第十三話 見えざる圧
その声を聞いた瞬間、神崎の胸はざわめいた。
昨日、自分を「見込みがない」と切り捨てた声の主──佐倉。
ちらりと視線が交わる。
ただそこに居るだけなのに、胸の奥を冷たく締めつけられるような圧があった。
「……神崎イサナです。よろしくお願いします」
恐る恐る挨拶をすると、佐倉は間を置かずに短く返す。
「別に。足を引っ張らなければ、それでいい」
拒絶と事務処理を混ぜたような言葉。
その一言が、突き放す距離をはっきりと示していた。
その横で、いかにも生真面目そうな眼鏡の青年が名乗った。
「じ、情報課の間宮です。……よ、よろしくお願いします」
佐倉は今度は一瞥をくれ、簡潔ながらも役割を見据えた声を落とす。
「調査課の佐倉だ。今回の演習のような現場において、情報支援は肝心だ。しっかり頼む」
その一言に、間宮は強張った肩をほぐすように息を吐いた。
(……俺だけ、戦力外扱いか)
胸の奥にわずかな苦味が広がる。だが神崎は沈み込まず、隣へ明るい笑みを向けた。
「神崎イサナです。こちらこそ、よろしくお願いします。初めての現場演習で緊張もありますが、お互い補い合っていきましょう」
緊張をやわらげるような穏やかな声に、間宮は驚いたように目を見開き──やがて頬を緩ませる。
「は、はい……! が、がんばります」
温度のない拒絶と、かすかな繋がりの実感。
その両方を抱えたまま、神崎は歩を進めるしかなかった。
◇
演習エリアの扉が重々しく開いた。
その向こうに広がっていたのは、廃駅を模した灰色の空間だった。
鉄骨のむき出しになった天井。ひび割れたプラットフォーム。
濃い霧がホーム全体を覆い、先の景色はほとんど見えない。
そしてその霧の底で、何かが蠢いていた。
人影とも、獣ともつかない黒い影──
液体のように形を変えながら、足元に絡みつくように、ぬるり、と滑っている。
「……空気が、重い……」
神崎が思わず漏らした声は、霧の中にすぐ吸い込まれ、かき消えた。
そのつぶやきに、後方にあるモニタールームの監視デッキから応じる声が響く。
「それが“霊圧”だ。気圧のように感じる者もいるが……本質は、もっと原始的なものだ」
声の主は黒野アイリ。
霧の上方に浮かぶように設けられた監視デッキから、彼女は冷ややかに三人を見下ろしていた。
足元から、じわじわと霊圧が染み出してくる。見えない手で肺をつかまれているような圧迫感。
空気のすべてが「ここは生者の来る場所ではない」と告げている。
それでも神崎は一歩を踏み出す。
霧の中に、足音だけがぼんやりと、沈んでいった。
黒野は演習チームには同行せず、遠隔からのモニタリングに徹するという。
調査官:佐倉、補佐官:神崎、情報課支援員:間宮、と仮定した役割でのチーム行動を、総合的に評価する。それが今回の演習内容だ。
「この霧は視界だけじゃない。精神にも干渉してくる。動きは慎重に、かつ手早く。長引けば、身体への負荷も増すぞ」
佐倉の言葉に、間宮は緊張気味に頷く。さっきから何度も手にした端末の通信状態を確認していた。
やがて、佐倉の指示で三人は、廃駅の奥へと足を踏み入れた。
霧だけではなく、目には見えない何かが、確かに自分の上に“存在して”いるようだった。
そこに踏み込んだ瞬間、神崎の肩にずしりと重みがのしかかった。
冷たさが皮膚に張り付き、肺の奥まで硬く掴まれるような感覚。
身体ごと沈んでいくようで、息が浅くなる。
(……なんだこれ……? 俺だけ……?)
不安が胸をかすめた。佐倉も間宮も、特に変わらず歩を進めている。
自分だけが苦しいのか──そう思うと、余計に焦りが増していく。
「神崎さん、大丈夫ですか?」
隣で間宮が声をかけてきた。
「え、あ……はい。ただ……ちょっと、重くて」
「やっぱり」
間宮は端末の数値を覗き込み、思わず息を呑んだ。
「センサー上はまだ霊圧レベル1の波動です。でも……神崎さんは、それをもっと強く感じ取ってる」
「感じ取ってる……?」
「すごいですよ。精度は、センサーより正確かもしれない」
ひそやかな興奮と感心の滲む声。
だが直後、その評価を切り捨てるように佐倉の声が落ちた。
「──そんなもの、現場じゃただの足手まといなだけだ」
振り向きもせず、冷ややかに言い放つ。
「感じすぎる奴は怯えて動けなくなる。判断を鈍らせ、連携を乱す。……才能じゃない。ただの欠陥だ」
言葉は鋭く突き刺さった。
反射的に口を開きかけたが、神崎の喉は凍りついたように動かなかった。
(欠陥……なのか?)
(でも……確かに“ある”と、俺は感じてるのに……)
霧の冷気よりも、佐倉の一言の方がずっと重かった。
それでも足を止めるわけにはいかない。
神崎は奥歯を噛みしめ、握った拳を隠すようにして、一歩を踏み出した。
霧の重みも、佐倉の言葉も、等しく肩にのしかかっていた。