第十二話 試練の朝
朝の冥府は、やはり静かだった。
けれど昨日とは、ほんの少しだけ違っていた。
神崎イサナは時間通りに目を覚まし、制服の裾を整える。
鏡の前で寝癖が立っていないことを確認し、深く息を吸った。
(……よし。今日は、絶対にやらかさない)
張りつめた胸の内にそう言い聞かせる。まだ落ち着かない気持ちは残っていたが、それでも昨日よりは前に進めそうな気がしていた。
「押人、準備できた?」
「んー……あー、うん。今日って“本試験”だよな。内容は相変わらず非公開ってやつ」
「逆にこわいよな……」
小声で言葉を交わしながら、ふたりは寮を出る準備を整えた。
玄関に出ると、神崎の足が止まる。
扉脇に立つ長身の男。寮監・阿傍。
今日も無表情のまま、まるで建物と一体化した柱のように立っていた。
(……昨日は完全にスルーしてたな、俺)
思い出したように、神崎は軽く会釈し、声をかける。
「おはようございます!」
空気が一瞬止まった。
阿傍はわずかにまばたきをする。表情は動かない。だが、その細かな揺らぎを神崎は見逃さなかった。
(今……驚いた?)
隣の押人が目を丸くし、小声でささやく。
「……あの人に“おはようございます”って言ったの、お前が初めてだと思う」
「えっ?」
「だってさ、門番みたいに立ってるから……正直、こえーし」
「真面目に仕事してるってことだろ? って、門番の押人がそれ言う?」
「それな。……俺、初対面のときスマホいじってサボってたじゃん。あのあと先輩にめっちゃ叱られたんだよ」
「ああ、そういえば」
二人で思い出し、苦笑する。
その笑いにほんの少し力が抜け、神崎は足を踏み出した。
◇
冥府庁の研修フロアは、薄明かりの下で静まり返っていた。
病院の待合室のようにも見えるが、そこに漂うのは張りつめた覚悟ではなく、先の見えない不安だった。
新人候補生たちは、課ごとに列を分けて並んでいる。
小さな呼吸音や足音が交差するだけで、誰も余計なことは言わなかった。
神崎はそっと押人の背を見た。
昨日までは同じ場所に立っていた仲間。けれど今日からは離れ離れ。
部署ごとに試験があるのは想定していたはずなのに、ここまで心細く感じるとは思わなかった。
やがて、自動扉が開く。
現れたのは、研修統括の初江課長だった。
のんびりした声が、場の空気を柔らかく削いでいく。
「はーい、静かにしてね。これから演習の説明をするよ」
端末をちらりと見て、気の抜けた調子で続ける。
「今回の演習は、配属予定の課ごとに分かれてやってもらう。内容は部署によって違うけど、どれも現場での危機を想定したものになるよ。……まあ、そうは言っても業務マニュアルに対応が載っているようなことだから、あまり身構えなくても大丈夫」
柔らかな口調に、逆にざわめきが走る。
神崎は喉の奥にひとつ息を詰め、拳を握った。
指先の冷たさが、緊張の深さを物語っていた。
「これから班ごとに分かれて移動してもらうよ。呼ばれた人は指示に従ってね」
名前が次々に読み上げられていく。
そして、やがて——
「チームD。調査課・佐倉調査官の指導下に、調査課の研修生・神崎、情報課の研修生・間宮。黒野調査官は両名の監察を兼任する」
(……情報課の人? そして黒野調査官の監察下……!)
胸の奥を鋭い熱が走る。
だが、その直後に耳に届いた声が、その熱を冷たい感覚に変えていった。
「黒野、集合場所はここでいいのか?」
気だるげな声。どこか聞き覚えがある。
神崎は条件反射のように顔を上げた。
——あの声だ。昨日、自分を「見込みがない」と切り捨てた声の持ち主。
飾り気のない黒髪。伏せがちな目元。
制服の着こなしは整っているのに、彼がまとう空気にはどこか“醒めた余裕”が漂っていた。
その存在感に、思わず息が詰まる。
(最悪だ……よりによって、あの人と)
喉に引っかかるものを飲み込みながら、それでも神崎は視線を逸らせなかった。