお爺さんは見たことがありませんでした。少年は一度持ち上げたバケツをそっと下ろすと、お爺さんを追いかけて森へと走っていきました。


 ところで、いざ森の中に入ってしまうとお爺さんの姿はどこにもありません。少年は不思議そうにキョロキョロと周りを見ました。お爺さんを見失った少年は、薄暗い森の中で不安に思っていたのですがすぐに怖くはなくなりました。なぜなら声が聞こえてきたからです。


 それは祈りの声でした。


「私にだけ悪いことが起こりますように」

「村の人たちが災いに遭いませんように」

「私の分の祝福を他の人達にお与えください」


 冷たく暗い森の中に響く慈悲深い祈りの言葉の数々はすっかり少年の心を温かくしました。


 その声の主には心当たりはありません。けれども寒空の下、人知れず村の人達のために熱心にお祈りするお爺さんに少年は胸打たれ、しばらくは動けませんでした。


 教会に戻るのと、お日様が山の向こうに沈んで行くのとはほとんで同じでした。


 帰るとお世話係のシスターに叱られました。けれど少年はそれどころではありません。


 これまで自分がどれほど敬虔な祈りを目の当たりにしていのかを言って聞かせました。シスターも次第に顔が穏やかになって「それは良い祈りを学びましたね」と褒めてくれました。


 少年はシスターに一つ尋ねます。あのお爺さんは一体誰だったのだろうかと。どうして教会でお祈りをしなかったのだろうかと。


「村にも大勢いるからわかりません。けれど教会に来ない理由はありますよ」

「聖書に書いてあります。『施しをするのであれば、右の手のしていることを左の手には知らせるな』と。祈るときは隠れた場所で行うのです、そうすれば隠れた場所を見ておられる天上の父なる神様が報いてくれる、と」

「ですからそのご老人は人知れず森の中で神を賛美し、村の人達の為に祈っていたのでしょう」


 シスターから初めての聖句を教えてもらった少年はもう一度心がほんわかと温かくなるのを感じました。


 その日から少年は掃除や教会の仕事の合間に、森を歩くお爺さんの姿がよく目に留まるようになりました。運良く手が離せるときは一度話がしてみたいと後を追いかけるのですが、決まって怖じ気づいてしまい結局は木陰や茂みに隠れてお爺さんの祈りの言葉を聞いているだけになってしまうのです。


 少年はそれだけでも十分だと思うようになりました。


 やがて北の村にも春を感じるようになると、少年はようやく自分が本当に入っている教会へ戻ることになりました。


 一日がかりで町に戻った少年は、教会へ着くと真っ先に神父様の元へと向かいました。少年が何かを話したがっているということは、神父様には筒抜けです。


 少年はたとたどしくなりながらも頑張って北の村の教会で学んだことを話して聞かせます。始めは朗らかにうなずいていた神父様でしたが、あのお爺さんの話をし出すと次第に顔を曇らせるようになりました。


 そうして少年がお爺さんの話を終える頃には、眉間にたっぷりとシワを寄せていつもの優しい神父様の顔ではなくなっておりました。少年は消えそうな声でどうしてそんなに顔をしかめるのかを聞きました。


 神父様はハッとした表情を浮かべましたが、何かを観念した様子で少年に話し始めます。


「君が行っていた北の村は私の生まれた村なんだ」


 少年は少しだけ驚きました。しかし思えば神父様の故郷の事は聞いたことがなかったので、単に自分の生まれた村の教会を案じて自分に手伝いをしてほしいと命じたのだろうと思いました。


「君が見たお爺さんは、きっと私のお父さんだ」


 少年は今度こそ目を丸くしました。そんな事があるのだろうかと。けれども神父様のお父さんと聞くとあの敬虔な態度にも納得しました。分からないのは、なぜ神父様がくもった顔をしているのかです。


 そして神父様は喉の奥から鉛の玉を吐き出すように重苦しく話し始めました。


「私は今の君の歳くらいまであの村にいた。お父さんとお母さんと私の三人で暮らしていた」

「けれどある日、お父さんの体が悪くなって働く事ができなくなった。私達は家族みんなで神様にお祈りをした」

「でもお父さんの体は良くならなかった。それどころかその内にお母さんが死んでしまってお父さんと私はたくさん泣いた」

「何日か経つとお父さんは汚い言葉を使うようになった。もういっその事、自分も死んでしまいたいと言うようになった」

「そうするとお父さんの病気が良くなり始めたんだ。しばらくしないうちにお父さんはすっかりと元気になった。でも私の知っているお父さんではなかった」

「お父さんは変わってしまった。死にたいと祈りを捧げたら生きる事ができた。だからお父さんは自分の祈りをあべこべにし始めた」

「私は止めてほしいといったけれど、お父さんは聞かなかった。毎日毎日自分を呪って欲しい、不幸な目に合わせて欲しいと神様にそう祈り続けた」


 そこまで言い終わると二人の間に長い沈黙がありました。


 動けなくなっている少年の頭の中にあの森の中での出来事が思い返されます。


「私に悪いことが起こりますように」

「村の人たちが災いに遭いませんように」

「私の分の祝福を他の人達にお与えください」


 あのお爺さんの祈りの言葉はあべこべの意味の言葉だったのです。


 あのお爺さんは村の人を、そして神様を呪っていたのです。


「私だけを幸せにしろ」

「私の代わりに村の人たちが不幸になればいい」

「私のために他の人達の祝福を全部よこせ」


 つまり少年は敬虔な祈りを聞いていたのではなく、邪悪な呪いの言葉を聞いていただけでした。


 知らず知らずの内に、自ら進んで呪詛の場に足しげく通っていただけでした。


 木陰に隠れて悪魔に憑かれた者の声に耳を傾けていただけでした。


 少年はびっくりするほど顔が青くなってしまいました。いつもは日の光で暖かみのある木の部屋が石でできた牢屋のように冷たく感じられました。それは自分の心の温度とまったくもって同じでした。


 それを見た神父様はふと我に返って言いました。


「でも、私のお父さんは昔に死んでしまったかもしれない。長いこと村には帰ってないからね。もしかするとそのお爺さんは本当に村の人達の為に祈っていたのかもしれないよ。いや、きっとそうに違いない」


 少年は黙って首を振ると後ずさるように、逃げるように部屋を飛び出しました。


 それから数年後、たくさん勉強をした少年は一角の神父になりました。


 神父になった少年は今日もたくさんの人の、たくさんのお祈りを耳にします。


 でも、それが本当にお祈りなのかどうかはどれほど考えても分かりませんでした。


 そして大人になっても、何年と言う月日を過ごしても、どれほど聖書の勉強をしても、あの北の村の教会が怖くて二度と近づくことはありませんでした。


読んで頂きありがとうございます。


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