本から飛び出た黒い侍 ※本からみつける恋の文字とのクロスオーバー
これは拙作「本からみつける恋の文字」及びその続編「恋から繋がる妙な縁」とのクロスオーバーです。本から~を知らなければ内容の一割も理解できないかと思いますが、あっちは黒衣ほど長くないので、暇なら併せて御一読ください。
最近、僕はモテているらしい。
恋愛に興味が無いと言いつつ、ひょんなことから恋人ができてしまってから三年。大学に進学すると同時に同棲を始めた僕たちは、相も変わらず本ばかりを読んで暮らしている。
最初こそ慣れない生活に苦労をしたが、掃除洗濯を僕が。料理を実代がすると決めてからは家の中がうまくまわるようになった。
実代は下宿するにあたり、母親から料理のイロハを叩き込まれたらしい。それまではろくに包丁も握ったことのない実代ではあったが、要領がいいのでめきめきと上達したらしい。実際に買い物から調理、後片付けまでを手際よく済ませる姿は様になっている。
「レシピさえあれば何でも作ってやるぞ」
古い日本家屋の台所は決して広くなく少し薄暗いが、花柄のエプロンをつけてタマネギを刻む実代は既に主婦の風格らしきものが備わっている。
一方、僕も最初は洗剤を多く入れすぎて実代のシャツを一枚バリバリにしてしまうというミスをやらかしたものの、掃除と整理整頓は得意とするところである。これは偏に実家が狭く、大量の蔵書の管理には整理整頓が必須だったからだろう。
また、実代は本屋、僕は図書館でそれぞれアルバイトをしているし、そんなにお金を使って遊ぶこともないので切り詰めて生活をする必要も無い。
生活が安定しなくては心安らかに読書を楽しむことはできない。この一年間、僕と実代は恋人というよりも夫婦に近い形で過ごしていたのかもしれない。
「鷹成君、最近なかなか良い噂が出回ってるよ」
そんな僕に妙な話を持ち込んできたのは、嘉納さんだった。
場所は僕と実代の家で、時間は夜の十時すぎ。不破と嘉納さんはよく僕たちの家に遊びに来る。
嘉納さんと言えば不破の恋人で、僕と実代が恋人になるきっかけを書いた小説家でもある。その結果、僕と実代が恋人になる経緯まで書いてしまっている。
つい最近、僕と実代の馴れ初め話とも言える「本からみつける恋の文字」が出版されて、そこそこ売れているらしい。肖像権の名目で何度か食事を奢って貰っていたりもする。
嘉納さんは持ち前の明るさと人なつっこさで、大学でもすぐに友達をたくさん作っており、噂話には詳しい。彼女が僕や実代に色んな噂を持ち込んでくれるお陰で、陰に篭もりがちな僕たちも辛うじて大学生らしい雰囲気を味わうことが出来ている。
しかし、その僕が噂になるとはこれ如何に。およそ噂や流行という類の言葉から縁遠い人間だと自負していたので、ちょっとした衝撃でもあった。
「鷹成が噂になるとはね。僕の噂はないのか?」
嘉納さんの隣に座っていた不破が尋ねると、嘉納さんはふくれっ面になってぷいとそっぽを向いた。
不思議そうに小首を傾げる不破の様子を見ると、自分が本当に噂されていることは聞いていないのだろう。
去年の春、入学早々に学生自治会の会長に立候補して、圧倒的なカリスマで堂々と当選して以来、不破はちょっとした有名人になっている。その端正な容姿と落ち着いた物腰から、女性からの人気も高いという。殊、二年生に進級してからこの二ヶ月間で三人の後輩に告白されているのだから、恋人として嘉納さんも不安なのだろう。
かくいう嘉納さんも、人気があるはずだ。僕も何度か知人に嘉納さんを紹介してくれないかと頼まれたことがある。不破とセットで紹介してやったら、随分と恨みがましい目で見られた。紹介するならば嘉納さんと気持ちを通じ合わせている不破もまとめて紹介した方が、きっと仲良くなりやすいだろうという僕の配慮だったのだが、余計なお世話だったようだ。
ちなみに実代も嘉納さん同様に紹介を頼まれることが多い。
折角だから家に招待して、実代を紹介がてら歓待したりするのだが、どういうわけか微妙な顔をされてしまう。遠目で見ているのと、実際に喋ってみるのとでは印象も違うだろうから仕方ないことかもしれないが、口調が少々時代がかっているものの、僕から見ても実代は凛とした美人だし、決して他者との交流を持たないわけではない。全員が全員、微妙な面持ちで僕を見ることもないとは思うのだが。
「それで、誠二の噂というのは?」
実代が尋ねると、そっぽを向いていた嘉納さんがぱっと顔をほころばせて、僕を見た。
「この前、一緒に文芸部に顔を出したでしょ?」
「うん、そうだね」
一週間ほど前に、僕と嘉納さんは二人で大学の文芸部にお邪魔したのだ。
大学生作家、伊達倭の正体が嘉納さんであることを一年かけて突き止めた文芸部は、自分たちが書いた小説の品評会に嘉納さんを招待した。是非、プロの目で見て欲しいとのことらしかった。
嘉納さんは書くのは得意で、読むのも勿論好きなのだが、あまり感想を言うのは得意ではない。それで、読書を趣味とする僕たちの誰かを連れて行こうと思ったのだが、不破と実代は歯に衣着せぬ物言いをするので、場合によっては文芸部の面々に取り返しのつかないトラウマを抱えさせてしまう。そこで、比較的大人しい僕を選んだというわけだ。
素人の書く小説がどんなものかと興味があったので嘉納さんに同行したのだが、可哀想だったのは文芸部だろう。僕と実代、不破の三人の中で、文章表現に一番口うるさいのは僕だった。
初対面の人間がたくさんいる中で、僕はうっかり細やかな表現の違和感や、ちょっとした文章のミスを小一時間も追求してしまった。嘉納さんが途中で止めてくれなければ、僕は一日中喋っていただろう。
「……それで、やっぱり文芸部の人が怒ってた?」
僕がおそるおそる尋ねると、嘉納さんはにこやかに首を横に振った。
「良い噂なのだろう。怒るというよりも、歓迎されているということなのだろう」
「ああ、なるほど」
実代のアドバイスに、僕はほっと胸をなで下ろした。あまり他人に関心を持たない僕でも、やはり嫌われるのは喜べることではない。どうせなら仲良くするほうが気分も楽になる。
しかし、嘉納さんは「うーん」と唸り、不破を見た。不破は何かに気付いたようで咳払いをすると、肩をすくめて僕を見た。
「歓迎されているという表現は少々語弊があるな。まあ、平たく言えば好印象を与えたのだろう」
なるほど、散々口うるさく言ってしまったが、彼らにとっては良いアドバイスだったのかもしれない。真剣に意見を求められていたと言うことなのだろう。
「……俊彦君、それだと鷹成君にはわかんないよ」
僕が一人で頷いていると、呆れたように嘉納さんが呟いた。どうやら僕の仕草から明らかに勘違いをしていることを悟ったようなのだが、さっぱり意味がわからない。文芸部で僕は取り立ててユーモラスな会話をしたわけでもなく、淡々と文章について追求していただけなのだが。
首を傾げる僕に、嘉納さんはやれやれと溜息をついて、ぼそりとこう尋ねた。
「草食男子って聞いたことある?」
僕はベジタリアンではないのだが、どうやらそういうことではないらしい。
草食男子とは恋愛に対して興味が薄く、積極的ではない男性を指す言葉のようで、最近はその草食男子をタイプに挙げる女性も多いと言うことだった。
確かに草食男子の特徴と、僕の特徴に合致する点は多い。いや、多いというかまさしく僕のことだろう。
「鷹成君って童顔っていうか、優しそうな顔してるでしょ。先輩方がなかなかねえ、気に入っちゃったみたいなんだ」
なるほど、僕の容姿や性格が、何故か時代の波にうっかり乗ってしまったらしい。恋愛に興味が無いことが、恋愛の第一歩とも言える好みのタイプに合致してしまうところに矛盾を感じなくもないが、それを言えば恋愛に興味がなかったはずの僕が、同じく恋愛に興味のなかった実代と交際しているのもおかしな話だ。
ちらりと実代を見ると、彼女も草食男子という言葉を知らなかったらしい。僕の顔を見て、首を捻ったり何かを思い出そうと虚空を見つめたりしていた。
「……よくわからんのだが、恋愛に興味のない男と、どうすれば交際にまで発展させられるのだ?」
実代がそれを言ったら、自分の行動を全否定することになると思ったのだが、僕と実代の馴れ初めは特殊な部類に入るだろう。こんな恋愛があちこちに転がっていたならば、嘉納さんの新作「本からみつける恋の文字」が斬新だと評判になることもない。
「私も詳しくないし、そもそも草食男子にちっとも魅力なんて感じないから……まあ、聞いた話だと肉食女子っていうのがいるみたい」
嘉納さんは曖昧に答えたが、中々に空恐ろしいネーミングだ。男女間で弱肉強食の関係が成り立ってしまっている。要するに、女が男を食べると言うことだろうか。食ったというのは、主にセックスをしたときに使う言葉だと思っていた。
そうなると少々おかしい。昨日の夜、僕は若い男の常として性欲を持て余してしまい、実代の部屋にお邪魔して思うさまに抱いたばかりである。草食男子の代表たる僕が率先してセックスをしているのは明らかな矛盾だ。
「昨日のことはどう思う?」
実代が直球で僕に尋ねてきた。述語をうまく隠しているので不破や嘉納さんにはその真意が伝わらないだろうが、それにしても実代も全く同じ思考をしているのが、同棲の成果だろうか。
「概要だけじゃわからないものかもしれない」
「ふむ、それもそうか」
僕たちは恋愛に興味が無いから交際を開始したという、それだけ聞けば矛盾の塊のような馴れ初めだ。そうなれば、草食男子にも何か深いわけがあってセックスに関しては肉食化するのかもしれない。
「なんとなく、昨日のことが想像できてしまうのが友情の悲しいところだね」
不破には会話の内容から、僕と実代が昨日セックスしたことが理解できてしまったのだろう。しばらくして嘉納さんも気付いたようで、少しだけ頬を赤らめた。あっけらかんとした人だけど、やはり女の子だけあってそういう話題には恥じらいを持つのだろう。
「それは兎角、鷹成が流行の草食男子という点に関してはその通りだと思う。人気が出るのも頷ける。良かったな、鷹成」
「別に良くはないよ。僕は実代としか恋愛をする気がないから」
もっと言えば、実代としか恋愛ができないのだ。探せば恋愛に興味がない女性はいるのかもしれないが、そもそも僕も恋愛に興味がないので、探す気すら起きない。
「あはは、相変わらずだね。また部室に連れてきてくれって言われてたんだけど、やめといたほうがいいね」
嘉納さんは早速、携帯電話を取り出して連絡を入れようとした。
しかし、ふと僕の横から手が伸びて、嘉納さんの携帯電話を掠め取った。
「え……実代?」
「ふむ、中々面白そうじゃないか。恋人がモテていれば嫉妬すると聞くが、それは私達にもあてはまることなのか興味がある。私も同行しよう」
実に楽しそうに、実代が不敵な笑みを浮かべた。
久方ぶりの「恋人らしいこと」に、思わず僕は苦笑して、不破と嘉納さんは顔を見合わせる。
「うーん、仕方ないなぁ。それじゃあ、もうちょっと規模も大きくしようかな」
嘉納さんは呆れた様子ながらも、すぐに実代同様の不敵な笑みを浮かべるのだった。
嘉納さん曰く、どうせならば不破も連れて行かないとすぐに僕と実代が恋人だとバレてしまうとのことだった。
ただし、四人で文芸部のドアを叩くのは気が引ける。そこで、嘉納さんの作家仲間を一人呼び寄せて、ちょっとした座談会を開こうということだった。
これには、僕や実代。それに不破も大歓迎であった。小説は小説として楽しむスタイルの僕たちだが、作家本人にもやはり興味を持ってしまう。嘉納さんから呼び寄せる作家の名前を聞けば、僕と不破は特に盛り上がった。
鈴科壬。三年ほど前にデビューした作家で、ややライトノベル寄りながら、堅い文章とキャラクター描写に定評のある作家である。不破が彼のファンで、不破から彼の本を借りて読んだ僕もファンになっていた。
かくして、鈴科壬の予定が合う二週間後の金曜日に、僕たちは再び文芸部の人間と顔を合わせることになった。
どうやら文芸部の人間は鈴科壬よりも嘉納さんのファンであるらしく、そこまで大歓迎というノリでは無かった。実際に作家としての知名度も人気も嘉納さんの方が上である。
それでも、僕と不破はこっそりサイン色紙を用意するはしゃぎっぷりであり、鈴科壬を待っていた。
先に出迎えに行った嘉納さんを待ち構えながら、しきりに喋りかけてくる文芸部の諸姉に適当に相槌を打つ。不破は待つ間に文芸部が発行している冊子を読んで、作者を捕まえては感想を言っている。実代は知人がいたらしく、中々爽やかな好青年風の男と喋っていた。
「お待たせー」
そうしている間に、嘉納さんが部室に戻ってきた。僕と不破がいち早く反応して、速攻で振り返ると、嘉納さんの後ろに控えている男――鈴科壬と目が合った。
第一印象は、でかい。そして、細い。
おそらく190センチを越える長身痩躯で、眼鏡をかけた着流し姿の男だった。まるで大正文士のような出で立ちであり、年齢は二十代後半だろうか。落ち着いた風貌は兎角、渋い。
「紹介するね。私の作家友達で、あと、専属編集者でもある鈴科壬先生」
専属編集者とはこれ如何に。そう思っていると、鈴科壬は細長い体躯を軽く折った。それが礼だと気付くまで数秒。なんというか、圧倒的な存在感を放つ人だった。
「今日はお招き頂いて感謝するよ。妙もありがとう」
鈴科壬は嘉納さんに微笑みかけて、ゆっくりと部室に入ってくる。文芸部の部長が歓迎の言葉を述べて、鈴科壬に席を勧める。
文芸部の面々。特に女性達は憧れの作家というよりも、渋い男前の登場に浮き足立っていた。実代も満更ではないようで「ほう」と短く声をあげて鈴科壬の顔をじっと見ている。
「鈴科先生、お会いできて光栄です」
そんな中、やはり積極的に行動するのが不破である。どちらかと言えば似た雰囲気を持つ不破に、鈴科先生は不敵な笑みを漏らして、不破の差し出した手を握り返した。
「君は、おそらく不破君じゃないだろうか。妙から話を聞いているよ」
不破は珍しく照れ笑いを浮かべた。一体、どんな話が嘉納さんの口から漏れ伝わったのかは知らないが、憧れの作家が自分の存在を認識していただけで嬉しいのだろう。
「それじゃ、折角だから鈴科先生も交えて、品評会でもしよっか。人気じゃ私の方が上だけど、文章は先生の方がずっと凄いから、きっと良い勉強になるよ」
嘉納さんの言葉に、鈴科壬は苦笑した。確かに嘉納さんの『恋』は若年層に人気で、発売から数年経った今でも書店で手に取る人が多い。鈴科壬の代表作『黒衣のサムライ』も勿論売れているのだが、コアなファンがついているという塩梅で、知名度や人気では圧倒的に嘉納さんに分がある。
しかし、文章ではやはり鈴科壬だろう。決して難解な語彙を使うでもなく、叙情感に溢れているわけでもないのに、素直に情景を脳裏に蘇らせる文章と、巧みなキャラクター捌き。我が子のようにキャラクターを愛していなければできることではないと嘉納さんもベタ褒めをするぐらいなのだ。
やや緊張の面持ちの文芸部とは裏腹に、僕は心を弾ませて品評会に参加することになった。
「ふむ、言葉をよく知っており、実に多彩な表現が組み込まれている。語彙だけならばプロにも通用するだろう。ただ、少しテンポが悪いな。表現に幅を持たせるのは勿論重要だが、読みにくいのは勿体ない」
鈴科壬が加わった品評会は、彼の圧倒的な弁舌に終始したと言っていい。
文章を書くのだから言葉をよく知っているのは当然だが、むしろ彼の場合は言葉をよく知っているから文章を書いたのではないかと思うほどだ。とにかく、論理的な解釈から全体の構成まで、流石はプロであり、編集者でもあったというのが頷ける。
それに対して、比較的よく食らいついたのが不破と実代だろう。
読書量だけならば負けないという自信がある二人は、半ば挑戦の意味も兼ねて鈴科壬の言葉に反論をしたり、質問を投げかけたりしていた。既に文芸部員達は蚊帳の外であろう。如何に文章が好きで書いているといえども、僕達の読書量には及ばない。
結果、文芸部員の諸姉諸兄は鈴科壬を畏敬の目で見る形となり、実代と不破もまた注目を浴びていた。
「そろそろ良い時間だね。先生はこれで帰るし、私もお暇するね。俊彦君、鷹成君に実代。行こうか」
三時間ほどの品評会に、鈴科壬も流石に喉が渇いたのだろう。最後にみんなと握手をして、僕たちと一緒に文芸部を後にした。
「ちょっと喫茶店でも寄っていこうか。高木さん、時間ある?」
「うむ。小旅行を兼ねているからな」
大学の敷地内を出たところで、嘉納さんが鈴科壬に声をかける。
どうやら、鈴科壬とはペンネームらしく、本名は高木という名前のようだ。
「折角だから、みんなもどうだい。鷹成君に、雪吹さん。それに不破君。ずっと君達に会いたいと思っていたんだ」
「ぼ、僕たちにですか?」
「ああ。なんと言っても、あの『恋』は編集者としての僕にとって初仕事だったからね。妙に話を聞いて、『本からみつける恋の文字』を読んでから、是非とも会いたいと思っていたんだ」
鈴科壬――否、高木さんはにこりと笑い、大学のすぐ近くにある喫茶店に入っていった。
「ふむ、行こうか。草食男子云々よりも、よほど興味がある」
実代が言うと、既に帰るという選択肢を打ち消していた不破が喫茶店に入っていく。
こんな機会もそうそうないだろう。確かに草食男子とやらより、鈴科壬と語るほうがよほど楽しい。
僕たちの話を高木さんにすると、高木さんは実に楽しそうにそれを聞いていた。
しかし、僕と不破からしてみれば、それ以上に聞きたいことがたくさんあるのだ。普段は決してミーハーではない僕たちだが、これだけは別だった。
「先生のペンネーム、どのような由来があるのですか?」
「実はネーミングセンスが無くてね。親友二人の名前をもじらせてもらったんだ。仁科恵一と、鈴ノ宮千晴。鈴と科の字をそれぞれからもらい、千と一を組み合わせて壬と読んだ。この二人は小説のモデルにもしているし、何かと世話になっている」
僕と不破はすぐに、とある小説を思い出した。中学生の少女に突然高校生の男子が仕えるというラヴコメディで、彼のデビュー作でもある。
「……あの二人、実在したんですか」
「割とそのまま書いたなあ」
高木さんは冗談っぽく言うが、作中に「高木」という名前の背が高い高校生が登場している。弁舌で眼鏡をかけていたのだが。
その巧みな舌と知謀で大活躍をする場面もあり、主人公達に続いて人気が高い。まさか、その立場に作者がいるとは、夢にも思わなかった。
「じゃあ、あの誘拐事件も本当なのですか?」
「ああ。今から思えば可愛らしい事件だったが、当時は真剣だったな」
開いた口が塞がらないとはこのことである。
しかし、そうなると新たなる疑問が湧き出る。彼の表題作「黒衣のサムライ」は、その作中に登場する高木が異世界に召喚されて八面六臂の大活躍をする話なのだ。
「まさか、異世界に行ったとか言いませんよね?」
流石にそれはないと思いながら僕が尋ねると、高木さんは冗談めかして「行ってきたよ」と言った。
洒落にしてはあまり面白くはないのだが、この人が言うとまるで本当に行ってきたかのように思えるから不思議だ。
「……さっきから少し気になっていたのだが」
ぽつりと実代が声をあげる。どうやら高木さんは実代が気に入っているらしく、さきほどからしきりに実代に目を向けていたことに僕は気付いている。
「さっき、仁科恵一と言っていたが……同じ名前の人間を私は知っているのだが……まさかとは思うが、高校で教師をしていることないだろうか?」
完璧に目上の高木さんに対しても敬語を使わないのは、高木さんが是非にと言ったからだ。
それにしても、仁科恵一。確かに僕にも聞き覚えのある名前だった。高校時代の社会科の教師の名前だ。
「ああ、仁科なら陽桜高校で教師をしているが、知人だろうか?」
「……縁は奇なりとはよくいったものだ」
実代は高木さんの質問には答えず、どこか間の抜けた顔で溜息をついた。
代わりに不破が、仁科先生の授業を受けていたことを説明した。仁科先生は確か、陽桜高校が母校と言っていた。だとすると、あの小説の通りならば、仁科先生と高木さんは同級生と言うことになり、僕たちの先輩になる。
高木さんは懐から煙草を取り出して火をつけると「不思議な巡り合わせだ」と呟いた。
「そもそも、千晴ちゃんに出版社の仕事を紹介されてね。最初は記事を書いていたのだが、文芸部門に転向したときに、妙を受け持つことになったんだ。そうしている内に、自分でも書きたいと思うようになってね」
「今でも私の編集者だけどね。高木さんとじゃないと仕事やりにくいし」
嘉納さんは笑いながら呟いた。彼女のペンネームも、高木さんの友人の名前をそのまま流用したという。読み方が少し違うだけで、漢字そのものは一緒だというのだから、彼にネーミングセンスが欠落しているのは本当なのだろう。
そうなってくると、もう僕たちは歯止めがきかない。
あの鈴科壬が僕たちの先輩で、しかも仁科先生の同級生であり、彼の処女作はほとんど事実なのだという。
「最初の作品じゃ、彼女いましたよね。黒衣にも登場してましたけど……あの人も実在するんですか?」
「ああ、多少オーバーに書いたけど、実在するよ」
「じゃあ……別れた後にヨリを戻したのって……え、でも、最後には結婚間近とか」
「先月、入籍したばかりだ」
鈴科流に言えば「衝撃の新事実」である。だが、逆に言えばこれで黒衣のサムライは完全な創作であるということが判明した。
黒衣での高木さんは、そりゃもう時流に乗った僕や不破でも敵わないほどに多くの女性を惹きつけていた。結局、全員を元の世界に連れて帰ったのだが、だとすると結婚どころではないだろう。
不破も同じ推論に達したらしい。ほっとしたような、残念なような曖昧な表情を浮かべてコーヒーを啜る。そんな折りだった。
「マサト、ここにいたんだ」
喫茶店の扉が開いて、僕たちよりも幾つか年上の女性が朗らかな笑みを浮かべて近づいてきた。
マサトというのは高木さんの名前だろう。それ自体は別に大したことではないのだが、問題は彼女の容姿だった。
燃えるような赤い髪。それは決して染めた人工の色ではなかった。何より、瞳も赤色で、明らかに外国人のようだったのだ。
「ああ、エリシア。すまないな。少し会話に夢中になっていた」
高木さんは赤髪の女性――エリシアさんに優しい笑みを向けた。
「……おい」
「……うん」
不破が僕の脇を肘で突いた。
有り得ない。彼女の特徴は、黒衣のサムライに登場した薄幸の少女そのものだったのだ。
高木さんは僕たちの様子に気付いたようで、苦笑を浮かべるとエリシアさんを手招きして席に着かせた。
「この世界で言えば、愛人になってしまうな……まあ、幾つか脚色はしているが、本当にそのまま書いたからね。色々あったが、とりあえず全員と一緒に生活しているよ」
高木さんは本気とも冗談ともつかない笑みを浮かべて笑う。エリシアさんは高木さんの隣でにこにこと笑っていた。
「いやー、高木さんってこう見えて、女の子にだらしなくってさあ。あっちの世界じゃ全員と結婚してるらしいよ」
「……うわあ」
確かにシーガイアでは一夫多妻制が認められているとか書かれていた。
いやしかし、俄かには信じられない話である。この世とは別の世界があり、そこには剣と魔法が存在している。それはあくまで小説だから受け入れられた事項であって、作者が「存在する」と言い、実際にその異世界人らしきエリシアさんを目前にしても、未だにそれを信じることができない。
「ふむ……鷹成君。信じられないだろう?」
僕の考えを見透かしたかのように高木さんが低い声で笑った。
そのしぐさの細やかなところまでが、そのまま彼の作中の「高木」に見えてくる。
「迎合できない類の話だということは、僕自身が一等よくわかっている。だがまあ、もしもそういう世界があるとすれば、と考えるのは、それはそれで楽しいものだ。話半分に聞いておけばいい」
「……嘘だろうが、本当だろうが関係ないと?」
「ああ。少なくともエリシアは目の前にいる。フィア達もこの場にこそいないが、家に帰れば僕を出迎えてくれる。それ以上に望むべくものなど、あるはずが無いだろう?」
嘘でも本当でも、目の前の事実には違いが無い。それはそのまま、僕と実代の関係にもあてはまる。
僕達が本当の恋愛にたどり着いていても、違っても。目の前に実代がいることに違いは無く、それ以上を望むことなど有り得ない。
「マサト、そろそろ帰らないと。タケルとミコトが寂しがってるってフィアがぼやいてたよ」
「ほう、それはいかんな。電車旅も楽しいのだが、急いで帰らねば」
高木さんはそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がって僕たちを見る。
「長らく語り合いたいところではあるが、僕も人の親でね。悪いが先に失礼するよ」
「あ、はい。貴重なお時間をありがとうございました」
今から僕らの故郷でもある陽桜市に帰ろうとなると、途中で日付が変わるかもしれないのだが、この人のことだから考えがあるのだろう。僕たちは慌てて立ち上がり、高木さんを見送ろうとする。
しかし、高木さんはそれを手で制して、財布から千円札を抜き出して嘉納さんに渡すと、にこりと笑って懐から小さな水晶片のようなものを取り出した。
「エリシア」
「うんっ」
高木さんが呼びかけると、エリシアさんが意を解したように高木さんの腕を取る。そこでハタと気付く。
あの水晶片は、もしかすると。
「去り際に言う台詞ではないが……千の言葉に万の罠。黒衣のサムライこと高木聖人、いざ参る」
茶目っ気たっぷりの――アニメ化でもするのならば声優は本人しか有り得ないと思うほど、渋く良く通ったイメージ通りの声で、高木さんは口上を述べて、最後に相変わらずの呪文を唱えた。
「あうとぽーと」
途端、高木さんとエリシアさんの姿が忽然と消える。あまりの出来事に僕と不破。それに実代までが呆然としていると、嘉納さんがやれやれと肩をすくめて呟いた。
「サービス精神旺盛なのはいいけど……人前でやっちゃうかなぁ」
どうせ、事情を知らない人には眼の錯覚か何かとしか思われないのだろう。けれども、いいのだろうか。僕達は知ってしまったし、信じてしまったわけだが。
「信じて……ん、待てよ。お、おい鷹成。マナだ、マナ。あれがマナの結晶で、転送魔法を使ったのならば、マナが四散するはずだ。今からマナを信じて視認できるようにすれば、僕達も魔法使いだ!」
「そ、それだよ!」
不破が慌てて声を上げ、僕も名案とばかりに早速、マナを信じようと試みる。
だが結局、二時間ほど粘っても僕と不破はマナを見ることは出来ず、必死な様子をそれぞれの恋人に晒すだけの結果と相成った。
ところで、この話には余談がある。
高木さんと出会った数日後、実代がアルバイトの時間数分前だというのに家で寛いでいたときのことである。
「実代、今日のバイト、遅刻しちゃうよ?」
「なに、安心しろ。これでも私とて、黒衣のサムライの熱心な読者でな。妙に生々しい話だと思っていたんだ」
「……へ?」
唖然とする僕に、実代は何故か胸の谷間から水晶片のようなものを取り出し。
「マナというのは、けっこう便利だな。では、行ってくるか……あうとぽーと!」
気がつけば消えていた。
僕が再びマナを信じようと躍起になったのは言うまでも無い。