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【短編】雨上がりの空

【ジャンル】エブリデイ・マジック

     1


 雨が降り出した。男は小さな白い箱を濡れないよう、スーツの裾に忍ばせ、慌てて足を動かす。予報では降らないと言っていたはずなのに、頼りにならないな。文句を呟くよりも、体を前に進ませる。それも五分と持たなかった。ダメだ。

 このまま走り続けても、とてもではないが、箱の中身が濡れずに辿り着くことはできそうにない。どこか雨宿りしよう。辺りを見回してみる。

 公園でもあれば、屋根付きのベンチがあるかもしれない。たまにこの近くの道を通ると子供の声が聞こえていたから、外で遊べるスペースがあるはずだ。そこまで行ければいいが、まだ遠いな。仕方ない、どこか店にでも入ろうか。幸い、殆どシャッターで閉まっているとはいえ、ここは商店街だ。開いている店の一つや二つ、あるはずだ。

 暫く走ると、一軒の喫茶店に明かりが灯っていた。

「雨上がり、か」

 小さな看板には店の名前が書いていた。


喫茶 雨上がり


 少し変わった名前だな。だが、今の状況にはふさわしい名前かもしれない。あまり見慣れない店だが、見落としていただけかもしれない。この道を通る時は、何時も心に余裕がなかったから。

 店構えからして、雰囲気のある店だった。濡れたまま入るのがとても失礼な気がして、肩や頭の雨粒を払い落す。ある程度整ったことを確認してから、扉を開いた。

「いらっしゃいませ」

「あ、いらっしゃい」

「本日初めてのお客さん、入りました」

 開けるなり、苦味のあるコーヒーの匂いに手を引かれて店の中に入っていた。

 淡いオレンジの光り。蛍光灯でもLEDライトでも、電球でもない、ランプの火。ユラユラと揺れる影。

「どうぞこっちへ。ほら、ニワちゃん退いて」

 作りも、普通の店でもし火のランプなんて使っていれば態とらしい演出にも見えるがこの店にとっては、外から受けた印象通り、雰囲気がある。居るだけで心地よくなれる空間がここにはある。

「アイス食べおふぁっふぇはら」

「ダメ。コヌカちゃん、ニワちゃんを店の奥に」

 カウンターには五つの木製の椅子。細身で、家で自分用に買いたいとは思わないが、こういう店で座るのには悪くない。

「ちょ、待った。後ちょっとで、アイスに着くの。ねぇ、だからちょっと待ってぇ」

「では、コップごと持って行くというのはどうでしょう?」

 店の奥には、二つのテーブル。皮張りではなく、見ただけで分かるほど、お尻が沈み込む柔らかさをしていた。

「お、そうする。コヌカ、手、離して」

「もう、まったく。ウガミさんはニワちゃんに甘過ぎます」

「そう言わないでください。さぁ、シグレさんもクリームソーダをどうぞ」

「でもお客さんが――」

「アイスクリーム、溶けてしまいますよ?」

「あ、そ、それは……。お客さん席にどうぞ。コヌカちゃんの分も――」

「どうぞ」

 細長いガラスのコップに緑色のソーダ、上に乗ったアイスクリーム、サクランボ。ストローに並んで、長いスプーンが浸かっている。カウンターに二つ並べられていたのを、肩の辺りまで手を上げて二つ掴むと、女の子が店の奥に向かう。

「じゃあ、私はおかわり――」

「一人一杯まで」

 剥れる女の子。一言も喋っていない女の子が手を伸ばし、一つを手渡した女の子が腰を下ろした。

「どうぞお客様、タオルを」

 マスターらしき人が、タオルをカウンターに置いた。

「どうも」

 男は手に取る。この町に、こんな店があったのか。恥ずかしいとは思いつつも、ゆっくりと店の中を見回す。何十年と生きて来れば、特に意識しなくてもタオルぐらい広げられる。手を拭き、服を拭き始めた。白い箱はカウンターの上。

「ケーキですか?」

「あ、いやこれは……」

 態とではないにしろ、隠しておくべきだったかな。喫茶店に、ケーキの持ち込みなんて考えられない。しかも、マスターの目の前だ。コーヒー専門店なら分からなくもないが、そうではなさそうなのはクリームソーダに乗っているアイスを見れば分かる。

「はい、すいません」

「ここで食べますか?」

「いえ、そんな、娘の、誕生日なんです」

 マスターは笑顔で失礼しましたと、頭を下げた。どちらも悪くはないが、どちらかを選べと言えば、気遣いなくケーキの箱を置いた男が謝るべきだ。

「そんな私の方こそ――」

「娘さんと食べるはずのケーキを、食べるだなんて聞いてしまって」

 男の顔が少し曇った。もしそうできれば、いいんですが。

「どうしました?」

「いえ、何も」

 少しの沈黙が怖いわけではなかったが、男は急いで無言の空白を埋めた。

「何度かここは通ったはずなんですが、この店には気付きませんでした。どれぐらいやっているんですか?」

 少し考えるように俯く。短くても、例え長くやっていても大体でよかったのにな。男が答えを待っていると、ふわりと、柔らかな匂いが鼻を掠める。思わず心がそちらに引き込まれる。カウンターの上に、真っ白いカップに入ったコーヒーが出てきた。

「雨の降る日には、毎日」

 思ってもみない答えだった。期間ではなく、やっている時間が返ってきた。カップに指を掛け、マスターを見る。頷くのを見て、ゆっくりと持ち上げた。あ、そう言えば値段を聞くのを忘れている。普段なら切り詰めているはずなのに、後でもいいやと思ってしまった。まずは、このコーヒーを飲んでみたい。衝動にも似た気持ちに負けて、口を付けた。

 まず、匂いからして不味い物は分かる。薄かったり、焦げていたり。次に、口に含んだ時。砂糖やミルクで苦味を消しているのは論外として、ただ苦いだけの物も良くはない。苦みが引いていく時に、豆が持っている旨みが口一杯に広がる。そんなコーヒーが良いものだ。これが男が缶コーヒーやインスタントコーヒー、カフェなどで飲んで導き出した自論。

 ではこのコーヒーはどうだろう。目を閉じていた男が息を吐きながら匂いを口一杯に広げる。持っていたカップを皿に戻すと、少し笑ってしまった。

「お口に合いませんでしたか?」

「いえ、そう言うわけではなくて。私もこの年ですから、色々と自分なりの意見を持っていたつもりでした。でも、本当においしい物の前では、感想は一つしか出ないんですね」

 それで十分だった。ありがとうございます。マスターは笑顔になった。

「そうだ。どうしてこんなに良いお店なのに、雨の降る日に開けるんですか? 雨の降っていない時は?」

 首を振った。

「この店は、雨の降っている日、あの砂時計が終わるまでの間だけ、開けているんです」

 扉の方を見るマスターに釣られて、男も視線を向けた。

 扉の上に、大きな砂時計が一つ、この店の空気のようにゆっくりと砂を下に落としている。もう半分は落ちているように見えた。

「そんな、勿体ない。どうしてですか?」

「そう決めているので」

 理由を聞きたいところではあったが、それ以上は聞くのを止めた。私も話せないことがあるし、失礼だな。


     2


 雨が降っているのに傘も差さず、男性がジャケットで体を濡れないように、付き添う女性を覆いながら歩いていた。このままじゃ体に響くな。

 どこか落ち着く場所、本屋か、喫茶店があればいいのだが。仕切りに辺りを見回す。なんだか寂しいところだな。人とすれ違っていない。本当に住んでいるのだろうか。いや、住んでいるな。彼女の両親は、この近くに住んでいるのだから。

 少し匂いがしたような気がして、目を向けた。ありがたい、喫茶店だ。

「いらっしゃいませ」

 なんだか古い感じの店だなと男性が感想を持ったが、女性は素敵な店だと感じた。

 店の奥には三人の女の子。一人だけ剥れているが、二人はアイスクリームを突いている。カウンターにおじさんが一人と、話し相手はマスターかな。あぁ、さっき感じたのは、この匂いだったのか。

「いい匂いだね」

 そうだね。頷く男性と、楽しそうに笑う女性。そのままでは風邪をひいてしまいますねと、タオルが二枚、カウンターの上に並べられた。頷くのではなく、会釈の意味で頭を下げる男性が二枚手に取ると、一枚を女性に渡した。

 頭を拭き始める女性と、女性のお腹を拭く男性。

「風邪――」

「お前のお腹の方が心配だ」

 少し膨らんでいるのは、太っているからではないのは誰の目にも明らかだった。この女性は妊娠している。そんな体で、雨の中、ジャケット傘代わりに歩いていた。

 何かしないといけないとおじさんは思ったのか、キョロキョロしているが、男性にとっては迷惑だった。構わないでくれ。素っ気なく言ってしまうのは簡単だが、これからやっていくのに果たして、そんな態度でいいのだろうか。そんなことすれば、また言われてしまう。君には常識がない。

「あ、大丈夫ですから。構わないでください」

「いや、そうは言っても」

 女性は幸せそうな笑顔だ。あぁ、俺はこんなに強い子を好きになったんだな。改めて自覚した。幸せにしたい。

「どうぞ」

 おじさんの前に置かれているカップと違い、繊細で儚げな、パッと女性の印象のようなカップがカウンターの上に出てきた。

「生姜紅茶です。あなたにはこちらを」

 店に入ってきた時の二人そのもののようだった。女性のカップの横に寄り添うように、逞しい男性のコーヒーカップが並んだ。

「え、でも――」

 女性が店に入ってきて、初めてどうしようと男性を見上げた。

「すいません、俺たち金持ってないので」

 ここだとおもったのだろう、おじさんが、では私がと、財布を出そうとしたが、マスターは笑顔で砂時計を見た。

「お代は砂時計が決めてくれますから。その時で結構です」

 おじさんも見た。「ヤブタさんのお代も同じです」


 ずぶ濡れだった。部屋を出る時から雨は降っていた。けど、傘は持ってこなかった。持ち出せなかった。惨めで、持ち出したくなかったのかもしれない。最後の物が傘だなんて哀れじゃない、情けないじゃない。

 このまま雨が上がるまで、こうして町を彷徨っているのも悪くない。誰か声ぐらいかけてくれるかもしれない。

 でもそれは心配して?

 少し、自分でも自身のある顔。美人と言われ慣れてもいる。

 そんな女が雨に打たれているし、チャンスかもしれないと思って? 自惚れね。

 少し自分が、こんなこと思いながら歩いている自分がおかしくて、髪を掻き上げた。化粧の素振りもないけど、十分でしょ?

 本当に馬鹿ね、私も、あの男も。この雨に未練を流してもらって、先に進もう。そう思っていたのに、気になった看板があった。この雨が上がった先を見られるような気がして、扉を開いていた。

「いらっしゃいませ」

 店の奥には話をする二人の女の子と、本を読む一人の女の子。カウンターには幸せそうに話をするカップルと、中年の男と話をするマスター。本に夢中の女の子以外の誰もが視線を投げかけてきている。特に女はこれといって反応せずにタオルを要求した。

「タオル貸してもらえるかしら?」

「お、今日初めて客の方から要求が来た」

 アイスクリームの味も、ソーダの味もなくなったスプーンを銜えた。

「ニワちゃん、もう」

 気まずくなりそうな雰囲気に、カップルと中年の男は苦く愛想笑い。店のマスターとしてこういう場合どう対処するか。腕の見せどころのような気がするが、笑顔でタオルをカウンターに置く。それだけだった。

「どうぞ」

「ありがとう」

 髪を丁寧に拭いていく。服はとても乾きそうにない。それでも水分だけは取ろうと、タオルで拭いている。

「見過ぎだよ、タカシ」

 カップルの男は慌てて首を振るが、仕方ないと同年代の男は擁護に回るだろう。ただ雨を拭き取っているだけ、それだけなのに、何とも美しく絵になる。女が自惚れと言っていたが、決してそうではない。事実、カップルの女は、綺麗だから別に仕方ないけどと、負けを認めている。カップルの男は、そうじゃないと言い訳をしている。

 そのやり取りすら無かった。そんな光景を見ても、辛いとさえ思えない自分が、とても悲しい。本当に馬鹿だった。濡れたまま椅子に腰かけた。

「体の温まる物を」

「この店の自慢はコーヒーなのですが、よろしいですか?」

 店を包み込んでいる匂いを嗅いで、断る人間が果たしているだろうか。

「お願いするわ」

 あの家では、温かいコーヒーすら飲んだことがなかった。


     3


 マスターが砂時計を見た。もう砂が落ち終わってしまう寸前だ。

「さて皆さま、そろそろ店を出ていただく時間が近づいてまいりました」

 口々に、残念という言葉が出てきた。マスターは笑顔のままでいる。

「喫茶雨上がりは、雨の日には何時でも開けておりますので、どうぞお越しください」

 皆、言われるまま椅子から立ち上がり、扉に向かう。お忘れ物はありませんか、下は濡れているでしょうから足元に気を付けて、体は拭きましたがお風呂に入りましょう。

 開いた出口から最後に入ってきた女、続いてカップル、そして、中年の男が出ていく。

「あ、そうだ、お代を――」

 店から出たところで思い出したように財布を取りだした。


「何言ってるんですか薮田さん」

 薮田はシャッターと向き合っていた。あれ? 一体何のお代だろうか?

「いや、はは。何を言っているんだろうね」

 シャッター通りの、少しだけ屋根が出ている店の前。雨宿りしていたのは、四人の男女。

「雨、上がったみたいね」

 夏本番の通り雨なら焼け石に水だろうが、まだ一歩も二歩も手前。夕焼けが射し込む寂れた店跡には、涼し過ぎる風が吹き抜けた。

「それじゃあ、私は帰ります」

 綺麗な女の黒髪は誰かに惹かれたのか、風とは反対方向、向かい風に向かって歩き出した。しっかりとした足取り、ついさっきまで雨に打たれていたとは思えないほどすっきりとした顔をしている。流れていったのだろう、流してくれたのだろう、流してくれたのね、あなたが。

「あの、藤井さん、綺麗ですから、その、絶対いい男、捕まえられますよ」

「隆志、下手過ぎ。藤井さん、よく言うじゃないですか、男なんて星の数ほどいるって。でも、藤井さんみたいにきれいな人は、一番星ぐらい珍しいですから、自分に自信持ってください。絶対いい恋出来ます。でも自信持てないと、隆志くらいの男も捕まえられませんよ」

 笑った顔も美しかった。「ありがとう」

「ところで薮田さん。早く行かないと娘さん、待ってるんじゃないんですか?」

 ケーキの箱を持ち変え時間を確かめた。

「あぁ、もうこんな時間か。一日遅れてるのに、これ以上待たせられないな。それじゃあ、私も行くよ。篠原さん、橋本さん、絶対お父さん、説得できるはずですから、諦めないでください。子供のためにも、悲しい思いはさせないであげて下さい。私の娘のように。幸せになってくださいね。あ、だから、急がないと、それでは、藤井さんも」

「さようなら。それと、おめでとう」

 二人は頭を下げた。藤井は颯爽と、薮田は全力疾走で、篠原と橋本はゆっくりと、それぞれの道に向かって歩き出した。


「綺麗な夕日ですね」

 真っ黒な傘を差して、黒いコートを着た男がトランク片手に歩き出した。

「またお金取らなかったな」

「もう、そんな言い方しないの俄ちゃん」

 男の後ろには三人の女の子。

「あのさ、雨上。最近、お金けちってコーヒーの味、落ちてない?」

 男は驚いたように女の子を見た。

「何をそんな、そんなはずは、小糠さんはどう思いますか?」

「アイスクリーム、おいしい」

 傘の布部分を頭に押し当て、首を落とした。

「そんな、私としたことが――」

「あ、あの雨上さん、俄ちゃんコーヒー飲みませんよ」

 はっと顔を上げた。

「本当だ。ではどうして?」

「多分、お客さんからお金を取ってもっとクリームソーダを飲みたいんだと思います」

 なるほどと頷き、ありがとうございますと女の子に向かって微笑んだ。

「いえ、そんな」

「時雨はいつも余計なこと言うんだよ。もうちょっとだったのに」

「余計なこと言うのは俄ちゃんでしょ」

 女の子二人は睨み合う。本を持っている女の子は、男の裾を引っ張る。「アイスクリーム、おいしいよ」

「そうですね」

 男は微笑み、夕日が当たらないように黒いコートで女の子たちを包んだ。

「さて、次の雨降りの町に行くとしましょう。降り続く雨は無いのですから」

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