第六話 冥府に生きるということ
長官室の扉が静かに閉まった瞬間、空気が変わった。
神崎イサナは、ようやく肺の奥に滞っていた緊張を吐き出す。ほんのわずかに肩が軽くなった気がした。
「……俺、これからどうなるんだろ……」
ぼそっと漏らした呟きに、黒野アイリは振り返らなかった。だが、聞こえていたらしい。
「戸籍課で冥府庁職員として仮登録。その後、職員証と通行証の発行、支給品の受け取り、寮の案内。初期研修の予定調整」
「……え、段取り完璧すぎじゃない? いつの間に準備してたの?」
「規定に従っただけだ」
淡々と返されて、神崎は思わず苦笑した。
すれ違う職員たちは、何人かはほんの一瞬こちらを見、すぐに視線を逸らした。
その瞳の奥にあったのは、無関心を装ったままの好奇心。
そして、微かな警戒と——拒絶。
(……ああ、歓迎はされてないな)
だが、不思議と傷つく気持ちはなかった。
むしろ「そりゃそうだよな」とどこかで納得していた。
自分が“例外”であることは、もう認識している。
他人の目がどうあれ、ここでやっていくしかない——そう腹を括り始めていた。
角を曲がると、ガラス張りの窓口が並ぶ明るいフロアが現れる。
「……あっ!」
目に飛び込んできたのは、見覚えのある後ろ姿だった。川原美弥。彼女は資料の束を抱え、慣れた手つきでカウンターを行き来している。
「神崎さん!」
ぱっと表情を明るくし、こちらへ駆け寄ってくる。
「無事でよかった! 黒野さん、調査課に配属とのこと……ありがとうございます。お世話になります!」
「私の決定ではない。新人の面倒を見るのも業務の一環だ。先ほど依頼した書類は?」
「えっと、こちらが仮登録の申請書です。サインだけ、お願いします!」
差し出された紙とペンを受け取り、神崎は促されるまま視線を落とす。
「……この名前、“俺の”で合ってるよな……?」
「はい?」
「いや、なんでも……」
用紙には【神崎イサナ】の名前がすでに印字されていた。
その文字が、静かに、だが確実に現実味を帯びてきていた。
「これが仮の職員証です。写真は後日撮影しますが、当面はこれを……」
「えっ、やっぱ写真あるのか……!」
「もちろんです。それとこちら、庁内通行証。調査課の区画はセキュリティが厳しいので、必ず携帯してくださいね!」
次々に手渡されるカードや書類。神崎の両手はすぐにふさがり、頭もやや混乱気味だった。
「……寮って、ここからもう出られない感じ?」
「基本的に新任職員は全員、庁舎裏の“職員寮”に滞在していただきます。外部との接触も一時的に制限されますが……」
「全然“大丈夫じゃない”気がするけど……まあ、今さら逃げても仕方ないか……」
小さく肩をすくめた神崎に、ふと思い出したように尋ねる。
「そういえば美弥さん、さっき取調室にいたような……」
「あ、はい。待機中に黒野さんから“至急手配せよ”って連絡が来て、戸籍課に戻ったんです!」
にこにこと笑いながら端末をトンと叩く。
「神崎」
アイリが足を止めて振り返った。
「支給品を受け取ったら調査課へ案内する。今日は実務はないが、顔だけは通しておく」
「は、はい!」
反射的に敬礼じみた動作をしてしまい、神崎は美弥にそっと耳打ちした。
「……このペース、慣れてきた気がする」
「すごいじゃないですか! 黒野さんと一緒に働けるなんて、私だったら感激で倒れます!」
「……うん、そのすごさはまだよく分からないかも……」
「神崎、そろそろ行くぞ」
アイリの一声に、神崎は急ぎ足で後を追った。
廊下を進むたびに空気が変わっていく。
壁は滑らかな黒へと変化し、足元の絨毯は深い藍に染まり、通路の扉に触れるたび、金属がわずかに熱を帯びているように感じられる。
すれ違う職員たちの表情はない。目を合わせることすらなくなっていく。
それでも、すれ違いざまに感じる——わずかに向けられる視線。
だが、その視線には、やはり“歓迎”の色はなかった。
それは、無関心に偽装された拒絶。
異物を遠ざけるための沈黙。
それでも神崎は、立ち止まらなかった。
むしろ、その空気ごと受け入れようとするように、静かに歩を進めた。
「……なんか、こっちの区画、空気が重いな……」
神崎のぼそっとした呟きに、アイリは足を止めることなく淡々と答えた。
「調査課は“非典型事案”を扱う部署だ。亡者の迷入、因果の干渉、循環の異常。通常処理できない“例外”はすべて、ここに回される」
「例外……」
——まさに、自分がその側の存在なのだと、神崎は改めて実感する。
それは単に空間の変化だけではなかった。
この区画に入ってからというもの、すれ違う職員の数は減り、誰もが声を発さず、足音すら吸い込まれるように静まり返っていた。
たまにすれ違う者の中には、ちらりと神崎に目を向ける者もいたが、その視線は決まって一瞬で逸らされた。
好奇心の色がちらりと覗く。それでも、その奥には、恐れや訝しみがひそんでいた。
まるで、異質なものをあからさまに歓迎してはいけないと、互いに心得ているかのような空気。
(——やっぱり、歓迎はされてないんだな)
けれど、神崎はそれを不思議と冷静に受け止めていた。
むしろ当然だ、とすら思う。
自分は“例外”なのだ。他者の反応を気にしていたら、この先やっていけない。
「改めて言っておこう。私は調査課に所属する、調査官の黒野アイリだ」
アイリの声が、空気の密度を裂くように響く。
「調査官は現場と記録、両方を扱う。言い換えれば、情報の“解釈者”だ。その補佐が補佐官。そして君は——その候補生。つまり、見習いだ」
「調査官の補佐、見習い……?」
「おそらく、私の補佐につくことになる。今のところ調査課で補佐がいないのは私だけだから」
「俺でいいんですか?」
「“適性”が合えば継続。“なければ排除” 。実際に試してから判断する」
淡々と告げるその声は、責めでも脅しでもない。ただの事実として、眼前に突きつけられる。
神崎は小さく喉を鳴らした。
「……ちなみに、今から会いに行く調査課の課長って、どんな人なんです?」
アイリが少しだけ沈黙し、そして短く答えた。
「——責任感のない甘党の観察者」
「え、ちょ、黒野調査官。その人、上司ですよね?」
「事実を述べたまでだ。異常案件の分析と処理統括を担う立場だが、面倒ごとは部下任せ。人間観察を好む傾向が強く、笑えない冗談を交える癖がある。あと、甘味に目がない」
「な、なにそれ……」
「それが初江太志課長という男だ。……おそらく君は、わりと好かれるタイプだろう」
「なんか不安なんですが……」
会話が途切れた頃、廊下の先に重厚な扉が現れた。
金属製のその扉には、「調査課」と刻まれたプレートがはめ込まれている。
その前に人の姿はなかった。
ただ、そこに立つだけで、胸の奥に静かな緊張が走った。
——まるで、ここが“線を越える”ための関門のように感じられた。
◇
扉が開かれると、室内はひんやりとした静寂に包まれていた。
左手にはロッカールーム、右手には無人の給湯スペース。その先、整然と並ぶパソコンデスクでは数名の職員が無言で作業をしていた。
キーボードの打鍵音だけが、規則正しく空気を刻んでいる。
会話も雑音もない。ただ“処理”の音だけが、淡々とこの場所の時間を支配していた。
壁際には黒いファイルの詰まったキャビネット。
記号と数字だけが並ぶホワイトボードの前では、誰もが情報と向き合い、感情を介さずに仕事をこなしている。
神崎は、その空気の中に、ひとつの“線”を感じた。
人の居場所であるはずの職場から、何か別の“場”に踏み込んだような、冷ややかな圧。
その奥——透明なガラスで仕切られた一室に、ひとりの男の姿があった。
落ち着いた色のスーツ、細身の眼鏡、胸元のリボンタイ。
書類をめくる手を止めたその男が、こちらに気づくと、ふと笑みを浮かべる。
そして、立ち上がり——扉を開けた。
が、彼は中に招き入れはしなかった。
代わりに、自ら課長室から一歩外へ出てくる。
まるで、まだ「彼の場所」には神崎を入れないという線引きを示すかのように。
「おお、黒野君、ありがとう。連れてきてくれたんだね」
柔らかい声音だった。
親しげで、無害そうな笑顔。
「……で、君が神崎イサナ君だね?」
「……はい。神崎です」
その名を口にした瞬間、男の目がわずかに細められた。
笑顔の奥で、何かを測るように、沈黙が一拍——。
「初江太志。調査課の課長だよ。まあ、年季だけは入ってる」
冗談めいた口調。それでいて、視線は油断なく神崎を見つめている。
「聞いてるかもしれないけど、君にはここでしばらく試しに働いてもらうよ。バディは黒野君。実務補佐にはまだ就けないけど、いずれ“神崎補佐官”と呼ばれるようになる日も——そう遠くないかもしれないね」
その瞬間、作業を続けていた課員たちの手がわずかに止まり、視線が神崎に向けられる。
「……え?」
戸惑いが口をついたとき、初江が小さく笑った。
「ちょっとしたジンクスがあってね。黒野君のバディで“三日続いた子”ってのは、いなかったんだ」
「えっ……」
「厳しいというより、彼女が真面目すぎるんだよ。だから君がどうなるか——興味深いね」
そして初江は、肩越しに調査課の空間へ目をやる。
「みんな」
明確に声を張ることはしない。けれど、その一言で、空気がわずかに波打った。
「新しく調査課に候補生が入った。神崎イサナ君。しばらく黒野君の指導のもと、研修を受けてもらう」
誰も返事はしなかった。
だが、それぞれの意識が確かに、神崎へと向いたのがわかる。
重たい沈黙のなか、初江は微笑を崩さず、静かに言葉を添えた。
「気負わずやってくれたまえ。僕は君に、ほんの少しだけ期待してる」
神崎はその言葉の“軽さ”の裏に込められた重さを、直感的に理解していた。
初江太志。この男は、ただの課長ではない。
彼の目はずっとこちらを見ていた——試すように、測るように。
そしてその瞬間、神崎は自分がついに“冥府の内部”に立たされたことを悟る。
それは、例外としての存在が、ついに秩序の中へ放り込まれる、始まりの一歩だった。




