秋桜の追想5
木曜日の放課後。
旧校舎の教室の戸を開けた私は、無意識に教室中を見渡した。
窓際の、一番後ろの席。
校庭を眺める綺麗な横顔が目に入って、心臓がひとつ、脈を打つ。
もしかして、いるかな、と思ったその人は、その場所にいることが当たり前のように、静かに、しっくりと、そこに座っていた。
今日は長い髪を一本に束ねているせいで、白く細い首筋がむき出しになっていて、それが彼女のみに纏う儚さを、さらに際立てていた。
「…あなたが来るんじゃないかなあって、思ってたの」
入り口で立ち尽くす私に気がついたその人、山川さんはゆったりとそう言った。
「私も、もしかしたら…今日はあなたがいるんじゃないかと、思ってました」
私が言うと、山川さんは嬉しそうに微笑んだ。
「あら。それは待ってた甲斐があったかな。ねえ、座って、またお話しようよ、ゆうちゃん。お友だちを待つ間の暇つぶしに」
「いいですよ」
頷いて、山川さんの前の席に座る。
なんとなく、心がざわめいた。
実は今日、彼女がいるんじゃないかと期待していた。
…会えて嬉しい。そう思うくらい、私は彼女を気に入ってしまったみたいだ。
ううん、きっと、私だけじゃない。きっと、彼女と出会った人は誰もが、彼女のことを気に入ると思う。
そのくらいに、魅力的な人だから。
「でもなんで、私が今日いるかもしれないって思ったの?昨日はいなかったのに」
「だって、今日は木曜日だから、バイトに入る日なんですよね?」
「うん、そうだよ。よく知ってるね?」
「火曜と木曜がバイトの日だって聞きました」
「ほう。他には?」
「他?」
「他に、私について、どんな情報を知ってるの?」
両手で頬杖をついて、楽し気な表情で微笑んでいる。
私はどぎまぎしながら答える。
「この学校の卒業生で」
「うん」
「…事務のバイトをしてて」
「そうね」
「たぶん大学生?」
「当たり!」
「…」
「他には?」
他には…
色が白くて。
線が細くて。
黒が似合う。
印象的な人。
不思議な人…
わたしが持っている彼女の情報は、とても少なかった。
「他には…わかりません」
そう言うと、ふふっと笑った。
「私の方が、ゆうちゃんのこと知ってるのかもね」
「え?」
私は瞬きをする。
「本宮裕。高校1年生」
山川さんは得意気な顔で、話し出した。
「中学時代は陸上部、今は帰宅部…でも足は早いから体育祭ではリレーの選手。仲の良い幼馴染がいて、彼女はムカデ競争に出る」
ここまでは、私が前に話したこと。
「あと、3つ年上の姉がいる」
すっと指を三本立てて、そう言った。
「…あの、私、姉のこと、話しましたっけ?」
「…狐につままれたような顔してる。なんで私が知ってるかわかる?」
楽し気に言う山川さんに、私は口を尖らせた。
「…わかりません」
「気になる?」
「そりゃ、気にならないと言えば嘘になります」
「ふふ」
山川さんは小さく笑って言った。
「本宮菫ちゃん」
「え?」
姉の、名前。
「菫ちゃん…ゆうちゃんのお姉さん、でしょ?」
綺麗な笑顔はそのままに、瞳の奥の表情が読めない。
「そう…ですけど?」
「…やっぱり!」
山川さんはにっこり笑った。
心なしか、口調が早くなる。
「そうじゃないかと思ってたの!名字も一緒だしね、何より、顔がそっくり!」
「…はあ」
テンションの上がった山川さんを不思議な気持ちで眺める。
なぜ、姉のことを知っているんだろう?
「なんで菫ちゃんのことを知ってるのか、不思議?」
私の心を読むように、そう言って首を傾げた。
「…実は私、菫ちゃんと同級生なんだよ」
はにかむようにそう言う山川さんは幼い少女のようで。
あれ、でも…
「同級生…?姉は、山川さんのこと知らないって言ってましたけど…」
彼女の表情が一瞬、固まったように見えた。
「あれ、菫ちゃんに私のこと、聞いたんだ?」
「あ、一応。…卒業生だって言ってたから、もしかしたら知ってるかなって思って」
「ふふ…私、地味な生徒だったからなあ、菫ちゃんと違って」
山川さんはくすくす笑う。
彼女に限って、地味、なんてことはないと思うんだけど。
そこにいるだけで人の目を引くような、そんな人なのに。
「菫ちゃんは、陸上部のスター選手で、目立ってたから。だから私、知ってたの。私、ひとりぼっちの茶道部だったから、よくここから校庭の様子、見てたの。彼女、すごかったんだよ。ファンクラブまであったんだから。だから、私、ゆうちゃんをはじめて見かけた時、菫ちゃんに似てるって思って、気になって…」
一気にそこまで話すと、伸びをするように両手を伸ばして、猫のようにしなやかな動きで、彼女は立ち上がった。
「…ねえ、ゆうちゃん。私のこと、もっと知りたい?」
「え?」
「知りたい?」
真っ黒な瞳に吸い込まれそうになる。私は自然に口を開いていた。
「…知りたいです」
本当に、変な人だと思う。
表情はころころ変わるし、急に話し出すし、話題は変えるし、何を考えているのかわからないし。
なんとなく振り回されているような、そんな気がするんだけど…それが不思議と悪い気分じゃない。
この人のことをもっと知りたいと、好奇心が動く。
「じゃあ、今週末の日曜日、ここで会いましょ」
「え、日曜日?」
「うん、デートしよう」
「で、デート?」
ちらっとしのの顔がよぎる。
私が山川さんとデートする、なんていったら、彼女はどんな顔をするだろう。
「日曜日って、バイトじゃない日ですよね?」
「そうだけど?」
「わざわざ私に会うために学校にくるんですか?」
「ゆうちゃんだって、わざわざわたしに会うためにくるんだよ?」
「えっと…」
「だって、デートってそういうもんでしょ?」
にっこりと笑った。
天使のような顔で。
「じゃあ、日曜日に。またね」
「…あっ、ちょっと…」
私が口を開く間も与えずに、山川さんは教室を小走りで出て行った。
リズムを刻むように軽やかに、彼女の足音が遠ざかる。
残された私は混乱する頭で、ただただ彼女が残した言葉のピースを反芻した。
同級生。
本宮菫。
陸上部。
日曜日。
デート…
「…どういうこと?」
ひとり呟いて、がらんとした教室の天井を眺める。
何が何だかよくわからない。
急に静かになった教室で、私はただ、途方にくれていた。




