第十六話 想定外の試練
──モニタールーム。
黒野アイリは、映像に走るノイズを凝視していた。
灰色の霧に覆われた廃駅フィールド。その奥で、黒い人影がぐにゃりと歪み、輪郭を失っていく。
(……黒霧化?)
思わず目を細める。
本来、この演習課題にそんな項目は含まれていないはずだった。
怨霊が高濃度の霊圧に曝され、異常進化を起こす現象──黒霧化。
それは模擬訓練で扱うにはあまりに危険すぎる。
すぐに通信を開こうとしたが、端末にざらつくノイズが走った。
声が途切れる。映像も一瞬、砂嵐に掻き消えた。
「……通信障害?」
アイリの眉間に皺が刻まれる。
偶然にしてはあまりに都合が悪い。まるで“誰か”が干渉しているかのように。
(……演習の範疇を逸脱している。これは、訓練じゃない)
彼女は唇を引き結び、モニター越しに視線を鋭くした。
◇
フィールドの中。
不意に霧が渦を巻き、人影のような黒塊がせり上がった。
液状に脈打ち、呻くような音を漏らしながらこちらへにじり寄る。
「っ……!」
間宮が端末を構えるより早く、佐倉が一歩踏み出した。
「下がってろ」
低く言い捨て、掌に込めた霊力を叩きつける。
黒い影は風に散る砂のように裂け、消滅した。
一瞬の制圧。
その姿に神崎は言葉を失い、間宮はただ端末を握りしめて震えていた。
だが──終わりではなかった。
霧の奥から、再び黒い影が現れる。しかも先ほどよりも濃く、数も増えている。
「なっ……!」
間宮が端末を覗き込み、青ざめる。
「波形が……乱れてる? これ、自然発生じゃありません!」
霊圧の波が乱流を起こし、画面はノイズだらけだ。
通信も途切れがちで、外部への連絡は不可能に近い。
黒塊がうねりを上げて迫る。佐倉は眉一つ動かさず、またも祓い払った。
だがその無言の背中に、神崎は違和感を覚えていた。
(……また現れた。これ、キリがない……?)
呼吸を整えようとしたその瞬間、ふっと空気の“ずれ”を感じた。
霧の流れとは逆向きに、冷たい気配が渦を巻いている。
(……ここだ。何か……逆流してる)
重い頭を抱えながらも、神崎は壁際に視線を走らせた。
そこには薄く刻まれた痕跡が残っている。呪符の並び。だが──向きが逆だった。
「……この符……逆だ。封印じゃなくて……むしろ、黒霧を呼び込んでる……!」
その呟きに、間宮がはっと顔を上げる。
「マニュアルに……ありました! 黒霧化の発生源、逆配列の痕跡……!」
霧がざわめき、耳の奥で再び低い囁きが混じり始める。
佐倉は振り返らずに、ただ短く言った。
「……なら、どうする」
神崎は、壁際に刻まれた符の痕を見つめた。
表面は摩耗しているが、線の配列は確かに逆。結界の力を逆流させ、周囲に黒霧を呼び寄せている。
「これ……本来の封印痕じゃない。逆回りになってる……」
間宮が端末を操作し、即座に数値を照合する。
表示された波形が乱れ、危険信号が赤く点滅した。
「一致しました……! 呪詛痕です。黒霧化の原因は、ここだ」
声は震えていたが、確信の響きを帯びていた。
「どうにかできるのか」
佐倉の声は淡々としている。だが、その視線は二人の動きを注視していた。
「……仮封印なら可能です」
間宮は決意を固めるように頷き、符の修正手順を素早く端末に呼び出した。
「逆配列を正しく並べ直せば、一時的にでも霊圧の流れを抑えられるはずです」
「俺がやります」
神崎は即答した。
間宮が驚いたように顔を上げる。
「で、でも……霊圧の負荷が……!」
「大丈夫です。触ってみれば分かります。……俺の方が感覚で位置を掴める」
唇が乾いていた。震えを誤魔化すように、神崎は拳を握り締める。
霧の重圧が肩にのしかかるたびに、足は止まりそうになる。けれど止まれば本当に呑まれる。
「間宮さんは、サポートをお願いします」
「……分かりました」
間宮は素早く端末を切り替え、霊圧の変化を監視する体制を取った。
佐倉は相変わらず口を挟まず、ただその背を見据えている。
その目は冷めているようでいて──どこか、ほんの僅かに期待を含んでいた。