第十五話 霧中の声
霧はさらに濃さを増していた。
白が黒に侵食され、視界は数歩先すらおぼつかない。
神崎は肺を押し潰されるような圧迫感に、息を荒げた。
胸の奥がぎしぎしと軋む。耳の奥では甲高い耳鳴りが鳴りやまず、鼓動ばかりが異様に大きく響く。
(……重い……これが、レベル3……?)
足を出そうとしても、膝が鉛のように重い。
吐き気が喉元までせり上げ、視界の端はじわじわ暗く染まり始めていた。
──その隙間に、声が忍び込む。
「三日ももたないだろう」
「初日から失敗続きとか、いい見せ物だな」
昨日、背後で聞いた陰口。
けれど次の瞬間、その声は別のものに変質していった。
「頑張っても虚しいだけ」
「どうせ現世に戻れるまでの繋ぎだろ」
柔らかく、甘やかな響き。
耳に染み込むほど心地よく、疲れ切った身体を解きほぐすように囁く。
「力を抜け。諦めたら楽になる」
その声は──間違いなく自分自身だった。
(これ、俺の心の声……?)
ぞっとした。
胸の奥に隠してきた弱さ。言い訳。甘え。
それらが霧に引き出され、増幅し、自分へ返ってきている。
境界が溶けていく。
自分が考えているのか、霧に囁かれているのか、判別がつかない。
「ここに自分の居場所なんてない」
「いっそ消えてしまえば、楽だ」
耳元で囁かれた瞬間、膝ががくりと折れた。
肩から背へ、黒い冷気が絡みつく。
甘美な闇に包まれ、このまま抗わずに沈んでしまえたら──痛みも不安も、すべてが消える。
(……何も、悩まず……楽に……なれる……)
意識が揺らぐ。
重さも痛みも消え、ただ静かに沈んでいけるような、誘惑の響き。
「神崎さん!」
遠くから、必死な声が届いた。
間宮の声。かすかに揺れる光のように、闇の中へ射し込んでくる。
だが霧はさらに囁く。
「抗うな。休め」
「その声に応じる必要はない」
(……俺は……)
全身の力が抜けかけた、その刹那。
爪が掌に食い込む痛みが、わずかに現実へと引き戻した。
(まだ……終われない!)
がむしゃらに足を踏み出す。
膝は震え、視界は揺れる。それでも一歩。
その瞬間、肺に現実の空気がわずかに戻った。
続けざまに二歩、三歩──ようやく呼吸が通る。
霧が裂けるように、耳鳴りがほんの少し和らいだ。
「……だ、大丈夫です。なんとか……」
掠れた声で告げると、間宮が安堵の息を吐いた。
その後方。ずっと黙っていた佐倉が、低く言った。
「……甘さがあるうちは、すぐ呑まれる」
淡々とした声。けれど、その瞳には一瞬だけ、値踏みするような鋭さが宿っていた。
まるで“何を見たか”を探っているかのように。
神崎は荒い息を整えながら、奥歯を噛み締める。
ここでは、現世と同じ重さで命を懸けなければならない。試されてるのは、冥府で生きる覚悟なのかもしれない。
荒い息の合間に、神崎はわずかに笑みを浮かべた。
──何とか持ち堪えた。
だが、震える足が告げている。これはまだ“終わり”ではない、と。
霧の奥には、まだ名も知らぬ“何か”が息を潜めている。
囁きは低く深まり、次の一歩ごとに近づいてくる。
ここで立ち止まれば呑まれる。
そう理解しながら、神崎は奥歯を噛み締め、重たい空気を切り裂くように再び足を踏み出した。