表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

外伝EP03 未来を知っているだけの男

 ※本作は『君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜』本編を補完する外伝記録です。

 本外伝は、本編では語られなかった

「時間を越える前後に、人が何を失い、何を選んだのか」

その思考と感情の過程を記録するための物語です。



 2030/04/07 〜2週目・ジン視点〜


 最初に戻ってきたのは、音だった。


 車の走行音。信号機の電子音。遠くで混ざる人の声。

 それらが、意識より先に耳へ流れ込んでくる。


 次に、風。


 頬を撫でる空気は冷たくもなく、重くもない。

 春の匂いが、街の排気と混ざっている。


 ジンは、ビルの壁にもたれたまま、しばらく動けずにいた。


 見上げた空は、やけに明るい。

 雲ひとつない青が、ガラス張りのビルに反射している。


 ――違う。


 胸の奥に、嫌な既視感だけが残った。


 理由は分からない。

 ただ――戻された、という感覚だけが残った。


 理由は分からない。

 説明も浮かばない。


 ただ、手の中にあるスマホが、はっきりとした答えを示していた。


 画面を点ける。

 表示された日付に、視線が止まる。


 2030/04/07


 喉が、ひどく乾いた。


 呼吸を整えようとしても、胸の奥だけが妙に静かだ。

 代わりに、頭の中に別の時間が重なってくる。


 色を失っていく街。

 感情の輪郭が削れていく人の目。

 何も起こらないまま、終わっていった世界。


 そして、最後に残った声。


『サラも、世界も、全部救ってきてください』


 リクの声だった。


 あの声の温度だけが、今も体の奥に残っている。


 ヒーローじゃない。

 選ばれた存在でもない。


 ただ、先の出来事を知っているだけだ。


 だから、できることは限られている。

 限られているなら、切り分けるしかない。


 救う対象は、ひとつ。


 リクだ。


 世界は、その結果として残ればいい。

 優先順位を誤れば、どちらも失う。


 そう整理した瞬間、視界が一度だけ揺れた。


 眩暈ではない。

 体調の問題でもない。


 ビルの影が、ほんのわずか遅れて動く。

 横断歩道の白線が、踏み出す前に目に残る。


 息を吸ったとき、空気の中に、説明できない違和感が混じった。

 見えないはずのものが、そこに“在る”と分かってしまう感覚。


 知らなかった頃には、もう戻れない。


 その事実だけが、街の雑音に紛れて、静かに確定していった。



 ラボ前の廊下は、いつもどおり騒がしかった。

 資料を抱えて走る人間、コーヒーを飲みながらログを読む人間。

 何も考えずに歩いている背中が、いくつも流れていく。


 その中で、足が止まった。


 視界の端に、白衣の背中が映る。

 肩の位置。歩き方。首の角度。


 考えるより先に、名前が浮かんだ。


 リク。


 胸の奥が、一瞬だけ冷えた。


 2035年の病室。

 白い天井。

 笑っていた顔。


『全部、救ってきてください』


 言葉と一緒に、心拍音が途切れた瞬間。


 ――その男が、今、何も知らないまま歩いている。


 ジンは息を吐いた。

 感情が動く前に、身体が状況を理解している。

 あの感覚だけが、やけにはっきり残る。


 声をかけるべきじゃない。

 そう判断する理由は、いくつもある。


 この時間軸では初対面。

 関係性は存在しない。

 名前を呼ぶ資格もない。


 なのに。


 口が、先に動いた。


「……久しぶり。」


 言ってから、遅れて理解する。


 完全に間違えた、と。


 初対面に向ける言葉じゃない。

 2035年の感覚が、そのまま口から漏れた。


 リクが振り向く。


 目が合う。


 同じ目だ。

 ただし、何も背負っていない。


「あれ……僕、どこかでお会いしました?」


 丁寧で、距離を保った声。


 その一言で、世界がきちんと分かれる。


 こちらは数年分の記憶を持っている。

 向こうは、今日が初日だ。


 喉が詰まる。


 「ある」と言えば嘘になる。

 「ない」と言えば、自分の時間を切り捨てることになる。


 結局、意味のない音が落ちた。


「……あっ。」


 自分でも情けないと思う。



 2035年では、言葉を選ぶ必要はなかった。

 ここでは、一言が重すぎる。


「……こっちこそ悪かった。」


 苦しい言い訳を選ぶ。

 それが最も現実的だった。


「夢見が悪くてな。頭の中の時間と、現実の時間がずれた。」


 完全な嘘ではない。

 ただ、説明するには足りなすぎる。


 リクは一瞬きょとんとして、すぐに笑った。


「朝、寝ぼけてエレベーター乗り間違えた日と同じですね。」


 その軽さに、胸の奥が少しだけ緩む。


 この人は、まだこうやって笑う。


 名乗り合う。

 役職を話す。

 当たり障りのない距離。


 すべてが「初対面」として、正しい。


 リクが去っていく背中を見送りながら、ジンは思う。


 これは再会じゃない。

 やり直しでもない。


 ただ――

 懐かしさだけが、先にある。


 名前の付けられない痛みが、胸の奥に静かに残った。



 月に一度の食事は、いつも通り始まった。


 特別な店でもない。駅前にある、少し広めのファミリーレストラン。

 仕事終わりの時間帯で、店内はほどよくざわついている。


 ジンは、水のグラスを指先で回しながら、視線を店内に流していた。

 音が多い。声も多い。匂いも混ざっている。


 ――2035年の世界では、こういう“雑音”は、ほとんど消えていた。


「やっぱり、この時間は混みますね」


 リクの声が、現実へ引き戻す。


「ああ」


 短く返す。

 それ以上、何かを足す必要はなかった。


 サラは向かいの席で、メニューを眺めている。


 料理を待つ間、取り留めのない会話が続いた。

 仕事の愚痴。数字の話。来月の予定。


 どれも、特別な意味を持たない。

 それが、この時間の役割だった。



 料理が運ばれてきて、湯気が立つ。


 フォークを手に取った、そのとき。


 視界の端で、わずかな動きがあった。


 通路側のテーブル。

 子ども用の椅子。

 小さな手が、テーブルの端に伸びている。


 ――次の瞬間。


 カラン、と音が鳴った。


 氷が触れ合う音。

 グラスが傾く。


 その一連が、なぜか、少しだけ遅れて見えた。


 現実が遅いわけではない。

 目が、音より先に追いついてしまった。


 ジンは、眉を寄せる。


 理由は分からない。

 ただ、胸の奥に、薄い引っかかりが残った。


「……?」


 サラの声が上がる。


「あ、ごめんなさい!」


 彼女はすでに立ち上がり、テーブルへ向かっていた。

 動きは自然で、慣れている。


 紙ナプキンを取り、こぼれた液体を拭く。

 子どもと目線を合わせ、短い言葉を交わす。


 ジンは、その様子を少し離れた場所から見ていた。


 音がある。

 声もある。


 だが、その親子の周りだけ、空気の層が違うように感じた。


 店内のざわめきが、ほんの一瞬だけ遠くなる。

 耳に薄い膜が張ったみたいに。


(……前にも、あった)


 記憶が、勝手に引き出される。


 夜の街角。

 コンビニの白い光。

 あのときも、似た感覚があった。


 見えたわけじゃない。

 説明もできない。


 ただ、同じ種類の違和感だった。


「ジンさん?」


 リクの声が、近くから聞こえる。


 視線を戻すと、リクがこちらを見ていた。


「大丈夫ですか」


「……問題ない」


 グラスの水を一口飲む。

 冷たさが、今ここにいる証拠になる。


 サラは何事もなかったように席へ戻ってくる。

 会話も、すぐに元へ戻った。


 さっきの出来事は、日常の中に溶けていく。


 それでも。


 ジンの中には、溶けきらないものが残っていた。


 音と動きのズレ。

 視界の端で起きた、説明できない遅れ。


 知識ではない。

 理解でもない。


 ただ、見てしまった感覚。


 それをどう扱えばいいのか、まだ分からない。



 店を出たあと、夜の空気が肌に触れる。


 ネオンの光。

 人の流れ。


 さっきの親子が、少し前を歩いているのが見えた。


 女の子は、ぬいぐるみを抱えている。

 母親は、その歩幅に合わせている。


 信号が変わる。


 歩き出した、その瞬間。


 影と動きが、ほんのわずか、噛み合わない。


 足が出る。

 影が、遅れる。


 錯覚だ。

 そう片付けようとして、できなかった。


(……見間違いか)


 そう思うには、感覚が残りすぎている。


 サラとリクは、気づいていない。

 少なくとも、表情には出ていない。


 ジンは、それ以上、考えを進めなかった。


 今は、まだ、言葉にできない。

 言葉にしたところで、意味を持たない。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 この世界は、

 2035年と同じ壊れ方を、まだしていない。


 だが、何も起きていないわけでもない。


 その境目に、自分は立っている。


 理由も、役割も、まだ分からないまま。



 2030/11/07


 ラボを出た帰り道、リクと酒を飲んだ。

 ただの習慣だった。


 酔いは浅く、笑いも薄い。

 それでも、一瞬だけ人間に戻れる気がした。


 別れ際、リクがスマホを見て歩幅を速めた。

 その背中を見送って、同じ速度で帰る。


 サラのことを知ったのは、その翌日だった。


 未来でのサラは生きていない。知っていた。

 ただ、この時間軸の彼女は、まだ俺にとって“出来事”に近い存在だった。


 数日後、リクはラボに来た。

 泣いてもいなかった。

 笑ってもいなかった。


 目の奥が、抜けていた。


 言葉は役に立たない。

 それを知っているだけだ。



 リクがラボに来た帰り道、考える。


 あの時、酒を飲まなければ。

 もっと早く。


 結論は出ている。

 不可能だった。


 合理的に判断して、酒をやめることにした。

 感情じゃない。

 判断だ。


 その夜、瓶を捨てる。

 整理だと思うことにした。


 捨て終わったあと、気づく。


 見えない。

 それが、少しだけ遅れてきた。


 あの揺らぎが、消えている。


 理由は分からない。

 だが、積み上げたデータは残っている。


 それで進むしかない。



 抑制薬の最終ログが、正式に承認された日。


 拍手も、歓声もあった。

 だが、ジンの視線はスクリーンではなく、端末の右下に固定されていた。


 数値は揃っている。

 理論上、世界は救われた。


 それでも、胸の奥に残る感触は、整理されないままだった。


 リクが席を立つ。

 周囲と同じ動き、同じ速度。


 だが、ほんの僅かに、視線の高さが合っていない。


 ジンはそれを見て、何も言わなかった。


 言語化は、不要だった。


 抑制薬は完成した。

 だが――リクの中では、もう「次」が始まっている。


 そういう顔だった。



 その日以降も、リクは変わらなかった。


 正確には、変わっていないように見えた。


 報告は簡潔。

 判断は速い。

 無駄な確認をしない。


 合理的で、理想的な研究者。


 だが、ジンの視界には、別の情報が重なって見えていた。


 感情の遅延。

 反応の簡略化。

 言葉の前にあるはずの「迷い」の欠落。


 フェーズBの初期症状としては、教科書通りだ。


 問題は、その進行理由だった。


 サラの死ではない。

 喪失ではない。


 抑制薬の完成。


 世界が救われると分かった瞬間から、リクは「残す理由」を失っていく。


 サラに会いたい。

 もう一度、話したい。


 その感情は、人間としては自然だ。

 だが、フェーズにとっては、不要なノイズだった。


 感情は、合理性に統制される。


 リクはそれを、誰よりも理解している。


 ジンは、距離を保った。


 声をかけない。

 引き止めない。

 慰めない。


 それが最適解だと、理解していたからだ。


 人との関わりは、合理的ではない。

 愛は、再現性がない。

 失われたものを取り戻す保証は、どこにもない。


 ジン自身は、それを選ばない。


 だから、フェーズAに留まっている。


 理解はできる。

 だが、進まない。


 進めば、リクと同じ場所に立つことになる。


 その先に何があるかを、ジンは知っている。



 ある日の帰り道。


 信号待ちの交差点で、リクが立ち止まった。


 赤信号。

 ただ、それだけの理由。


 だが、ジンの視界では、別のものが見えていた。


 音の遅れ。

 影の揺れ。

 思考と行動の微細なズレ。


 まだ、致命的ではない。


 だが、このまま進めば、終点は一つしかない。


 ジンは、その結論を胸の中で処理する。


 抑制薬では……足りない。


 合理的に考えれば、当然だ。

 抑制薬は「世界」を抑制はする。

 だが、「一人」を生かす設計ではない。


 リクは、自分を削って、世界を残した。


 その結果、何も残らなかった。



 ジンは、あの日から酒をやめたままだった。


 感情を鈍らせるためではない。

 逆だ。


 感情に触れないため。


 酒を飲めば、人間に戻る。

 一瞬だけ、迷う。

 選びたくなる。


 それが、合理的ではない。


 フェーズを進めないために、感情を刺激しない。

 ただ、それだけの判断だった。


 それでも、夜になると考える。


 抑制薬の開発だけでは、ダメだったのか。

 もっと別の方法があったのか。


 リクは、救えないのか。


 答えは、出ている。


 合理的に言えば、救えない。


 だが、合理性だけでは測れないものがあることも、ジンは知っている。


 だから、答えを確定させない。



 2035/11/07


 ラボの空気は、薄かった。


 音が遠い。

 光が均一すぎる。


 リクは、静かだった。

 静かすぎた。


 サラの命日という事実を、リクは理解している。

 そして、リク自身も。


 だが、感情が追いつかない。


 フェーズBの、終盤。


 ジンは、その背中を見ていた。


 理解している。

 理解しすぎている。


 だから、言葉を選ばない。


 必要なのは、慰めではない。

 選択肢だ。



 丘の上。


 風が草を揺らす。


 リクは立っている。

 立てている。


 だが、もう……



「……ジンさん」


 その声に、震えはなかった。

 それが、何よりの証拠だった。


 涙は出ない。

 声も震えない。


 それが、もう分かってしまう。

 ここまで来た、と。


 託される言葉。

 未来。


 ジンは、それを受け取る。


 ヒーローにはなれない。

 世界を救うと約束もしない。


 ただ、リクを救いたい。


 そのために、何ができるのかは分からない。

 方法も、条件も、式に落とせない。


 ただひとつ、確かなのは。


 このままでは、救えないということだけだ。


 前回は、気づいたら、戻されていた。


 だが、今回は違う。


(戻れないのか)


 思考が、浮かぶ。


 どうすれば、過去に行ける。

 何を捨てればいい。

 何を選べばいい。


 答えは、どこにもない。


 それでも、問いを手放さなかった瞬間。


 足元から、感覚が抜けた。


 沈む。


 抵抗する間もなく、

 世界の輪郭が、ゆっくりと薄れていく。


 音が遠ざかる。

 重さが、ほどける。


 自分が落ちているのか、

 世界が引いているのか、

 もう、区別がつかない。


 ただ――


 その向こうに、

 光と、温度の気配があった。


 まだ、世界は壊れていない。


 その事実だけを、

 ジンは、強く掴む。


 救えないかもしれない。

 それでも、進むしかない。


 合理的ではないと、分かっている。


 それでも、

 人は、そういう選択をする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ