第二話 異端の迷い子
門をくぐった瞬間、確かに空気の重さが変わった。
肌を撫でる温度は、さっきまでの蒸し暑さではない。どこか冷たさを孕んだ、乾いた気配が空気に混じっていた。
線香と古紙、それにどこか懐かしい土壁の匂い。いくつもの記憶が層のように風に溶け、鼻をくすぐる。
門から伸びる道は、まっすぐに広がっていた。
迷いようのない一本道を進んでいくと、やがて目の前に建物が現れる。
「……ここが……?」
神崎は、ぽかんと口を開けた。
そびえ立つのは、無機質なガラス張りの庁舎。
エントランスでは自動ドアが、淡く明滅を繰り返しながら、静かに開閉を続けている。
そのガラスの向こうに透けて見えるのは、見慣れたようで、どこか違う光景だった。
受付カウンター。
待合ベンチ。
呼び出し番号を示す電光掲示板。
書類を手にした者たちが、無言で順番を待っている。
けれど、その“待つ人々”には、あまりに生きている気配がなさすぎた。
頭巾を被った痩せた老人。
大怪我を負ったままの子ども。
顔が半ば潰れた女性。
誰もが、それを当然のこととして受け入れているように、番号札を握ったまま黙って座っている。
まるで、自分たちがもう“時間の外側”にいることを知っているかのように。
「……役所……か、ここ……?」
神崎は呆然とつぶやいた。
受付カウンターにはプラスチック製のボールペンが無造作に置かれ、壁には手続きのフローチャートが貼られている。
(……ここ、役所じゃん)
「死亡事由届は、窓口5番になります」
「魂登録の更新は、ロビー左手の端末でも可能です」
無感情で事務的な声が、フロアのあちこちで響きわたっていた。
死後の世界が、こんなにも整然としているだなんて。
書類と制度が、“あの世”を回しているだなんて。
――そんなの、誰が想像できる。
神崎は思わず額を押さえた。汗が、重力に従って額から滑り落ちる。
困惑を抱えたまま、壁際の記入台に近づいてみる。
手に取った用紙には、名前、住所、生年月日……ではなく、「没年月日」の記入欄があった。
「……あの」
「はい。何かお困りですか?」
入り口近くにいた職員が、すぐに飛んできた。
「これ、分からない場合って……どうすれば?」
「分かる範囲で大丈夫です。受付時に確認いたしますね。――川原さん、今行ける?」
「は、はい!」
カウンターの奥から、やや緊張気味の女性の声が返ってくる。
「……それでは、すぐにお調べいたします。0番窓口へお進みください」
淡々とした、けれどどこか穏やかな声に促されて、神崎はふらふらと0番の窓口へと向かった。
待っていたのは、栗色のセミロングヘアの若い女性だった。
制服の襟元には、「川原美弥」と書かれた名札がついている。
「えっと……お名前、カンザキイサナさんで合ってますか?」
「はい……」
彼女の口調は丁寧で優しげだったが、どこか不慣れなぎこちなさが混じっていた。
神崎が差し出した用紙を見ながら画面に何か打ち込み、何度もモニターを見返している。
「えーっと……」
モニターを凝視しながら、美弥の眉がぴくりと動く。
「……おかしいですね。今日の死亡者リストに……名前が載ってない……」
「いや、それはそうですよ! だって俺、まだ死んでないんで……」
「へっ……? え、えっ?」
完全にフリーズしたような顔で、美弥は瞬きを繰り返す。
慌ててメモ帳を手に取り、端末の横にある分厚いマニュアルをめくり始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね!? えっ、なんで……いや、ほんとに……」
「た、たぶん……ですけど」
「これ、研修の一環のテスト対応とかじゃないですよね? だってマニュアルにも書いてないし……」
オロオロしながら端末を操作し続ける様子は、いかにも“真面目で一生懸命な新人”という風情だった。先ほど門の前で出会った押人と言い、どことなく他の職員や受付を待つ人々に比べて親しみが持てた。
やがて彼女は、カウンターの奥でお茶を飲んでいた年配の職員に声をかけた。
「す、すみません。あの、この人……“生きてる”って言ってて……しかも記録が、どこにも……」
職員の男は神崎を一瞥し、ふん、と鼻で笑った。
「よくあるよ。自分ではまだ生きてるつもりのやつ。時間がずれて入り込むんだ、時差ボケみたいなもんさ。間に受けず、落ち着いて調べなさい」
「いやいやいや、本当に俺、心臓動いてますし!」
神崎の声が少し上ずった。その必死さに、川原がふたたび端末に目を落とし、困惑の色を濃くした。
「……でも、ほんとに……どこにも載ってないんです。この人の記録、どの分類にも引っかからない」
その一言が、場の空気を変えた。
ざわっ――。
無機質だったロビーの空気が、目に見えぬ波紋のように揺れた。
「……マジかよ、記録なしって……」
「冥府庁のデータに漏れがあるなんて……」
「生者が迷い込むとか、聞いたことないぞ」
「異常案件だろ、これ……調査課、呼ぶしかなくない?」
低くささやき合う職員たちの声が、神崎の耳に突き刺さる。
自分が、“ここに居てはならないもの”として見られている。
「……川原君。すぐに調査課へ連絡を」
「は、はい!」
美弥が近くの内線に手を伸ばし、受話器を取り上げる。
(調査課って……何か、すごくヤバそうな響きなんだけど……)
「はい。戸籍課で研修中の川原美弥です。お疲れ様です。あの……実はですね……」
端的に電話の向こうの相手に事情を説明し、美弥は受話器を置いた。神崎は恐る恐る尋ねてみる。
「あの、調査課って……?」
「異常事態専門の部署です。こういう、“ありえないケース”に対応してるところで……」
「え、俺、今“ありえない”って言われてる……?」
——数分後。
コツ、コツ、コツ。
フロアの奥から、一定のリズムを刻む足音が近づいてきた。
その音と同時に、ざわめいていた空気が、すっと静まり返る。
「……っ来た……! 黒野アイリさんだ……」
美弥が小さく呟き、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
現れたのは、一人の女性。
黒ずくめのパンツスーツ。
艶やかな黒髪を、眉の上でまっすぐに切り揃えている。
人形のように整った顔立ち。けれど、どこか冷たい。
張り詰めた気配。氷のような静謐さ。
その姿は、言葉より先に空気を制していた。
黒野アイリ――調査課。
その名を、職員たちは小声で囁いた。
「その生者。調査課が預かる」
冷たく、短い言葉だった。
それだけで、空間が引き締まる。
「お前がカンザキか。奥で詳しく話を聞く。ついて来い」
「は、はい……!」
思わず立ち上がりながら、神崎は応じた。
黒野は一度も振り返らず、ただ前を向いたまま歩き出す。
「川原君も同行しなさい」
年配の職員に促され、河原美弥も慌てて席を立つ。
「はい! あ、じゃあ……一緒に行きましょう」
そう言うと、戸惑いながら黒野の背を追う神崎の横に、美弥がそっと並んで歩き出す。
足音だけが響く、無機質な廊下。
三人は、何も言葉を交わさず、ただまっすぐに進んでいく。
(……これ、完全に“連行”だよな……)
神崎はようやく、自分がこの世界にとってどれほど異質なのかを実感し始めていた。
けれど――このとき彼は、まだ知らない。
今ここで交わした視線と声が、それぞれの人生を、そして自分の世界を、静かに変えていくことになるとは。




