第五話 冥府を統べる者
焔摩長官執務室の重厚な扉の前。
黒野アイリは立ち止まり、隣に立つ神崎にちらりと視線を向けた。
「この中にいるのが、焔摩長官。冥府庁の最高執行官だ」
その一言で、神崎の背筋がしゃんと伸びる。
彼女の声には威圧はない。ただ、必要な情報を淡々と伝えているだけだ。
けれど、言葉の端々から伝わる緊張感に、自然と息が浅くなる。
アイリは神崎に向き直り、まっすぐに言った。
「嘘偽りのない返答を。失礼のないように。質問されたことだけを、正確に答えること」
「……はい」
返事をしながら、自分の声が少し震えているのがわかった。
アイリの無表情の奥に隠された圧のようなものが、静かに心を締めつけてくる。
「私はここで待機する。君ひとりで入って」
「……えっ、あ、はい……了解しました」
思わず間抜けな返答になった自分を、心の中で殴りたい。
だが、アイリは特に何も言わず、扉の横へと視線を戻した。
神崎はごくりと喉を鳴らす。
たった一人で、冥府の頂点に立つ存在と対面する――
その事実が、途方もない不安として胸にのしかかってくる。
アイリが扉に手をかけた。音もなく、それは内側へと開いていく。
⸻
焔摩長官執務室。
扉が開いた瞬間、ぬるく湿った空気が肌を撫でた。
わずかに熱を帯びた空気が、視界をゆらりと揺らがせる。
かすかに香の匂いが漂い、まるで部屋そのものが呼吸しているようだった。
(……なんだ、この空気)
神崎は一歩、足を踏み入れた。
扉の向こうは別世界のように感じられた。
(あの世に来てから、何がなんだか……)
死者しかいない世界。獄卒に追われ、友人たちともはぐれた。
一人でここまで来るだけでも精一杯だった。
でも今、自分は冥府庁の“長官”に会おうとしている。
彼が視線を上げた、そのとき。
部屋の中央、静かに立つ男の姿が目に入った。
(……普通の人……?)
意外だった。
神崎の想像していた“冥府のトップ”は、もっと異形で、恐ろしい存在だった。
だが目の前の男は、端正な顔立ちに整ったスーツ姿。
落ち着いた所作で手帳をめくる様は、政治家や官僚のような知的な印象すらある。
(てっきり、もっと鬼っぽい何かかと……)
けれど、次の瞬間。
焔摩長官が顔を上げた、その瞬間。
目が合った。
それだけで、神崎の内側がひやりと凍った。
まるで全身を透視されたような――いや、魂の奥まで覗き込まれたような錯覚。
(やば……この人、笑ってんのに、怖い……)
「神崎イサナ、だね?」
声は低く、落ち着いていた。
拒絶も怒りもない。ただ、選択肢すら許さない、静かな“確定”だけがそこにある。
「は、はい!」
返事の声が裏返りそうになった。
焔摩は微笑んだ。懐かしむような、それでいて試すような笑みだった。
「ふふ……君のように境界を踏み越えた者を見るのは、久しぶりだよ」
「……久しぶり、って……?」
「そう。かつて、小野篁という男がいた。彼もまた、生者のまま冥府を訪れ、記録を紡いだ」
「——っ、小野篁……六道珍皇寺の……!」
思わず声が漏れる。
大学で学んだ伝説。それが、今目の前で事実として語られている。
「彼は我が側近として、冥府の書を記した。冥土通いの井戸を通ってね」
「……あの井戸、本当に繋がってたんですか……」
まさか。本当に、繋がっていたなんて。
でも、自分もあの井戸の近くにいた。そして今ここにいる。
(もしかして、小野篁だけが……“戻れた”唯一の例なんじゃ……)
「民俗学、興味があるんだろう?」
「え……あ、はい。昔から、少しだけ……」
「なら、冥府で学ぶのも悪くない」
その笑みは変わらなかったが、目だけが鋭く光った。
まるで、自分の中の“選択”を見抜いているような眼差しだった。
神崎は、ゆっくりと拳を握った。
ここで逃げ出したら、もう戻れない気がした。
「……じゃあ、もし……冥府庁で小野篁みたいに働けたら、俺にも戻れる可能性があるってことですか?」
焔摩はしばし沈黙したあと、静かにうなずく。
「可能性が“ある”だけだ。境界を往還する者は、因果律を乱す。小野も命を削りながら、それでも記録を紡いだ」
「それでも……やるしか、ないんです」
他に道がない。
それがどんなに危うくても、自分に残された唯一の可能性なら、選ぶしかない。
沈黙。
焔摩は手帳のページをなぞりながら、ふと神崎へと目を向けた。
「神崎イサナ」
「君には、“理”というものが届きづらいようだ」
「……え?」
「この冥府という世界には、境界がある。生と死、記憶と忘却、神と人──そのどれもに、君は触れているように見える」
「……俺、何も……」
「いや。まだ“思い出していない”だけかもしれないね」
焔摩の微笑みは、どこまでも穏やかだった。
けれど、神崎は確信する。——この人は、自分の“何か”を知っている。
「民俗学を学んでいたのは、偶然ではない。君の魂が、そういう記録を欲していたのかもしれないね」
「……俺に、何があるって言うんですか」
「それは──いずれ、君自身が選んで知ることになる」
焔摩は手帳を閉じ、立ち上がった。
「冥府は“記録の場”だ。そして、記録は誰かに見られることで意味を持つ。君の記録もまた、例外ではない」
「……記録、ですか」
「君が記すものが“史”となるのか、“神話”になるのか……」
焔摩の目がすっと細くなる。
「私としては、楽しみにしているよ。イサナ——いや、君自身が何者なのかを」
そして、焔摩が指を鳴らす。
扉が音もなく開く。
そこには、再び黒野アイリの姿があった。
無表情の中に、かすかな緊張と静かな覚悟がにじんでいる。
「この者に冥府庁の職員としての研修を受けさせるように。所属は調査課。君に管理と監督を任せよう」
「承知致しました」
アイリが短く応じ、神崎を見やる。
その視線は冷たいが、どこか遠くに共感のようなものを感じた。
「ついてきて」
「……あ、はい」
神崎が席を立つと、焔摩が背中越しに声をかけた。
「始まりは、いつも偶然だ。だが、それを選ぶかどうかは、君自身の意志による」
その言葉の意味はまだ理解できなかった。
けれど――その瞬間、確かに神崎は“選ばれた”と感じていた。
この冥府という、異界の記録を刻む役割に。




