第七話 寮生活の始まり
「それと、もう一つ」
初江課長が、ふいに声のトーンを変えた。淡々とした語り口に、わずかな重みが宿る。
「君には明日から三日間、“初任研修”を受けてもらうよ。業務の基礎、危険事例の把握、倫理指針の確認。それと——」
ひと呼吸置いて、ゆっくりと言葉を続ける。
「何より、“君が現世の人間”という事実が、この世界でどう影響するのか。その確認も兼ねて、だ」
神崎は、思わず背筋を伸ばしていた。意識していなかったが、緊張が体に染み込んでいたのだ。
「……はい。わかりました」
初江は満足げにうなずき、片手を軽く振る。
「じゃあ、黒野くん。あとは任せるよ。寮の案内も含めて」
「……はい」
アイリが短く答えたあと、ため息ともつかない息をこぼして、くるりと踵を返す。
神崎も慌ててあとを追い、重たい調査課の扉が背後で静かに閉じられた。
廊下を進む途中、アイリが無言で分厚いファイルを差し出してくる。ずしりとした重みが腕にのしかかる。ハードカバーの表紙には、《調査課業務規程・初級編》と記されていた。
「……辞書、かと思った」
「マニュアルだ。明日までに通読しろ。最低限の用語と手順は頭に叩き込め」
「……通読!? これ全部……?」
神崎はファイルの厚みに絶望しつつ、それでも抱きかかえるように持ち上げ、庁舎の外へと足を運んだ。
目的地は、職員寮。
冥府庁舎の裏手にそびえる鉄筋コンクリート造りの建物は、まるで時間の流れから切り離されたように、重く静かに佇んでいた。
窓はすべて同じ形で均一に並び、無機質な光がいくつかぼんやりと灯っている。
寮の正面玄関に差しかかった瞬間、空気がわずかに変わった気がした。湿り気を帯びたような、低く圧迫感のある気配。
「……ここ、ちょっと陰気かも……」
「第一寮は簡素だが、必要な設備は整っている。睡眠と食事が確保されていれば十分だろう」
「えぇ……」
内心げんなりしつつも、行き場のない身にとって寝床があるだけでも幸運だと、神崎は気持ちを切り替えた。
「入り口の守衛室に寮監がいる。この寮で最も古株の、阿傍という男だ」
「——神崎イサナ、か」
不意に、低く響く声が耳に届いた。姿を現したのは、制服の上に長い上着を羽織った男。灰色がかった肌に無精髭、感情の読めない瞳。
「寮監の阿傍だ。規律は絶対。時間厳守。騒音厳禁。異常発生時は即時報告。それ以外は干渉しない」
「え、あ、はい……。よ、よろしくお願いします」
「寮の規律は各部屋に掲示済み。案内は省略する。部屋は三棟一一四号。二人部屋。鍵は共用——以上」
問答無用の口調でそう言い残すと、阿傍はそのまま背を向けて部屋の奥へと消えていった。
神崎は呆気に取られ、その背中を見送る。
「今の人……黒野さんより、機械的というか……無感情というか……あ、いや、なんでもないです」
「必要な情報さえ得られれば問題ない」
アイリの淡々とした返答に、神崎の不安はさらにじわりと膨らんでいった。
三棟一階の一一四号室。静まり返った廊下を抜け、アイリが一つの扉の前で立ち止まる。
「この部屋だ。一応ノックしてから入れ」
「う、うん……って、二人部屋ってことは相部屋だよね? どんな人が——」
ノックの直後、神崎がドアノブに手をかけた、その瞬間。
「——え、マジ!? 新しいルームメイトってお前だったのか!」
内側から勢いよく飛び出してきたのは、見覚えのある顔だった。
「その声……!」
冥府庁門前で出会った、あの門番の青年。
「よっ、生きてたな! いや~まさか同室になるとはな! これ、運命ってやつじゃね?」
場違いなほど明るい声に、神崎は安堵をにじませて笑った。
「よかった……春日さん、だっけ? あのあと大丈夫だった? 俺のせいで怒られたり——」
「全然。ちょっと事情聞かれたくらい。てか、お前のこと、警備課でもめっちゃ話題になってたぞ。えーと……」
「……あ、俺は神崎。神崎イサナ。呼び捨てでいいよ、よろしく」
「じゃあ俺も“押人”で。よろしくな、イサナ」
自然な流れで、二人の手がしっかりと重なった。
その様子を、背後でアイリが軽く呆れたように見つめていた。
「知り合いなら話が早い。だが、騒ぎすぎるな。夜は早めに灯りを落とせ」
それだけ言い残すと、彼女は足音もなく去っていき、扉が静かに閉じられた。
神崎は数秒、押人の顔を見つめたまま、肩の力をふっと抜いた。
「……ホントによかった……不安だったけど、ちょっと救われたよ……」
部屋の中は簡素だった。二つのベッドに、机と棚。冷たい白色灯が静かに照らす。
だが押人の存在だけで、その空間はわずかに“居場所”の匂いを持ち始めていた。
「てかさ、お前、長官に会ったってマジ? しかも調査課配属って、どんなレアキャラだよ」
「えっ、もうそこまで知ってるの?」
「むしろ知らない奴いないんじゃね? 今日の騒ぎ、庁内中の話題だし」
そのまま二人は、たわいもない話を笑いながら続けた。現世のコンビニのホットスナック、スマホの通知音、推しの配信時間——つい昨日まで友人と交わしていたような会話が、何もかも違うこの場所でも、どこか安心をもたらしてくれた。
けれど、ふと視線を落とした先にある重厚なファイルが、現実を引き戻す。
《調査課業務規程・初級編》
(……これ、やばいな。明日、研修だっけ……)
一応ページをめくり始めたものの、今日一日に起きた出来事が多すぎた。
神崎は、ベッドに体を横たえた瞬間、深く沈むように眠りに落ちた。
——こうして、“冥府での最初の夜”が静かに、更けていった。
マニュアルは、最初の百ページをめくられた状態で、机の上にぽつんと置かれていた。




