第十八話 記録の外
神崎と間宮の足音が廊下の奥に消えていく。
黒野アイリはしばらく見送った後、モニタールームへ引き返した。
乱れていた演習ログの砂嵐はようやく収まり、モニターには安定した波形が戻っている。
(……やっと落ち着いたか)
けれど、その“落ち着き”の裏側に、説明のつかない不安が残っていた。
◇
長机の向こうに、初江課長と佐倉が並んで座っている。
淡々とした空気。だが、机上に置かれた銀色の記録端末だけが、かすかな緊張を反射して鈍く光っていた。
「——さて、始めようか」
初江が柔らかく手を叩く。緩い声音とは裏腹に、視線は資料から逸れない。
「まず確認。今回フィールド内で発生した“黒霧化”は、演習項目外。通信障害もその影響とみて間違いないね?」
「はい。通信ログの乱れは、現場の霊圧波形の乱流と一致しています」
アイリは端末を操作し、グラフを示す。
「模擬環境の想定を逸脱していました。訓練ではなく、事故に近い」
「事故かどうかはさておき、結果はこうだ」
初江は要点だけを摘んでいく。
「霧の制圧は佐倉。原因特定は神崎。解析支援と封印手順提示は間宮。——で、評価の取り扱いを決めよう」
短い沈黙。最初に口を開いたのはアイリだった。
「正式なスコアリングは“演習項目”にのみ準拠するべきです。項目外の行動は、評価表には反映しない方がいい。……ただし備考として詳細に記録し、後日の適性判断資料に回す——私はそれが妥当だと考えます」
即座に、佐倉が言葉を重ねる。
「現場で使えるかどうかの判断は“項目内か外か”なんて関係ない。黒霧の発生原因として逆配列の呪詛を見抜き、仮封印まで辿り着いたのは事実だ。現場で活きる能力として加点対象にすべきだ」
アイリは一度だけ瞬きをし、目を細めた。
「個人的な“すべき”という感覚で評価を曲げれば、後々困るのは現場だ。規定は、線引きのためにある」
「規定が現場を守ることもある。だが、その範囲外で起きることの方が多いのも現場だ」
佐倉の声は低いが、揺れない。
「あのとき発生源を見落とせば、被害は拡大していた。とっさにマニュアルの内容を思い出して対応できた手際は、評価の価値がある」
二人の視線が、机の上で交差した。
初江は頬杖をつき、楽しげとも退屈ともつかない目でそれを見比べる。
「……君たちは、似てるようでいて何故かいつも噛み合わないねえ」
口元だけが笑った。
「黒野君は規程で場を守る。佐倉君は直感で場を守る。どちらも“現場を守る”のに、入口が違う」
「課長」
アイリが、わずかに声を落とす。
「あなたが彼を責めないのは、結果的に大きな問題が起きなかったからだ。——もし研修生達の身に何かあれば、あなたは責任を佐倉に押し付けるつもりだったでしょう」
初江は目を丸くして、それから肩をすくめた。
「さあ、そんなことはしないと思うけどねえ」
軽く笑い、すぐに視線を端末へ戻す。
「さて……一旦、今回の件は“参考記録”として整理しておこうか」
初江は手を止めず、資料に目を落としたまま続ける。
「正式な評価への反映は、上の判断を待つとして……黒野君の案を下書きベースに進めようか。報告は僕が通すよ」
その言葉に、やや不服そうに佐倉が短く嘆息した。
「……『項目外対応あり。知識運用および現場適応力に変化の兆候あり』……くらいにしておこうかな」
初江はキーボードを叩きながら、ちらりと佐倉を見る。
「おやおや、不満そうだ。誰かに肩入れするなんて、珍しいね」
初江の言葉に、佐倉は別に肩入れなんてしていない、と素っ気なく横を向く。
「あとは、現場指導側の所見として君の感想を入れておきたい。何かある?」
佐倉は短く息を吐き、椅子にもたれた。
「……所見、か」
「正直に頼むよ。最終判定における所見の扱いは、決して軽くないからね」
掌を向けられ、佐倉はわずかに間を置く。
そして、短く。
「……“規定の範囲外ではあるが、実地で確認したい反応だった”。それだけでいい」
わずかに間を置いてから、さらに佐倉が付け足す。
「評価は、現場で見て判断する」
初江はわずかに口角を上げてから静かに頷き、文面を保存する。画面の片隅で点滅するファイル名が、「研修・特記対応候補者」と変わる。
「じゃ、そんなところで」
軽い調子で締める声の奥に、何かが秘められていた。
神崎が“合格”なのか、“不合格”なのか——今はまだ、誰にも明言されなかった。
「この件については、内部報告として整理しておくってことでいいね。最終の合否判定は、上の判断もあるし。黒野君、どうだい?」
アイリは黙したまま画面を見つめる。
ノイズ越しに浮かぶ神崎の姿──あの霧の中、歯を食いしばって立ち向かう様子が、静かに彼女の目に焼き付いていた。
「……異議なし」
それ以上、何も語られなかった。
佐倉は立ち上がり、端末から視線を外した。踵を返しかけて、ふと振り向く。今度は、はっきりと黒野を見据えた。
「神崎を、あんたのバディにするのはやめとけ」
一拍置いて、佐倉は静かに言葉を続けた。
「片方はマニュアル偏重タイプ。もう片方は勘と機転で動くタイプ。……現場じゃ、それは事故る」
そう言って、ふっと目線を逸らす。
「そんなの、組んだその日でバディ解消になった俺とあんたが、一番よく知ってるはずだろ」
アイリは短く瞬きをして、何も返さなかった。
初江だけが、にこりと笑って場を流す。
「はいはい、そこは上と相談ね。まあ、まずは体力づくりと実務の準備を——バディの調整はそのあと、そのあと」
初江の声は軽いが、明らかに何かを企んでいる響きがあった。
佐倉は小さく舌打ちする。
(……また同じこと、繰り返す気か)
だが、そのときにはもう扉が閉まりかけていた。
残ったのは、更新された評価ファイルの小さな電子音だけ。
——記録の外側で起きたことが、静かに冥府庁の記録へとにじみ始めていた。
ようやく演習編も残すところ一日分です!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
引き続きお楽しみください。