第四話 突然の呼び出し
面談を終えたアイリは、無機質な室内を出るとすぐに通信室へと向かった。
室内に入ると、端末を操作して通信画面を開く。
画面に映ったのは、茶を啜りながら何やら書類をめくっている調査課課長・初江大志だった。
『やあ、黒野君。お疲れさま。……こっちは相変わらず山積みでね。胃が痛いよ』
「異常案件です。生者の侵入、それも結界を突破して庁内の中枢部にまで到達。戸籍情報も霊的記録も一切該当なし。……それと、課長が本来対応すべき尋問を私が代行していた理由については、追って正式に報告いたします」
『……あー、それはまあ……その……うん。ちょっと胃の調子がね?』
「“体調不良で判断力の低下を伴う中、異常案件の対応を部下に一任した”と記録してよろしいですか」
『いやいやいや、やめて。そういうの。君は本当に冗談が通じないなあ』
初江が苦笑しながら顔をしかめる。
アイリは無言で一度だけまばたきをし、報告書のデータを送信した。
「現時点での聞き取り内容と関連資料を添付しました。どうぞご確認ください」
『あいよ。……んー、どれどれ』
通信越しに、茶を置いた音が聞こえる。初江は手元の端末に視線を落とし、神崎の経緯と川原の処理記録をじっくり読み始めた。
『……ふむ。戸籍不在、魂番号不明、痕跡ゼロ。なるほどねえ。これは確かに……』
一度、眼鏡の端を持ち上げながら眉をひそめた初江が、画面越しに呟く。
『おや……これは大変だ』
「どの部分ですか」
『いや、全体的にさ。これは……構造の隙間というより、そもそも“冥府が認識していない存在”の可能性があるな。存在が未登録ということは、死者でも迷いでもなく、“この世界において名を与えられていない”ということだから』
数秒の沈黙の後、アイリが言葉を継ぐ。
「私もその可能性は高いと考えます。“未登録”なら、理屈は通る。……ですが、もう一つの仮説も捨てきれません」
『というと?』
「“記録されていなかった”のではなく、“記録を消された”可能性です」
初江の目の奥が、わずかに鋭さを帯びた。
「魂番号、来庁記録、構造経路……複数の系統にまたがる情報を、完全に消去するのは並の権限では不可能。しかも庁内の探知に一切引っかかっていない」
「意図的に改竄されていたとすれば?」
「そう仮定した場合、関与できるのは上層部、あるいは――」
『わーわー! はい、ストーップ! それ以上はやめよう、黒野君。僕の寿命が縮む。胃も痛くなる』
初江が、画面の向こうで本気で手を振った。
『……いやほんと、滅多なこと言うなよ。この通信だって傍受されてるとも限らないし、冗談でも危ないんだから』
「冗談を言ったつもりはありません。仮説を提示したまでです」
『そういう仮説が一番怖いって言ってるの。まったく……』
初江が渋く茶を啜る。その表情には、困ったような、だがどこか興味を隠しきれない光が宿っていた。
『……まあでも、どちらにせよ“調査課預かり”になるだろうねえ。誰かに回されるよりは君のとこが一番無難だし』
「異論はありません。既に担当していますし、対応は粛々と進めます」
『ほんと、冷静だよなあ、君は……。僕なんかちょっとワクワクしちゃってるんだけど』
「感情で処理は変えません。起きたことは起きたこと。私たちは、それに対して適切に対応するだけです」
『はいはい、君は実に優秀で有能な部下だよ、黒野君』
皮肉とも賞賛ともつかない口調で初江が笑った、まさにその時だった。
初江の端末に、新しい通知音が届いた。
『……っと。さっきの報告書が上に行ったようだ。少し待って』
手元を確認していた彼の表情が、ゆっくりと変わる。
驚きではない。何かを“確信”した者の顔だった。
『……君の報告、焔摩様がご覧になった。……で、“会ってみたい”と』
「……会う? 焔摩長官が、直々に?」
『“今すぐに”とおっしゃってる。……生者と直接話をするなど、俺の知る限り一度もない。前例なんて、もちろん無い。まいったねえ……』
初江は頭を掻きながら、ぽつりと呟く。
『……これはもう、ただの“偶然迷い込んだ生者”なんかじゃない。“案件”そのものだよ。黒野君、しばらく厄介なことになるぞ』
「了解。長官の要請であれば、応じます。対応は、今すぐに」
『ああ。調査課経由で正式に命が下りるだろう。……本当、胃が痛い話だよ』
「その点については同情します」
『皮肉は言ってないよね?』
「言ってません」
アイリは静かに通話を切った後、数秒ほど画面を見つめたまま動かなかった。
しかし、その目はすでに、神崎を連れて焔摩の執務室へと向かう覚悟を映していた。
それから、ごく静かに立ち上がる。
指先が、ほんのわずかに強張っていた。
一方。アイリが報告のために部屋を出た直後。
扉が閉まったとたん、神崎は椅子にぐったりと沈み込んだ。
「……もうダメかも。わけがわからない……」
顔を伏せたまま、机の上で指をくるくると回す。
思考がまとまらず、現実感すらあやふやだった。
「だ、大丈夫ですって……! きっと、どうにかなりますから!」
隣で声をかけた美弥の声には、精一杯の励ましと、どこか自分にも言い聞かせる響きがあった。
「……黒野さんも、ああ見えて意外と優しいですし。……たぶん」
「そうなの?」
神崎が顔を上げる。
美弥は少し戸惑ったように笑い、それからぽつりと話し出した。
「私……ここに来たばっかりのとき、庁舎の構造が複雑すぎて、迷って泣きそうになっちゃって……。他の人たちは素通りだったんですけど、黒野さんだけが足を止めて、ちゃんと話を聞いてくれて、案内もしてくれたんです」
「え、マジで? あの人が?」
「はい……! すごく冷たそうに見えるけど、そういうとき、ちゃんと“必要なこと”はしてくれる人で。……それ以来、ちょっと憧れてるんです」
最後の言葉は、小さく、照れたように漏らされた。
沈黙が一瞬だけ漂う。
「……だから、黒野さんが動いてくれてるなら、きっと大丈夫、だと思います」
神崎はしばらく彼女を見つめていたが、やがて少しだけ笑った。
「……そっか。なんか、ありがと」
ほっとしたような空気が流れた、そのときだった。
控室の扉がノックもなく、静かに開いた。
姿を見せたのは黒野アイリ。
いつも通りの無駄のない足取りで入ってきたが、どこかその空気にわずかな緊張が混じっていた。
「神崎。立て」
「え、今度は何……」
「焔摩長官が、君に会いたいそうだ」
「え、長官って……え、あの、えんま様?」
美弥が先に声を上げた。驚きに言葉を詰まらせ、思わず神崎と顔を見合わせる。
「正確には“焔摩平等”。冥府庁の最高責任者。……生者と直接会う例は、私の知る限り存在しない。異例中の異例だ」
「……えっ、え、なにそれ。俺、何かした!? そんなヤバい罪とか、ないって思うけど……!」
「罪の有無は、これから話を聞いた上で判断される」
「や、やめてよ……! もう、マジで胃が……」
神崎が頭を抱える中、アイリは時計のない空間に無言で時を計るように立っていた。
「時間がない。動け。長官を待たせるなど言語道断だ」
そう言いながら、アイリは神崎の肩を押し、立ち上がらせる。
「あっ……あの、私は?」
慌てて口を開いた美弥に、アイリは振り返らずに答えた。
「川原はここで待機。調査記録に補足を。追って指示する」
「っ、はいっ……!」
安堵の息が漏れ、同時に不安が胸を突いた。
美弥はそのまま神崎の背中を見送ろうとしたが、ふと立ち上がり、小さな声で呟いた。
「……無事、戻ってきてくださいね」
神崎が振り返ると、美弥は恥ずかしそうに目を逸らしつつ、両手で“がんばれ”のポーズを作ってみせた。
それは書類や記録には残らないが、ささやかで確かな応援だった。




