補足編
「なっちゃん大丈夫~?」
間延びした声で話しかけられ、平気と答えるかわりにひらひらと手を振った。
すると相手はむうと唇を尖らせて、不機嫌そうな顔を隠しもせずに、嘘でしょと言いきった。
見なくてもわかる、きっと奴は疑わしげな目で見ているはずだ。
「そんな青い顔して平気もないでしょ。熱は……ああ、ないみたいだねえ」
すり、と相手の額が自分のそれに寄せられ、こちらが文句を言う前にすっと離される。
普通に手で測れよと言いたいが、言っても無駄だとわかっているから、その言葉は飲みこんだ。
まああれだ、大型犬に懐かれてると思えば、まだ我慢出来る、うん。
だいだい何で界の移動のたんびに、べったりくっつかなきゃいけないんだ。
腕を掴むとか服の裾を掴むとかじゃ駄目なのか。
はぐれると危険でしょ~?うっかり迷子にでもなられても、探せないしねえ。
底の読めない、そもそも底があるのかもわからない笑顔で言われると、納得のいかないものの渋々と頷くしかなかった。
移動の時は不本意ながら、相手にしがみつく格好だけど。
奴も、間違ってもこっちを取りこぼさないようにしてるんだろうけど。
わかるけどさ、何も腰と背中に手を回してさ、がっちり抱えこまなくてもいいんじゃないかと声を大にして言いたい。
こっちが何を言ったって、自分のしたいようにする相手だという事は、もう嫌というほどわかっているから言わないだけで。
「……一応動けるんだから、まだ平気だ」
「ソレ胸張って言うことじゃないでしょ。全然大丈夫じゃないって。もう少しあそこで休ませて貰った方がよかったのかなあ」
珍しくぼやく姿に、おやと目を見張る。
あそこ、とは今しがた後にしてきた界だった。
自分が元居た界によく似ていた。
一縷の望みをかけて、ここはどこか、と尋ねた相手が……図らずも窮地を助け、そして自分も助けられた相手だったのだ。
「それでも、ずっとあそこで休んでいるわけにはいかないんだし。それなら早く移動した方がいいだろ」
そうだねえとため息をこぼしながら続けられた言葉に、そんなことこっちが知りたいと内心でぼやく。
「なんで、合う界と合わない界があるんだろうねえ」
界を移動する日々の中、気付かざるをえなかったことがある。
何が反発するのかそれとも体質なのか、移動した先の界で、時折酷い頭痛や吐き気、倦怠感に襲われる事があったのだ。
それらは防ぎようがなく、界を移動するまで続いた。
奴の力でもそれらには抗う術はなかった。
初めは奴はあわあわと取り乱してうろたえて、あれこれ試した。
確か、簡易結界やら体力回復やら、治癒やら……他はもう忘れたけど、そりゃもう色々。
はっきり言って、気持ち悪くてしんどい時に、傍でがたがたやられてみろ。
八つ当たりだとわかっていても、苛々してしまった。
怒鳴ったりしなかったのは。まあ奴が哀れになるほど顔を青くした挙句に今しも捨てられそうな犬のような目で縋って来たからだ。
あの状態はすごく不本意だったけど、それは奴のせいじゃないし。
責めたりはしないってのに。
八つ当たりくらいは、するかもしれないけど。
そういう界に移動してしまった時は、さっさと次の界に移動する。
けれど、移動した先で楽になればいいけれど、移動した先でも同じことがあったりもして……そうなるともう半病人状態になってしまう。
吐き気がするから碌に食べられないし、そうなると体力までがりがり削られる。悪循環だ。
原因は何かと、自分よりは何か知ってそうな奴に尋ねても、はっきりした答えはかえらなかった。
推測だけと、と前置きをしたうえで奴は言う。
きみがあそこで祓ってきた、瘴気、あるでしょ。アレよりはだいぶ弱いんだけど、似た何かはあちこちの界にもあるみたいでね。それが悪さしてるんじゃないかなあ。
多分ね。瘴気に似たモノは、自分たちを消すモノがわかるんじゃないかな。だから消される前に干渉してくるとか?
それを聞いてますますげんなりしたのは言うまでもない。
瘴気、とやらのせいで自分は縁もゆかりもない界に呼びだされた挙句、望まない役割を押しつけられて。
色々あったけど、今はこうしてもと居た場所へ帰るための途中だった。
ここは何度目に訪れた界になるだろう。何処か自分のいた界に似ている界だった。
けれど体に圧し掛かる不快感と倦怠感が、ここは違うと告げていた。
それでも……僅かな望みを抱いていたのだけど。
合わない界だとわかれば、長くとどまることなくすぐさま移動するのが常だった。
界の移動が容易い技だとは思っていない。どれほど力を使うのかも知らないが、それなりに疲労するものなのだと知ってもいる。
それでも移動を躊躇わない奴に、何をどう言ったらいいのかわからなくなるのはそんな時だった。
ただ、今回は少し事情が違った。
話しかけた人間を襲うモノがあったのだ。
瘴気とよく似た、欲望を凝りかためたモノがあまりに気持ち悪くて、つい払いのけてしまった。
あらら、アレ道を塞いじゃったよと奴が呟いていたが構わなかった。
それくらい……吐き気がするほど気持ち悪かったのだ。
そこへ助けた相手が近寄って来た。礼を言われるが、自分としては気持ち悪いのを払いのけただけなので、何とも面映ゆい。
そこで、ふと体が少し楽になっている事に気付く。
おや、となにかに気付いたんだろう、奴も小さく呟いていた。
助けた相手からは、何やら不思議な力がこぼれている。
だからなのか、奴自身は食事も睡眠もいらないくせに、助けた礼として一夜の宿と食事を要求していた。
こんな得体の知れない相手に、いくら助けられたとはいえ、そんな警戒心の無い事をする奴があるものか。
と思っていたが、助けた相手は些か警戒心が薄いらしい。
自分たちで言い出しておいて、こいつ大丈夫かと心配になってしまった。
しかし。その心配も、家に案内されて納得する。
家の中はとてもキレイなものだった。
体に圧し掛かってくる倦怠感も不快感も、拭ったように消えている。
この家の中には、悪いものは欠片もなかった。
それどころかじんわりと体の芯から温められるような気さえする。
まるで清浄な結界の中にいるみたいだと思った。
どんな力を持つ相手か、よくわからないけれど。
きっと悪いモノは、触れることすらできやしないんだろう。
張り巡らされた結界の周りを取り囲み、うろつくのが精精だ。
それなら無防備になるのも致し方ないかと思えた。
こんなものしかないんですがと、幾分申し訳なさそうに出された食事を次々に平らげてゆく。温かいし美味しいし、十分だと答えて食べ続けた。
ここしばらく、吐き気のせいでまともに食べられなかったのだ。
食べられる時に食べておかないと体が持たない。それにここでならゆっくり眠れるだろう。少しでも体調を整えるべく食事に専念したのだった。
「少しマシな顔色になってたのにねえ~……」
奴はまだぼやいている。ちょ、それやめろ、頬をくっつけるなと文句を言った。がっちり抱えられるのは我慢するけど、懐くんじゃないっ。
本当の犬なら許すけど、どんなに犬みたいでもお前は犬じゃないだろうっ。
奴は渋々顔を離したけど。おい、人の頭の上に顎をのせるな。
それには諦めて、話を続けた。
「仕方ないだろほんと。次の行き先が合う界だったら治るし。それにいいもん貰ったし」
あそこを立ち去る前に、よかったらと差し出された包み。
中身は日持ちのする焼き菓子や軽食だった。
作った本人は気付いていないんだろうけど、それらからも微かに温かい力が零れている。
食べれば何らかの力にはなるだろう。
「そうだねえ。それがあるから、もし次に行った所が合わない場所でも、少しは凌げるでしょ~」
「……第一希望が通るなら、せめてこの吐き気のない所にしてくれ……」
「あはは~なっちゃんの希望は叶えてあげたいけど、こればっかりは出たとこ勝負なんだよねえ」
ごめんね、でも、まあそう願っていてと奴は笑う。
そろそろ着くよと囁く声に顔をあげる。
夜明けの空に似た光が、目の前に広がっている。
近づくにつれ光はますます強く白くなり、目を開けていられなくなる。
奴は心持ち楽しそうに笑う。
「さて、ここはどうかなあ~?」
なっちゃんの居たところだといいねえ、なんて、そんな事は言わない。
自分の一番の望みがそれと知っているから。
だから、まるで旅の途中、ふと立ち寄る場所でもあるかのような、軽やかな声で、言う。
「そりゃ、行ってみてからのお楽しみだろう?」
だから自分も、これが楽しい道中のような、そんな言葉を返すのだ。
「今度は美味しいもの、たくさん食べられるといいねえ」
そうだなと頷いておく。
自分は殆ど何も食べなくて平気なくせに、何を言うんだかと少し呆れながらも。
光が花火のように弾ける瞬間、後にしてきた界とそこで会った人の事が胸の中を過った。
それに、ありがとうとさよならを告げて。
心の底にそっと沈めたのだった。
END
補足編、という名の裏話編でした。
お読みいただき、ありがとうございました。