第八話 初日の失態
冥府で迎える最初の朝は、拍子抜けするほど静かだった。
神崎イサナは毛布にくるまり、まどろみの余韻に浸っていた。ぬくもりに甘えて、もう少し……と寝返りを打つ。
その瞬間、現実に引き戻された。
目を開けると、真っ白な天井が視界を埋めた。無機質で整いすぎたその白は、病院の病室みたいに冷たく、まるで誰かに監視されているような息苦しさを押しつけてくる。
次の瞬間、壁のデジタル時計が目に飛び込んだ。
七時四十二分。
「……え、うそっ!? 七時四十二分!?」
「ん……は? マジ!? イサナ、それ終わってんぞ!」
隣で寝ていた春日押人が飛び起き、寝ぼけ眼のまま時計を見て青ざめた。髪は見事に鳥の巣状態。
「食堂、八時までだろ……ギリ間に合うか……?」
「無理だよ! ていうか研修にも遅刻する! 終わった……!」
二人は同時に布団を蹴り飛ばし、制服を引っつかんで洗面所へ突入。
ジャーッと水道の音、ガシガシと歯を磨く音、ブォオとドライヤーの音。雑音が混ざり合って部屋中をかき乱した。
「なにこれ……後頭部が……呪われたみたいになってんだけど!」
「俺もだ……前髪が物理法則に逆らってる……」
鏡に映った自分たちの惨状に悲鳴を上げるが、整える暇はない。
「時間が……うわっ、時間がああああ!」
濡れた髪のまま廊下を駆け抜ける。スリッパの音が、焦りそのもののリズムで響き渡った。
◇
その様子を、寮の出入り口に立つ男が無言で見送っていた。
阿傍寮監。冷ややかな視線を二人に向けながら、手元の端末を淡々と操作する。
——寮生 神崎イサナ・春日押人:起床時刻逸脱、整容不備、登庁遅延の可能性。
画面に無機質な記録が並ぶ。
「……調査課・黒野調査官宛。寮務記録、第一報。詳細、即時共有」
声には感情がなかった。だが、その背中からは“逸脱を許さない”冷たい圧がにじんでいた。
◇
庁舎の硬い床を叩く足音。
研修は八時三十分から。時計はもう三十一分を指している。
二人が飛び込んだ瞬間、教室の空気がピンと張り詰めた。
「……遅い」
氷のような声が落ちる。振り向きもせずに。
黒野アイリ。背筋を伸ばしたまま、冷ややかに告げた。
「初日で三項目違反。阿傍寮監の記録を確認済み。反省文を提出すること」
「……え、あ、はい……」
神崎の血が凍る。隣の押人が小声でつぶやく。
「……ごめん。ここ、ガチで厳しいんだな……」
「提出期限は本日中。調査課前の投函箱に」
「きょ、今日ですか!?」
「生活も任務の一部。それを学ぶのが初任研修だ」
黒野はそれだけ残し、再び静けさに溶けていった。
——学生気分では、生き残れない。
神崎は奥歯を噛みしめた。
◇
初任研修会場。
研修生たちはすでに席に着いている。
神崎は背もたれに寄りかかる余裕もなく、背筋を硬直させたまま座っていた。頭の隅では、跳ねた寝癖に誰かがクスクス笑っていないか気になって仕方ない。
隣の押人も落ち着かないのか、前髪をいじりながら小さく咳払い。だがもう何をやっても手遅れだ。
壁は灰色。窓も飾りもなく、冷たい空気が肌を締めつける。
後方の監察席で黒野が立ち上がる。資料の束を手に取り、ヒールの音を響かせながら歩き出した。
こつ、こつ。
彼女は迷いなく机を回り、研修生一人ひとりに資料を配る。無駄のない動作。だが、すれ違うたびに空気が張り詰めていく。
神崎は息を呑んだ。
——ここでは、一挙手一投足まで見られている。
その緊張を裂いたのは、講師席からの軽やかな声だった。
「やあやあ、やっと来たねぇ君たち。朝から随分と斬新な髪型で」
初江課長。にこやかな笑みを浮かべているが、その奥には底の見えない光があった。
「……見えてますか、これ……」
机に突っ伏す神崎。課長はさらに口元をほころばせる。
「誰だって失敗はある。もっとも、初日で三つ違反は珍しいがね。緊張で眠れぬ者は多いが……君は堂々と寝坊か。いやはや、冥府庁では久々に見る見世物だよ」
「課長、優しい顔して刺してきますよね……」
「誉め言葉として受け取ろう」
軽口と皮肉が交錯し、室内の空気がわずかに緩んだ。神崎の胸にも、少しだけ呼吸が戻る。
だが背後からは、規律の化身のような足音が迫っていた。
こつ、こつ。
黒野が神崎の机に資料を置く。ただそれだけで喉が詰まり、息を止めてしまう。制服の裾を握りしめ、反射的に背筋を伸ばした。
黒野は最後に講師席へ資料を置き、振り返りざまに研修生たちを無言で見渡す。
その瞬間、神崎は確信した。
——これは研修なんかじゃない。
死後の国で、人として存在できるかどうかを試される“審判”だ。
「さて。君たちは“冥府庁職員”の候補生だ」
初江課長の声は穏やかだが、どこか場を締めつける響きを持っていた。
「魂の状態はまだ不安定。現世の記憶が濃い者もいれば、もう名前すら曖昧な者もいる。それでいい」
神崎は周囲を見渡す。皆はすでに現世を終えた者たち——自分だけが“生きている”。その差が胸を突く。
「だからこそ、この三日間で“こちら側”を知ってもらう」
課長は神崎をちらりと見やった。意図は読めない。
「学ぶのは規律、任務の基礎。そして……魂の仕組みと死後の意思。いずれ君たちは誰かの“最後の案内人”になるかもしれない」
軽やかな声に、不意に冷たい響きが差した。
それは、この世界の根底を支配する“死”そのものの重さだった。




