【短編】螺旋階段
【ジャンル】極楽
私は今、階段を上っている。真っ暗で、真っ暗で、何一つ見えない。階段を上っているというのも、足を動かし上っている感覚とカツン、カツンと響き聞こえる音で、私はそう判断していた。なぜここにいるのか、どうして階段を上っているのか、私は知らない。ただ逃げ出すように、この暗い闇に別れを告げるように、一歩踏み出す。重たい体、走って逃げだしたいが、私のこの意志よりも強い意志が、私の上る速さを押さえつけ、一定の間隔で上ることを選ばせる。こんなにも怖いのに、冷静に踏み出すしかできない体に、苛立ちを覚えながらも足が動いて上ったと分かった。
何も見えはしなかったが、不思議なもので、昼間に懐中電灯で道を照らしても光を放っているとは感じられないが、夜になればあんな小さな弱い光でもはっきりと分かるように、頭上、遥か上の方で針の穴くらいの光りが感じられた。速く行きたい、早く行きたい。ただ、見えた訳ではない。私が上を向こうとしても体は、次の一歩を踏み出すことに集中していた。
歩き始めてどれくらいが経っただろうか。時間の感覚がまるでない。最初からそんな概念が無いように、一秒の意味さえ忘れてしまいそうだ。足はまだ上へ、ただ上へ。次の一歩を踏み出すだけ。
いつの間にか、私の体は暗い闇の中から、朝日が射す前の薄明かりの中にいた。本当に夜明け前の朝日で明るくなったのではないだろうが、それぐらい感動的だった。私は下を向いていた。靴が次に乗るべき階段を見ていた。真っ黒な靴だ。筆に塗れば黒い線が描けそうなほど、曇りもない黒。ズボンも同じく黒で、上着も、視線にたまに入り込んでくるネクタイやシャツまでも、全身が一色だった。もしこんな姿を妻にでも見られたら、私は何と言われるだろう。少しだけ不安だったが、次の一段に乗ると不安が薄れた。そして次の一歩でも。
私は完全に光の中にいた。下を見下ろせるなら見下ろしてみたい。気を失いそうなほど高いと思う。いや、きっと高いだろう。確信が持てるほど、私は上り続けていた。この、光に包まれた螺旋階段を確実に一歩ずつ。
元来、私は怠惰な人間だ。自慢ではないが、言いきれてしまう辺りが何とも情けない。今見下ろせば、あまりの高さに気を失うのは間違いなかった。それほど、この不思議な螺旋階段を上り続けていた。なのに、なのにだ、疲れを感じないどころか、汗の一つも掻いていないのはなぜだろう。不思議で堪らなかったが、私は考えで足を止めたくないほど次の一歩が待ち遠しかった。
目的が見えないまま、それでも苦痛には思わない同じ行為、足を動かし、螺旋階段を上っていたが、流石に違う事に頭が向いてしまった。もしかすれば、私は火になってしまったのかもしれないと。螺旋階段。螺旋と言われ、私がはじめに思い浮かぶのは、蚊取り線香だ。あの、二つ一組で円を作り、使う時には削れて折れてしまわないかと、慎重にズラし、ようやく使えるようになる、陶器の豚の口の中に置いて、私の実家ではそうして使っていた蚊取り線香。もしかすると、この螺旋階段が蚊取り線香で、実は私は階段を上っているのではなく、燃やして進んでいるのではないかと、そんな事を考えながら、楽しいだけでは飽きてしまうのかと思いつつも、まだまだ楽しい一歩を踏み出した。
後ろを付けてきている。いや、私の前を歩いている。螺旋階段だからこそ聞こえる、他の人の足音。私はそう思いたかった。私だけが、こんな楽しい階段を上っているのかと思うと、申し訳なかったから。止まろう、止まって確かめよう。私は体に相談した。答えは次の段に足が乗ったことで、返ってきた。
どうやら、この楽しかった階段も終わりが近いようだ。真っ白だ、真っ白になっていた。階段は微かに見えるが、周りは見えない。周りは見えないと言いながら、見た記憶が無い。ただ、もう終わりが近いことだけは分かった。あぁ、残念で仕方がなかった。終わってほしくない、何があっても、例えどんな理由だったとしても、終わってほしくなかった。でもどうやら終わりだ。私の視界の先の、最後の一段を上り、足が止まったのだから。
私は今、階段を下っている。真っ白で、真っ白で、何一つ見えない。階段を下っているというのも、足を動かし下っている感覚とカツン、カツンと響き聞こえる音で、私はそう判断していた。なぜここにいるのか、どうして階段を下っているのか、私は知らない。ただ待ちきれずに、堪えることができずに弾む心と同様に、一歩踏み出す。