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外伝EP09 時間を超えた理由

 ※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。

 本エピソードは、本編最終話へ直接接続する構造を持ちます。

 本編読了後にお読みください。



 〜3週目・ジン視点〜


 理解した、と思った瞬間だった。


 サラが、もう戻らないという事実を。


 それは言葉ではなかった。

 説明でも、理屈でもない。


 胸の奥で、歯車が噛み合わなくなった感覚。

 止まったのではない。

 合わなくなった。


 一拍、呼吸が遅れる。

 遅れたまま、次が来ない。


 それでも、呼吸は続いている。

 視界もある。

 音も、ある。


 床に落ちた誰かの足音。

 遠くで鳴る電子音。

 窓の外を通る風。


 すべてが、正常だった。


 それなのに——

 自分の中の「現在」だけが、どこにも接続されなくなった。


 過去でもない。

 未来でもない。

 今、という座標が消えている。


 リクの声が聞こえていた。

 泣き声だったのか、名前だったのか。

 喉の奥が、わずかに鳴った気がしたが、確かめなかった。


 記憶はある。

 感覚がない。


 ただ、1つだけ、はっきりしていた。


 この場に留まれば、壊れる。


 感情が、ではない。

 判断が、でもない。


 ——自分という構造そのものが。


 ジンは立ち上がった。

 足裏に体重が乗る感覚を、数拍遅れて知る。

 誰にも告げず、振り返らず。


 逃げではなかった。

 悲嘆から距離を取るためでもない。


 思考が、感情を保持できなくなっていた。

 ロジックが、情動を支えられなくなっていた。


 正しさが、意味を失った。

 最適解が、存在しなくなった。


 合理性。

 再現性。

 世界を救うための正しさ。


 積み上げたはずの柱が、サラの不在の前で、沈黙していた。


 この状態で誰かの前に立てば、必ず誤る。

 ジンは、それを知っていた。


 リクの前に立てば、言葉で傷つける。

 サリの前に立てば、存在そのものが歪む。


 だから、消えた。



 退職の手続きは事務的だった。

 書類は整っていた。

 ペンを握る指に、余計な力が入っていることだけが分かった。


 住居の解約も、滞りなく進んだ。

 必要なものと、不要なものを分ける判断は正確だった。


 抑制薬の開発により、

 資産は、十分すぎるほどあった。


 生きることに、困らない。

 それが、何よりも皮肉だった。


 ジンは、誰とも会わずに生きた。

 名前を呼ばれることもなく、役割を与えられることもなく。


 生活は静かだった。

 静かすぎて、夜になると、肩の力が抜ける音だけが聞こえた。


 なぜ、自分は生きているのか。

 正しさとは、何だったのか。


 答えは出なかった。

 出ないまま、時間だけが進んだ。



 2032/11/07


 丘。


 3周目のこの世界で、同じ丘に、同じ石がある保証はなかった。


 サラの死は1年延びた。

 この世界はサリの存在もある。


 普通の場所に、普通に墓を作っているかもしれない。


 世界線が同じ形で続く保証はどこにもない。

 再現性はない。


 それなのに、足が止まらない。


 確信ではない。

 ただ、否定もできない。


 風の向き。

 空気の重さ。

 草の匂い。


 鼻先で息を吸い、わずかに咳払いをする。

 過去に覚えのある情報が、無言のまま積み重なっていく。


 朝でもなく、夕方でもない。

 まだ暗い、早朝の時間帯。

 リクと、サリが来ない時間。


 会わないための選択だった。

 避けるためではない。


 距離を保つため。


 近づけば、壊すかもしれない。

 壊せば、取り返しがつかない。


 それを、ジンは知っていた。



 ——ここだ。


 そう思った瞬間、石は、そこにあった。


 名前が刻まれている。

 日付がある。


『Sara 2031/11/07』


 視界が揺れたわけではない。

 呼吸が乱れたわけでもない。


 ただ、喉の奥が一瞬だけ詰まり、

 飲み込む動作を1度だけ、余分にした。


 花を置き、水を替える。

 石の前で、立ち尽くす。


 祈らない。

 謝らない。

 約束もしない。


 できないのではない。

 しない。


 それは、誠実さだった。


 サラが生きた事実を、感情で塗り替えないために。

 世界から、切り離さないために。


 帰り道、胸は変わらなかった。

 軽くもならない。

 癒えもしない。


 それでも、生きなければならなかった。


 生き続けることだけが、自分が人間である証明だったから。


 ロジックでは説明できない選択。

 合理性のない反復。


 それでも、足は止まらなかった。


 ジンは、まだ知らない。


 この距離が、最も誠実な弔いだったことを。

 この沈黙が、世界と再び接続するための、唯一の準備だったことを。


 その意味を知るのは、もう少し、先だ。



 ただ、1つだけ。

 欠かさなかったことがある。


 11/07


 その日だけは、必ず外へ出た。


 向かう場所は、決まっていた。


 風が、草の先をなぞっていく。

 音は軽い。だが、この丘の風は、いつも少しだけ重い。


 石は、ここにある。


 ジンは、花束の茎を確かめる。

 湿り気。冷たさ。細い繊維。

 生きていたものが、形を失したあとも残す感触。


 それだけが、最後まで「ここ」に残る。


 石の前に立つ。

 立ち方だけは、もう変えないと決めている。

 立ち方が崩れれば、判断が崩れる。

 判断が崩れれば、人を傷つける。


 2032/11/07

 ここに石があることを、目で確かめた。


 2033/11/07

 今年も、ここに来る理由は同じだった。


 2034/11/07

 理由は、もう考えなくなっていた。

 指先は、布で石の縁をなぞるようになった。


 そして…


 2035/11/07


 積み上がっていくのは、償いじゃない。

 祈りでもない。


 ただ、継続。


 継続だけが、崩れかけた内部構造を、

 少しずつ「形」に戻していった。


 花を供えるために、包み紙を外す。

 紙の音が、かすかに鳴る。


 その音だけで、胸の奥が反応する。

 反応は小さい。だが、ゼロではない。


 その差が、時間だ。


 ジンは目を閉じない。

 閉じれば、過去が近くなりすぎる。

 近くなりすぎれば、判断が歪む。


 歪んだまま人の前に立つことだけは、避けなければならなかった。


 だから、会わない時間を選ぶ――

 そう決めていたはずなのに。


 今日は、違う。


 今日だけは、会うために来た。


 2度、リクと別れた日。

 別れが「終わった」日じゃない。

 終わってしまって、そして過去に戻った日。


(もう、戻ることはないだろう)


 それだけは、確信していた。


 石の前で、呼吸を整える。

 吸う。吐く。

 それだけで、輪郭が戻る。


 風が吹く。

 草が擦れる。

 世界は、何も知らない顔で続いている。


 ――それでいい。

 続く世界の中に、置いていくものがある。


 ジンは、片手で花束の茎を握りしめながら、

 視線を遠くへ置く。

 道の奥。

 草の揺れが、人の足音を先に教える。


 まだ遠い。

 だが、近づいてくる速度が分かる。

 この道を、何度も同じ歩幅で歩いてきたからだ。


 風が変わる。

 空気が、少し柔らかくなる。

 この場所だけ、生活の匂いが薄くなる。


 そして――

 子どもの声が、風に混ざって届く。


「ねえ、パパ」


 手のひらで、花束の茎をわずかに強く握る。

 骨が鳴るほどじゃない。

 逃げないための力。


「ジンさん、今日はいるかな?」


 軽い問いだ。

 軽いのに、胸の奥へ真っ直ぐ入ってくる。


 名前を呼ばれることに、身体はまだ慣れていない。

 だが、拒絶もしない。


 拒絶しないという事実が、静かに胸を打つ。


「今日は、きっといるよ」


 リクの声。

 確信で。説明なしで。


 昔と違う。

 支えるために選ばれた声だ。


 足音が近づく。

 草を踏む一定のリズム。

 子どもの靴底の軽さ。

 それに合わせて揃う、大人の歩幅。


 振り向かない。

 振り向けば、表情が先に崩れる。

 崩れた表情は、相手を迷わせる。


 迷わせるのは、違う。


 風の中で、ただ立つ。


 足音が止まる。

 空気が、一瞬静かになる。


 背中に、視線が当たる。

 刺さらない。

 重くもない。


 それが、いちばん怖い。


 怖いのに、逃げない。


 ゆっくり、振り向く。


 リクがいる。

 サリがいる。


 サリの手は、リクの手を握っている。

 確かめる力。

 逃げない力。


 喉が、かすかに鳴る。

 声にしない。

 声にすれば、余計なものが混ざる。


 言葉は交わされない。

 交わされないまま、成立している。


 リクがしゃがむ。

 迷いのない動作。

 積み上がった日々の手順。


「サリ」


「うん」


「ジンさんだよ」


 サリの目が、こちらを捉える。

 怖がっていない。

 ただ、受け取ろうとしている目だ。


 一歩、進む。

 慎重だが、止まらない。


 しゃがむ。

 目線を合わせる。


 この高さに、自分が戻ってきたことを、

 身体が先に理解する。


 指先が、服の裾をつまんでいる。

 小さな震え。

 恐怖じゃない。

 大事なことを言う前の震え。


「えっと……」


 息を整える音。

 何度も練習した呼吸。


 その時間が、胸の奥を押す。

 痛くない。

 痛くないことが、熱い。


「ジンさん……ありがとう、ございます」


 言葉は未完成だ。

 だが、置き方は正確だ。


 その瞬間、内部で何かが緩む。

 堤防じゃない。

 呼吸だ。

 身体の、いちばん小さな緊張。


 胸の奥で、長い間止まっていたものが、静かに動き出した。


 涙が、落ちた。


 表情は変わらない。

 眉も動かない。

 口元も上がらない。


 ただ、呼吸が一拍遅れる。

 整える前に、涙は先に落ちていた。


 サリは驚かない。

 怖がらない。

 ただ、見ている。


 ここが怖い場所じゃないと知っている目。

 泣くことが悪いことじゃないと知っている目。


 息を吐く。

 少しだけ震える。


 風が、その声を運ぶ。

 草が揺れる。

 石は、そこにある。


 そして、風に溶けそうな声で伝えた。


「サリ、ありがとう」


 君を救うために、時間を越えたんだね。

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