第九話 冥界の昼餉(ひるげ)
午前の研修が終わり、初江課長が「昼休憩」と告げると、教室に小さなため息が一斉に広がった。
神崎イサナと春日押人は、研修室の外れにある食堂スペースへ移動し、窓際のテーブルに腰を下ろす。
「ふぅー……やっと終わった……。朝から専門用語ばっかで、脳みそオーバーヒートしたわ」
押人が椅子に沈み込み、頭をがしがしと掻く。
「“魂相互律動”とか“因果定着指数”とか、言われても全然イメージ湧かないよな」
「だよな……」
神崎はほっと息をつく。理解できていないのは自分だけではなかったらしい。
その時、くすっと笑う声が横から聞こえた。振り返ると、戸籍課の川原美弥が立っていた。
「あれ? 美弥さんも研修受けてたの?」
「はい! 同じクラスでしたね」
にこにこと頷き、彼女は空いている席に座った。
「じゃあ、美弥さんもさっきの講義聞いてたんだ」
「ええ。でも“死後適応指標”とか、言葉がいちいち物騒で……。ほら、私、まだ“死にたてホヤホヤ”なんで、あんまり実感湧かなくて」
「死にたてホヤホヤ……?」
思わず神崎が聞き返すと、美弥はてへっと舌を出して笑った。
「四十九日、明けたばかりなんです」
「お、俺も。去年の暮れに事故ってさ。ようやくこっちの感覚に慣れてきたとこ」
押人もさらっと打ち明け、二人は「分かるー」と笑い合った。
(……そうか)
自然に笑い合うその姿を見ながら、神崎はふと自分だけ置き去りにされたような感覚を覚える。
押人と美弥は支給された食事用パックを手慣れた様子で開け、スープにスプーンを差した。
「あれ、イサナは食べないの?」
押人が首を傾げる。
神崎は少し視線を落とした。
「……別に腹減ってないし。正直、食べる気にならない」
「でも昨日から何も食ってないだろ?」
「うん……でも、ここで“食べる”のって……なんか違う気がして」
二人はきょとんとした表情で、言葉の続きを待っていた。少し迷った末に、神崎は口にした。
「“常世の食べ物を口にしたら、現世に戻れなくなる”って……聞いたことない?」
二人が一瞬だけ顔を見合わせる。笑いも茶化しもせず、ほんの少しだけ考え込むように。
「……あー、なるほど。そういうことか」
「神崎さん、……まだ、“生きてる”んですもんね」
その言葉に、神崎の胸がびくりと跳ねた。
押人が肩をすくめる。
「俺はもう完全に“こっち側”の人間だからな。験担ぎとかは気にしたことなかった。ほんとのところは分かんねーけど」
美弥も首を傾げる。
「確かに不思議ですよね。もう餓死の心配はないのに、ここに来てからも食べるって」
「何となくの習慣だろな。俺ら、まだ“昼だから飯”って、現世の感覚に縛られてるだけだよ。今朝も食べ損ねてショック!とか思っちゃったし」
押人が笑い、神崎もつられて笑いかけたが、その笑みはすぐに薄れた。
(……二人が生きてる人間っぽく見えるのって、“死んだばかり”だから……?)
感情が豊かで、会話に抑揚があって、冗談も通じる。
——けれど、ここには黒野や寮監のように感情の見えない存在もいた。
(あの人たちは……“死んで長い”から?)
「神崎さん?」
美弥が首を傾げる。
「……なんでもない」
神崎は笑顔を作った。
けれど胸の奥に、冷たいものがひとつだけ残った。
彼らはもう“こちら側”。
自分だけがまだ、“生きている”。
ただの事実。
それなのに、想像以上に重たかった。
結局、神崎は何も食べなかった。けれど腹が減る感覚すら、どこかへ置き忘れてきたみたいだった。
それでも、ほんの少し安堵する。
——無理に食べなくてもいい。そう思えた瞬間、心がふわりと軽くなった。
空腹感なく動けることに対して違和感はある。
けれど。
(……俺も、少しずつ馴染んでいくんだ。たぶん、確実に)
そう思った途端、胸の奥に氷がひとつ落ちた気がした。
現世にいた頃には当たり前だったものが、音もなく失われていく。
まるで、常世の食べ物を口にして帰れなくなった者のように。
——黄泉戸喫。
その言葉だけが、静かに胸に響いた。
◇
食堂の壁に取り付けられたアナウンス機から澄んだ音色が流れる。
「ピンポンパンポーン。午後の研修は十三時より再開します。各自、時間厳守で所定の教室へ戻ってください」
短い事務的な放送。だがそれだけで空気はぴんと引き締まった。
「……行くか」
押人が食器を片付け、ぼそっと呟く。
神崎も無言で頷き、立ち上がった。身体は重い。それでも後戻りはできない。
——午後の研修が、もうすぐ始まる。