素麺
あの人と出会ったのは、会社帰りのファーストフード店だった。トレイを持ちながら席を探していると、ポケットから小銭が、あの人の足元へと転がっていった。あの人は一人、本を読みながらコーヒーを飲んでいた。まつ毛がメガネにぶつかるほど長くて、少し痩せた横顔に妙な静けさがあった。小銭を拾ってくれたあの人の手と、トレイから離れた私の手が触れ、お互い照れ隠しのように笑った。その瞬間、なぜか目を逸らせなくなった。
あの人は定職についていなかった。だからなのか、いつも軽やかで、私が誘えばいつでも飛んできてくれる人だった。ご飯に誘っては、ひたすら愚痴を聞いてもらったり、どうでもいいドラマの話をしたりした。さすがニートと言うべきか、見ていないドラマの話をしても、次の約束までには必ず追いついてくる。その健気さがたまらなく愛おしかった。私が髪を切ったことにも、ネイルを変えたことにも、なぜかすぐに気づいた。
食事はいつも私の奢りだった。ある日、ふと気になって「働かないの?」と尋ねた。
「働きたくないんですよね」
「私もだよ」と返すと、すぐに「でも、あなたは働いてるじゃないですか」と返された。
「働かないと生きていけないじゃん」と語気を強めると、あの人はさっきまでの笑顔を消して視線を逸らした。
「働いていた時は、駅のホームから線路に吸い込まれそうになったんです。もう、働いてまで生きたいとは思えないんです」
無神経だった自分に、打ちのめされた。遠くを見つめる瞳は儚く、今にも消えてしまいそうだった。
それでも、「奢ってばかり」と不満を漏らした。あの人は眉を下げて、「ごめんなさい。今日は奢ってくれなくても大丈夫だから」と言った。
その夜、町中華で半チャーハンを一口ずつ大切そうに食べていた。その姿を見た時、胸が締め付けられた。貯金を切り崩す日々の中で、それが精一杯の贅沢だったのだ。私は餃子を差し出した。子どものように笑うあの人。会計で半チャーハン代をきっちり払う硬貨の音が、やけに長く耳に残った。
「会いたい」と送ると、「散歩しよう」と返ってきた。あの日の不満が、まだ影を落としているように思えた。
「レインボーブリッジを歩いて渡ろう」
歩いて渡れることすら知らなかった私に、あの人は「こっちは豊洲、あっちはお台場」と教えてくれた。ベンチから見た海は、陽を反射してきらきらと輝いていた。お金がなくても、あの人には心の豊かさがあり、それを惜しみなく分けてくれていたのだと、私は気づいた。
あの人には、働いていた時期があったらしい。IT企業で稼いだお金は、ほとんどアイドルのCDやコンサートに消えたという。その意外なギャップに、私はくらりとした。「誰を推してたの?」
返ってきたのは、まったく知らないアイドルの名前。その口元がゆるむのを見た時、胸の奥がチクリと痛んだ。
「なんで推してたの?顔?」
「雰囲気が好きだったんだよね。」少し照れた顔が可愛らしかった。
「どんな雰囲気?」「危うい雰囲気。茹でる前の素麺みたいな」
その真意を、私は掴めなかった。
ある夜、夢を見た。あの人が突然いなくなる夢だった。あまりに現実的で、思わず家に呼び出した。
「少なくともあと一年は生きるつもりなので、大丈夫ですよ」
少し安堵したが、「一年」という言葉が深く胸に刺さった。手を伸ばしかけて、触れられずに引っ込めた。
まだ茹でる前の素麺みたいだった。真っ白で、細くて、息を止めれば折れてしまいそうなほど繊細で。
けれど、湯に沈めれば柔らかく、完璧な形になると信じていた。あの日までは。
鍋に火はもう入らない。台所には、封も切られていない素麺の束だけが置いてある。




