プロローグ
京都の夏は、じわじわと意識の輪郭を削ってくる。
蒸し風呂みたいな空気が肌にべったりとまとわりつき、蝉の声は鼓膜の奥で何重にも折り重なって響く。
風が吹いたところで、わずかに熱をかき混ぜていくだけだった。
八月初旬。釜蓋朔日。
地獄の釜の蓋が開く日――そんな話を、いつかどこかで聞いた気がする。けれど、それが誰だったのか、いつだったのか、その記憶だけがうまく思い出せない。
いや、思い出せないのは、それだけではなかった。
神崎イサナには、そういう記憶の“欠け”がいくつもある。
物心ついたときにはもう東京にいた。でも、それ以前のことは、まるで霧の向こう側に沈んでいる。
――例えば。
誰かに手を引かれて暗がりを歩いていた気がする。
灯籠の明かりが、闇の向こうでふわふわと揺れていた気がする。
それが夢だったのか、現実だったのか。もう、自分でも判別がつかない。
「……おい、そろそろ行こうぜ」
ふいに肩を叩かれ、思考が現実に引き戻される。
振り向くと、杉本が額の汗を手の甲でぬぐいながら立っていた。顔全体で“暑い”を主張している。隣では田嶋が退屈そうにスマホをいじっていた。
「ごめん、もうちょいだけ……」
「“もうちょい”が一時間前から続いてるんだけど。せっかくの京都旅行で寺巡りばっかって、お前さあ……どういうつもり?」
「いや、寺とか神社って京都っぽくて良くない? 風情あるし」
そう言って、神崎はいつもの調子でゆるく笑う。
強引さと無害さのちょうど境目のようなその笑い方を、杉本はよく知っている。ずるい。けど、なんとなく憎めない。付き合わされてるのに、いつの間にか“自分が選んだ”みたいな気分にさせられる。それが神崎の印象だった。
「まあ……分からんでもないけどさ。清水寺とか伏見稲荷みたいな王道ならまだしも、選ぶとこがほんと通好みすぎなんだよな」
今日のルートは、賀茂神社、崇道神社、六道珍皇寺。
いずれも観光マップの隅に小さく載ってるような、“その筋”で知られた寺社だ。
けれど神崎は、霊感があるわけでも、オカルトやホラーに傾倒しているわけでもない。強いて言えば、大学のゼミで民俗学を専攻しているくらい。
幽霊や妖怪の話も「信じるっていうか、いたら面白いよね」程度のスタンスで、そのくせ怖い映画は苦手という、ちぐはぐなタイプだった。
――それでも。
このあたりを歩いていると、なぜだか懐かしいような感覚に陥る。
瓦の焼ける匂い、石畳の隙間にひそむ苔の湿り気、どこからともなく漂ってくる線香の香り。そうしたものひとつひとつが、神崎の内側を静かにざわつかせる。
(知ってる気がする。けど、知ってるはずがない)
「それにしても暑いな」
「だろ? もう行こうぜ」
杉本の言葉に頷きながら、神崎はポケットからペットボトルを取り出し、ぐいっと水を一口だけ飲んだ。
陽射しを受けた髪が、汗に濡れた部分だけ白金色に光って見える。
杉本が少し眩しそうに目を細めて、何となく尋ねる。
「なあ、お前のその髪、地毛だっけ?」
「うん。たぶん。染めたことないし」
「マジか……光のせいか、いつもより銀っぽく見えてビビるわ。目の色もさ、ちょっと青みがかってるよな」
「目の色はよく言われる。ハーフ?って聞かれがち」
「で、実際どうなの」
「たぶん、違うと思う。けど、自分でもよく分かんないんだよね」
そう言って、神崎はあっけらかんと笑った。
出自の話になると、決まってこうだ。知らない。思い出せない。
けれど、その空白を気にしている様子はまったくない。ただ、そういうふうに“抜けている”だけのこと。あっさりと受け入れられている空白。
杉本は「へえ」と曖昧な相槌を返しながら、まだスマホの画面に夢中な田嶋の肩を軽く小突いた。
「で、次はどこ?」
「六道の辻」
「……名前からして不吉すぎるんだけど」
「地獄の入り口らしいよ」
「いやいや、やっぱヤベーとこじゃん、それ!」
杉本が顔をしかめると、田嶋もようやくスマホから目を上げて、「お前ほんと、そういう話好きだよな……」と半ばあきれたように呟いた。
普通なら、そんな場所にわざわざ行こうなんて思わない。
でも、神崎には妙な引力がある。何かに導かれているような、理由や説明もないのに“ここにいるべき”雰囲気をまとっている。
「お願い、あと少しだけでいいからさ。後でアイス奢るから!」
両手を合わせて、にこっと笑う。
無邪気で、ちょっとずるくて、でも全然嫌味じゃない。その笑顔を向けられて、断れる人間は、少なくともこの二人の中にはいなかった。
「……ほんと、お前そういうとこ卑怯」
杉本がため息をついて、タオルで首筋を拭いながらうなずく。
「まあでも、奢ってくれるなら付き合ってやるよ」
「俺、辻利の抹茶パフェね」
田嶋も続ける。
「いやそれ、アイスっていうかパフェじゃん」
「細かいこと言うなよ。“奢る”って言ったのお前だしな?」
「……あーもう。分かったよ。じゃ、それでもいいから、行こう?」
神崎の言葉に、ふたりは顔を見合わせ、軽く苦笑した。
「夕方までだぞ。夜は飲み行くんだからな」
「はいはい、了解!」
神崎が軽やかに歩き出す。
その背中を、杉本と田嶋がなんだかんだ言いながら追いかける。気づけば、結局また完全に彼のペースだ。断ったはずが、もう歩いている。それが神崎イサナという男だった。
――そのとき。
耳の奥で、チリン……と、小さな鈴の音が聞こえた気がした。
風が流れ、空気の層がふっとめくれ上がる。
誰かの声が、遠くから呼びかけてくるような気配がした。
けれど、振り返る前に、その感覚は音もなくすうっと消えていく。
現実がふと裏返り、音もなく、別の風景の底へと沈んでいった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
ただの京都旅行だったはずの物語が、少しずつ現実の輪郭を歪めはじめました。
神崎が「なぜ、この場所に惹かれるのか」──その理由は、この先で明かされていきます。
もし気になったら、ぜひもう少しだけ、お付き合いください。
ちなみに、京の老舗のお茶屋さんと言えば辻利も好きですが、伊藤久右衛門もおすすめです。京都へ行かれた際はぜひ!