第十一話 闇に光を灯す
押人と共に寮へ向かう途中、神崎はふと思い出したように足を止めた。
「……先、行ってて。俺、ちょっと用事思い出した」
「ん? 了解ー。変なとこ寄り道すんなよ?」
軽く手を振って、押人は列についていく。その背を見送り、神崎はひとり踵を返した。
制服のポケットには、折りたたんだ一枚の紙。
初日の遅刻と違反について提出を命じられた反省文だった。
講義や試験に追われるうちに出しそびれていたが、このままではますます気が重くなる。
庁舎の回廊は、夕刻のせいか人影も少なく、蛍光灯の白が冷たく床を照らしていた。
靴音がやけに響く。まるで自分の心のざわつきを外にさらしているようで、神崎は足を速めた。
やがてたどり着いたのは、調査課の扉の前だった。
最終的に自分が配属される予定の部署——しかし今の自分には、まだ遠い場所に思える。
扉の脇に設置された庁内便ポスト。“調査課”と刻まれた投函口の前で、神崎は立ち止まった。
反省文を差し入れようとしたとき——
扉の奥から、笑い混じりの声が漏れ聞こえてきた。
「で、あの神崎ってやつ、あと何日もつと思う?」
「三日持ったら奇跡だろ。初日の寝坊に違反三連発って、笑い話かよ」
「俺なら恥ずかしくて来れねーな」
下卑た調子に、室内の数人がどっと笑った。
「それに黒野のバディだぜ? いままでまともに続いた奴がいたかって話だ」
「賭けでもするか? 初江課長にかけ合ったら倍率つけてくれんじゃね?」
どこか浮かれた空気。彼らにとっては、同僚の失敗さえ暇つぶしのネタだった。
しかし、その笑いの中で、ひとりだけ違う声音が混じる。
「……くだらんな」
短い言葉が場の温度を落とす。
その声には、その場にいる全員への冷めた嘲りが含まれていた。
「笑うだけ笑って、何もできない奴のほうがよほど足を引っ張る。口先だけで現場に立てると思うなよ」
笑っていた数人が、気まずそうに口を閉ざす。
「はっ、正論ご苦労さまってやつだな」
「じゃあ聞くけどさ──お前は見込みあると思うか? あの神崎って新人」
一瞬の沈黙。やがて、気だるげな声が落ちた。
「……見込み? そんなもんあるわけない。黒野のバディは誰も長続きしない。今のままじゃなおさらだろ」
嘲るでも、責めるでもない。ただ淡々と切り捨てる調子。
笑い混じりの言葉よりも、よほど冷たく胸に突き刺さった。
神崎の指先がわずかに震える。
それでも、反省文を投函口に差し入れ、カサリと音を立てて落とす。
言い返すこともできず、ただ背を向けようとした——その瞬間。
「——業務時間中に私語とは感心しないな」
凍りつくような声。
調査課の中が、一瞬で静まり返った。
黒野アイリ。誰に向けたわけでもないのに、確かに全員を射抜く声音。
「『闇を呪うより、ろうそくを灯せ』という言葉がある。……まだ判断には早い」
低く、冷ややかで、それでも迷いのない言葉。
神崎は思わず目を見開いた。
(……諦めるのは早い。まだ、切り捨てられてなかった)
拳を握る。静かに、固く。
(明日こそ。ここで生きるって決めたんだ。だったらやるしかない)
胸の奥で熱が反転するのを感じた。
その数分後。
調査課の扉が開き、黒野アイリが業務終わりの書類回収に現れた。
束ねられた文書の中に、不揃いな折り目の一枚が混じっている。
——反省文。
筆跡は拙く、だが力のこもった字だった。
黒野は一読し、紙を静かに重ね直す。
それは評価でも肯定でもない。ただ“記録に残す”という行為にすぎなかった。
けれど確かに、その瞬間を彼女は忘れなかった。
一方そのころ。
新人寮の一室で、神崎イサナは机に突っ伏していた。
消灯ぎりぎりまでマニュアルを開いても、文字は記号にしか見えない。
(明日は……絶対にやらかさない)
そう言い聞かせ、目を閉じる。
胸のざわつきは静まらないまま、それでもゆっくりと眠りに沈んでいった。
彼はまだ知らない。
“本試験”と呼ばれる明日が、筆記や面談で終わるはずのないことを。
——冥府庁新人研修、本当の試練はこれからだ。