夜目、遠目、笠の内
大きな黒い着物を纏った空から、神様が泣いているみたいな大粒の雨が降った時。私はいつも頬が緩んでしまう。
深く慕う、あの方に会えるから。
真夜九つが過ぎる頃、私は自室をこっそりと抜け出して、歓楽街のある通りへと急ぐ。寝間着や髪が乱れるのも気にせず、歓楽街一の店、『芍薬屋』の裏の方へ。
ざあ、ざあ、と。降り注ぐ雨は騒々しい。
明かりのない夜道の中、あの方が差す暗色の蛇の目傘はとても目立ちにくい。待ち合わせた場所の近辺まで来ると、私は胸の前で手を組んであたりを見渡す。
真夜九つともなると、賑わっていただろう歓楽街も嬌声一つ聞こえない。
「……見つけたっ」
――――右耳の裏を熱っぽい息が撫でるように、艶やかな声で囁かれた。
「~~~ッ」
爆ぜてしまいそうなほど、首から上に熱を集まる。
「白雪様!」
妖艶な色香を纏った容姿とは裏腹に、悪戯好きな少女の微笑みで、彼女――――白雪太夫はそこに居た。蛇の目傘を私に傾ける彼女。彼女の肌を包む紺色の着物は肩ほどまではだけていて、私はついつい、そこに目を向けてしまう。
驚きと喜びでつい名を呼んでしまった私の唇を、彼女のしなやかでしっとりとした細い指が軽く触れる。
「もう、駄目よ。今は『白雪太夫』じゃないの」
この歓楽街で最も評判の良い『芍薬屋』、そこで咲く絢爛な花々、遊女。その中でも最も位の高い『太夫』の名を冠するのが彼女、白雪太夫。
そう言えば、少し雨の音が遠くなった気がする。
「この逢瀬の間は『お雪』、でしょう?」
――――お雪。彼女は私にだけそう呼ばせる。
聞けば、彼女は自らを産んだ母も父も知らないらしい。店の人間も彼女のことは敬意を込めて『太夫』と呼ぶから、此の世で彼女を『お雪』と呼ぶのは私だけだ。
「お雪……様」
「よくできました、『お花』」
また、私を『お花』と呼ぶのも此の世で彼女だけ。
お雪は春に舞う綿毛のようなふわふわな顔で微笑む。
この笑顔を見るたびに、私の胸のあたりが一回跳ねる。
「今日もお綺麗ですね……」
……お雪様、と言葉を紡ぐ。しかし、何だかそれが歯の浮く台詞のように感じて、つい俯いてしまう。彼女はどう感じただろうか。顔をよく見たいが、向けばまた顔に熱を帯びてしまいそうだ。
「ありがとう、貴方も素敵よ」
……乱れてるけど、と笑みをこぼし、お雪は傘を持っていない手で、私の髪を直してくれる。
笑う声すら色っぽいなんて、この人は色気という概念から生まれて来たんじゃなかろうか。そんな下らないことを思った。
「ほら、こっちにおいでなさい」
彼女が私を引き寄せると、私の顔は彼女のたわわな胸に埋まってしまう。
やっぱり、甘ったるくて蕩けそうな香り。雨の匂いと混ざって胸焼けしてしまいそうなのに、離れられない。
それからやっと、うるさかった雨音が、聞こえなくなった気がした。
「髪も寝間着も随分乱れてるのねぇ……そんなに急いで来たの?」
「いつもより抜け出すのが遅くなって。少しでも……長くお話したいですから」
「そうね、少しでも長く話したいものね」
私は頷いて彼女の胸元に寄り添う。暖かくて、柔らかい。安心する。
「ねぇ、お雪様」
「なぁに?」
「人目につかない時間帯だから真夜九つに会う、というのは分かるのですけれど、どうして雨の日なのですか?」
濡れるし、触れ合うにはじめじめしているし。夜なだけで十分なのではないか。
お雪は少し視線を傘の外に向ける。唇を人差し指に当てて、思案する。それから、彼女は私に微笑んで言う。
「夜目、遠目、笠の内って知ってる?女がより美人に見える条件」
「聞いたことは……あります」
「私は『芍薬屋の白雪太夫』だから、いつでもどこでもより良い女でなくてはならないの」
ふふん、と彼女は決まり顔でそう言う。私は少々納得がいかなかった。だって、逢瀬の間は『お雪』という約束のはずだ。
「そういうものなのですか?」
「……そういうものなの」
私を抱く手に力を込められる。
「お雪様―――っ!?」
刹那、彼女のぷっくりした唇が、雨で冷えた私の唇を塞ぐ。
慈しむように上唇と下唇を啄んだり、弄ぶように舐ったりしながら、目尻の垂れた亜麻色の瞳で私を見つめる。それは誘うような、私の瞳の奥で燻る熱を引き出すような。とにかく激しく何かを掻き立てられる表情だった。
唇が離れ、白銀のか細い糸がつ……と、引いて、途切れる。
すると、お雪は私の髪を撫で、すん、と香りをかいだ。
「ちょっと、汗かいてるので……」
私がそう言って、遠ざけようとした手を彼女が掴む。それから掴んだ手を滑らせ、私の指を二本、咥える。
「ちょっ……」
「どうして?こんなに好い香りなのに」
「っ……」
指を食んだまま彼女がそう話すから、彼女の艶めかしい声や吐息が指先から響いて脳を痺れさせた。こうなってしまってはもう、これ以上抵抗ができない。
降参した私を見た彼女はまた、悪戯な笑みを浮かべる。
「どうする?」
耳元で受けるこの質問は、一種の儀式みたいなものだ。いつもそう。私がどう答えるかなんて分かっているはずなのに、彼女は敢えて私からの返答を待つ。
「……いけず」
顔から火が出そう。いや、実はもう出ているのではないだろうか。
「そうかもね」
彼女はそう言って、もう一度微笑みかけた。ぎこちなく、私も微笑み返す。もう何度目の逢瀬か分からないけれど、彼女の笑顔を直視するには、まだ心の臓がよく跳ねすぎる。
「……んっ」
口の端から不意に声が漏れる。首元に温かな吐息が触れた。肌が粟立つのを感じて、また声が漏れる。
その声に煽られたのか、彼女は自らの赤く湿った舌を私の肌に這わせる。鎖骨から顎下に上がるたび、嬌声が小さく跳ねる。
「愛らし……っ」
耳に口づけしてしまうような距離で、彼女が囁く。鼓膜まで艶やかな熱気でふやけてしまいそうだ。
彼女は口づけたり、首を舐ったりしながら、徐々に手を私の着物の中へと忍ばせていく。走ったのと緊張とで吹き出た汗を介して、私の肌と彼女の肌が触れ合う。しっとりと密着した二人の肌はまるで、融け合ってくっついてしまったみたいだ。
彼女のものよりもいくらか小ぶりな私の胸を、掌全体で触れられる。羽毛が滑るような力加減でお雪が触れるのは決して優しさからではない。
「うっ……あっ」
彼女が手を動かすたび、自分の意思とは関係なく身をよじらせ、甘い声が零れる。
◇
ひとしきり、私の首元と乳房を弄んだあと、彼女の視線はゆっくりと下に落ちる。
お雪の視点に気づいて、また火照りを感じてしまう。
「あの……っ」
私が脚を閉じると、彼女は屈んで私の瞳をのぞき込む。また、その目だ。全部、全部私の気持なんかわかってて、今から意地悪なことを言うときの目だ。
「嫌だった?」
「……っ!」
その言い草は卑怯だ。止めてほしい訳がない。ただ……
「……いえ、なんでもないです」
私は精いっぱいの笑みを浮かべて答えた。
―――言えるわけがない。
私たちの関係で『コレ』は言ってはいけない。
「……なあに?」
そう聞く彼女の声は心なしか少し震えたような気がした。
ああ、やっぱり卑怯だ。そんな寂しげな表情を見せられたら、隠したいことも隠せない。
私は身を小さくひねりながら、恐る恐る呟く。
「嫌では、ないのです……ただ」
「ただ―――あまりにも手馴れているので……」
彼女の瞳が見られなかった。
分かっている。彼女は花魁だ。それもこの歓楽街一の。当然、色んな男と床を共にしたことだろう。それは分かっている。
彼女の触れ方は、その事実を裏付けるように、どこを触れられれば女が悦ぶのか分かっている人のそれだった。
そうすると、彼女の手の動き一つ一つに、これまで寝てきた―――男、だけでなく、女の影さえもが見える気がするのだ。
彼女はと言えば、目を真ん丸にしてコチラを見ていた。
そのころん、とした瞳を見て、私の熱は一気に引いて寒気がした。
――――引かれた、間違えた。
そう思ったとき。
「信じて」
ふわりと笑んで、彼女はそう言った。
何を、とは聞かなかった。
だって、彼女の焦がれたような瞳に、堕ちてもいいと思ってしまったのだ。
……下腹部に何かが触れる。それを感じた私はただ目を閉じて、お雪に身を委ねた。
「……あっ」
◆◆◆
いつの間にか、彼女の愛らしい泣き声をかき消していた雨が止んでいた。
2人はひとしきり愛を囁いた後、人目を忍び、互いに帰路につく。
「……卑怯よね」
まだほのかに熱を持っている手を見て、お雪はそう言った。
『信じてほしい』など、どの口が言えたものか。この身体はもう、彼女のように綺麗なものではないというのに。
彼女から私に触れさせることはしない。この身体に触れられたくないから。
しかし一方で、彼女にも同じところに堕ちてほしい―――だから、彼女をこの手で汚し続けるのだ。
卑怯だ。何もかも彼女から言わせるくせに、私からは何も言わない。手を出させない。
彼女の純粋な気持ちを利用して、自分の欲を満たしているだけなのかもしれない。
どれだけ……私という存在は薄っぺらいのか。
夜目、遠目、笠の内――――女がより美人に見える条件。
……詭弁だ。私はそこまで気位の高い花魁ではない。
この逢瀬がバレたら困るから夜しか会わないだけ。
あの子の泣き声が掻き消えるから、雨の日に傘の中でしか会わないだけ。
理性と欲望で矛盾した感情の結果。それがこれ。
素敵だ、綺麗だ、純真な瞳であの子は私を称える。
―――違う。
卑怯で、汚い、私の本心。
次の雨の夜までに、繕うことができるだろうか。
この限りある時間を少しでも永く、永らえるために。
◆◆◆
翌朝。
布団の中で大きくため息をつく。
それにしても、昨日のあれはよくなかった。
彼女は花魁で、私はあくまで別の店の禿として出会ったのだ。彼女の事情を気にしないだけの器量を見せなければならなかった。
もう一度、大きくため息をつく。
それを見た袴姿の老人が、私に近づく。
当たり前のように部屋の隅に鎮座しているのは、どうかやめてほしいのだけど。彼は言うことを聞いてくれはしない。
「ため息など珍しいですな、どうされました」
「ううん、分からないことがあって」
ほう、と老人は口を縦ににして目を大きく見開く。
「何にも興味を示さず、籠城が趣味の『一花姫』が悩み事でございますか!ささ、爺やにぜひお話を」
『一花姫』――――私をそう呼んだ爺やは、ずい、と顔を近づけて催促する。近いなあ。もう。
私はひと呼吸を置いて、居住まいを正す。
「花魁って、いるじゃない?お父上もお兄様も花魁だった人を側室に迎えていると聞いたけど。花魁はどうしたら辞められるの?」
爺やは私から『花魁』という単語が出て来たことに驚いたようだったが、それでも言葉を選びながら答えてくれた。
要は、花魁というのは花魁が抱えている借金と身代金さえ払えばその身ごと買い取る、という形で自由になることができるのだそうだ。もちろんそれにはそれ相応の莫大な資金が必要にはなるが。
「なるほどね」
私は片方の口の端を釣り上げた。
すっく、と立ち上がってふすまの前に立つ。それから、きょとん、としている爺やのほうを振り返り。
「爺や、お父上のところに行くわ」
「はぁ、構いませんがどうされたのですか?」
私は精いっぱい笑みを浮かべて言う。
「1人、身受けしたい女性がいるの」
もう、雨の夜を待つのは飽き飽きだ。




