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すれ違い夫婦はメモで事件を解決します

すれ違い夫婦はメモで事件を解決します~1・全裸殺人事件~

作者: 出雲ノ阿国

 「ただいまー」


 都内の運送会社でトラックドライバーとして勤務する広田研人は、自宅に入ってそうつぶやいた。返事はない。真っ暗な部屋に灯をともし、素早く作業着を脱ぐ。年の瀬が迫った12月20日。身体の芯から凍るような寒さを堪えつつ、急いで暖房を入れる。


 広田研人、32歳。運送会社勤務のしがないトラックドライバーだ。都内のマンションで妻と二人で暮らしている。千葉に生まれて東京の大学に進学。そのまま東京で就職し、大学時代の同級生と結婚した。

 

 妻とは共働きで子供はいない。よって金銭的にはある程度の余裕はある。ただ、共働きが故に家事は分担しなければならない。もっとも研人はそれに文句を言うつもりはない。なんなら18歳から一人暮らしをしているので、家事にはもうすっかり慣れた。今も手際よく自分の夕飯を準備している。ピーマンを半分に切ってわたを取り、細切りに。タマネギも皮をむいて細く切る。キャベツと豚肉は一口大にカット。


 しかし、研人は今の生活に一つだけ不満があった。それは妻とのすれ違いだ。いや、仲が悪いという訳ではない・・・。たぶん。すれ違いというのは物理的なものだ。彼の妻、広田茜は塾講師として働いている。共働き故のすれ違い。今や日本の夫婦でも共働き世帯は増えている。ならば研人が不満を覚えるのはお門違い。

 これがただの共働きだったらそう言えるだろう。ただ、研人の職業はトラックドライバー。朝早くに出勤し、帰ってくるのは夕方頃。そして茜の職業は塾講師。昼頃に出勤し、帰ってくるのは夜遅く。つまり、二人は平日、物理的に会うことが出来ないのだ。研人が出勤する時間は茜はまだ就寝中。帰宅する時間ではまだ就業中。茜が帰ってくる夜11時頃は、翌朝3時起きの研人はもうベッドの中。二人が顔を合わせるのは土曜日茜が起き出す昼頃から日曜日研人が就寝する9時頃までの約一日半しかないのだ。そして今日は木曜日なので茜はまだ仕事中だ。


 おかげで最近はその土日でも会話が減ってきたような気がする。普段会わない分、どう接すればいいのか分からなくなりつつある。キャベツ、タマネギ、ピーマン、そして豚肉を炒めながら研人は思う。俺たちはこのまま、いわゆる仮面夫婦のようになるのだろうか、と。それこそ大学時代は共通の趣味であるミステリー小説の話題があった。同じ小説を読みながら二人で協力して事件を解き明かすのがなにより楽しかった。しかし仕事が忙しい今、小説を読む時間なんてない。


「はぁ・・・」


 研人はため息をつきながら、野菜炒めを皿に移す。白飯は冷凍していたものを電子レンジで温め、味噌汁は昨日の残りーー。と思ったが、茜が出勤する前に平らげたらしい。仕方なくインスタントの味噌汁で妥協することにした。

 少し憂鬱な気分になりながら研人は夕食を食べ始めた。そう言えば、野菜炒めを作りすぎた。茜の分を差し引いてもまだ多い。まあ明日の朝食にするか。


ピンポーン


 なんとなくつけたテレビをぼんやり見ながら夕食を食べていると、不意にチャイムが鳴った。宅配便だろうか。しかし何か頼んだ覚えはない。なら茜だろうか。そう思ってインターホンを覗くと、見知った顔。


「・・・何の用だ?」


「まあまあ。そう言わずに開けてよ」


 画面越しにそんな声が聞こえた。研人としては別にこのまま追い返してもいい相手。嫌いだから、という理由ではなく、そういう対応が出来るほど気心が知れた相手、という意味だ。しかしまあ特に追い返す理由もないのでエントランスの鍵を開けてやる。

 しばらく部屋で待っていると、部屋のインターホンが鳴った。はいはい、と腰を上げて鍵を開け、ドアを開く。そこにいたのはインターホンに写っていた顔。


「久しぶり、兄さん」


 広田勇樹。研人の5つ離れた弟だ。


「どうしたんだ?俺が何かやらかしたか?」


「もー。せっかくかわいい弟が様子を見に来てあげたのに。その言い方はないでしょ」


 かわいい弟、と自称するが、実際見た目ではそう見える。未だ大学生と見間違えられるほどの幼い顔立ちに、色白の肌。人の警戒心を和らげるような柔和な笑みは普段の仕事でもさぞかし役立つだろう。目つきの悪い、油断したらすぐひげが伸びてくるむさい研人の弟とは思えない。

 ただ、勇樹はただの優男ではない。警視庁捜査一課に勤務する、現役バリバリの刑事なのだ。その華奢な外見とは裏腹に、普段は血なまぐさい殺人事件を捜査している。だから研人は勇樹が訪れるときには若干の緊張感を覚えるのだ。刑事としての仕事で訪れたのではないか、と。


「相変わらずの一人メシ?義姉さんは遅いの?」


「ああ。普段は11時頃に帰ってるみたいだな。俺はその時間はもう寝てるからよく分からんが」


「ふーん」


 勇樹はそういうと、鼻をヒクヒクさせた。そしてフライパンに残る野菜炒めをめざとく見つけ、


「兄さん。これ食べていい?」


「・・・好きにしろ」


「やったー」


 勇樹はいそいそと皿を出し、自分の分をとりわけ始めた。これで研人の朝ご飯はなくなった。そして、こいつなにしにきたんだ、と思いつつ、やはり血を分けた弟の訪問をどこか喜ばしく感じた。


「で、お前。今日は仕事はいいのか」


「今日は非番だよ。だから遊びに来たんじゃん」


「さいですか」


 現職の刑事が仕事中に訪れる。それはあまり喜ばしいシチュエーションではない。よくて事件の証言を求められる。最悪は容疑者として扱われることになる。しかし今日は単に遊びに来ただけらしい。それに研人は内心ほっとした。

 二人で夕食を食べつつ、しばしたわいもない会話に興じた。最近元気か、田舎の両親に電話してるか、そう言えば日本サッカー代表が・・・。茜とのことを考えて憂鬱になっていた研人にとってはありがたい訪問だった。


「そう言えば兄さん。今でもミステリーは好き?」


 唐突に勇樹がそう問うた。研人は高校生の頃からミステリー小説が好きだ。きっかけはポワロだったか。以降シャーロック・ホームズ、明智小五郎、金田一耕助、その他現代のミステリー作品まで、幅広く読んだものだ。そして妻である茜と仲良くなったのもミステリーがきっかけだった。


「・・・どうしたんだ?」


 ただ、研人としてはなぜ勇樹がそんな質問をしてくるのか分からない。若干の不審さを抱きながら聞き返すと、勇樹は実は、と言いながら鞄から紙の資料を取り出した。


「兄さんに見てもらいたいものがあって」


 俺に会いに来た目的はこれか。研人はそう思いつつ、好奇心に負け、その資料を受け取った。パラパラとめくってみる。それは10枚ほどの紙で、びっしりと文字が書き込まれている。さながら短編小説のようだ。


「実は僕は今ある殺人事件の捜査をしていてね。その概要だよ」


「お、おまっ。そんなの。俺に見せてもいいのかっ」


 勇樹の説明に、あやうく研人は資料を落としそうになった。守秘義務の観点からして、いくら家族とは言え部外者にみたらダメだろう。慌てて返そうとするが、勇樹は大丈夫、と言った。


「個人情報とかは変えてるし、本当に漏らしたらだめな情報は省いてる。だから問題ない」


 そういう問題じゃないだろう。研人はそう言いかけたが、


「まあ僕が書いた小説だと思って読んでみてよ」


 にこにこ顔の勇樹にそう言われ、言葉を飲み込んだ。こいつはいつもそうだ。その笑顔でいつも自分の要求を通してきた。子供の頃だって、俺がほしかったお菓子は買ってもらえなかったのに、勇樹がお願いするといつも買ってもらっていた。美人は得だと世間ではよく言うが、イケメンだって得なのである、ともたざる側の人間である研人は思う。


「僕たちは今その事件を捜査してるんだけど、難航しててね。よければ兄さんの知恵を貸してほしいなー、なんて」


 勇樹はぺろっと舌を出してあざとく言う。その顔は、しかし兄である研人いは通じない。通じないが、資料を返そうとはしなかった。別に勇樹にほだされた訳ではない。ただ、ミステリー好きの血が騒いだのだ。


「・・・分かった。とりあえず読むだけな」


「わぁ!ありがとう兄さん」


 研人がそう言うと、勇樹はぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。まったくこいつは・・・。刑事よりホストの方が向いてるんじゃないだろうか。もっとも、兄としては刑事として働いてくれる方が安心なのだが。


「じゃ、今日はお暇するよ。またね」


「あいよ。気をつけろよ」


「はーい」


 野菜炒めをフライパンにきっちり一人分残してあとは全部平らげた勇樹。茜の分を残したつもりなのだろう。イケメンな上に気遣いも出来るときた。これであいつが仕事一筋じゃなければどれほどモテただろう。

 研人はそう思いながら風呂のスイッチを押し、沸くまで暇つぶしで勇樹が残していった資料に目を通し始めた。




☆☆☆




「おはようございます」


 勇樹は現場に張り巡らされた黄色い規制テープをくぐり、彼の上司である林警部に挨拶する。林育三は今年50歳のベテラン刑事。大柄でひげ面という一見怖そうな見た目だが、性格は温和。面倒見もよく、後輩からは慕われている。


「おお、広田」


 林は勇樹に気付くと、さっそく事件現場に案内しつつ、あらましを説明する。通報があったのは12月15日。都内のアパート。主に単身者が住む小さなアパートだ。その201号室の住人である黒田太一が殺害された。年齢は24歳。都内の会社に勤める一般的なサラリーマンだ。第一発見者は彼の母親である黒田一恵(53)。息子の部屋を訪れた一恵が死体に気づき、通報して事件が発覚した。


 勇樹は林に案内されて事件現場であるアパートの一室に入った。廊下を歩き、リビングに入る。ワンルームマンションらしくベッドも置かれていた。そして死体はそのベッドの近くに、頭から血を流して転がっていた。そして、勇樹は思わずぎょっとした。全裸だったからである。

 そんな勇樹の様子をよそに、林は淡々と状況を説明する。


「部屋は荒らされた形跡もなく、鍵穴も壊されていなかった。よって、犯人は身内の可能性が高い。死因は後頭部からの失血死。鑑識は死体の状況から12月14日午後9時から12月15日午前2時の5時間のうちに殺害されたとみている。ただ・・・」


「ただ?」


 林はそこで一旦言葉を切った。林は大事なことを言うとき、一度言葉を切る癖がある。ただ、それはもったいつけよう、という見栄ではなく、相手の印象に残るように、という林の気遣いであることを勇樹は知っている。


「これはついさっき私も聞いたんだが、死亡推定時刻は12月15日の午前0時から午前2時にまで絞れるそうだ」


「へぇ。そのとある理由とは?」


 勇樹が尋ねると、林はこっちだ、と案内した。それは玄関と死体があった部屋をつなぐ廊下から分岐するように設置された、お風呂だった。カゴには脱ぎ捨てられたラフな部屋着が一色、浴槽にはなみなみとお湯が張られている。


「この風呂の水だよ。鑑識によると、どうも温度からして黒田太一氏が殺害されたのは午前0時から午前2時の間になるらしい」


「お湯の温度、ですか」


「そうだ。見ろ。被害者は裸だろう?そして、風呂にはお湯がたまっている。つまり彼は風呂をあがってすぐに殺害されたんだ。それで、水の冷え具合からすると風呂は午前0時ごろに沸かされたと鑑識が言うんだ」


「なるほど・・・」


 このクソ寒い季節だ。風呂が沸くのを全裸で待つとは思えないし、風呂上がりで長時間全裸でうろうろするのも考えられない。つまり彼は風呂をあがってすぐ殺害された。その風呂は午前0時に沸かされたと鑑識が報告したようだ。ならば午前0時以降に殺害されたと考えるのが妥当だろう。


 そして事前の取り調べの結果、容疑者として浮上しているのは3人だ。


「一人目は、第一発見者の母親の黒田一恵。ここから4~5キロ離れた一軒家で夫と二人暮らしだ。二人目は弟の黒田誠太。ここから歩いて15分ほどのアパートで一人暮らしをする大学生だ。三人目は恋人の加藤京子。年齢は被害者と同じ24歳で、群馬のアパートで一人が暮らしだ」


「警部。その夫は容疑者から外れるんですか?」


 勇樹はふと気になったことを聞いた。同居する母親が容疑者でありながら、その夫は容疑者ではないことに疑問を抱いた。

 しかし林はそうだ、とばかりに頷いた。


「彼は今東北に出張中だ。昨日12月14日から今日15日にかけては仙台のビジネスホテルに宿泊している。いくらなんでも、東北から人を殺すことは不可能だ」


 林の説明を聞いて、勇樹はなるほど、と頷いた。それならば父親が容疑者から外れるのも頷ける。他にも被害者の友人や同僚も出張や旅行、徹夜での飲み会によってアリバイが証明されたそうだ。そして残ったのは三人。母親と、弟と、恋人。容疑者は全員被害者と関係が深い人物ばかり。殺人事件では珍しくないが、やはり気が滅入ってしまう。


「で、現場に来てなにか気になったことはあるか?」


「そうですね・・・」


 勇樹は林に促され、改めて被害者が住んでいた部屋をぐるっと歩いて回る。間取り自体はどこにでもある普通のアパートの一室だ。玄関から廊下が延びており、その途中にお風呂やトイレの水回り、奥に居住スペースがある。


「あー。男の一人暮らしにしてはきれいな気がします」


 勇樹は自分の部屋を思い返しながらそう言った。自分の部屋は服は散らかっているし、玄関は砂利だらけだし、ベッドはしわだらけだし、部屋の隅にはうっすらほこりがたまっている。多忙な刑事だから、という言い訳がギリギリ許されないレベルで汚いのだ。

 一方被害者の家はそれとは対照的。一見して掃除が行き届いているのが分かるし、モノも散らかっていない。本当の同じ独身男性の一人暮らしか、と疑いたくなるレベルだ。


「被害者は結構なきれい好きだったようだ。それは彼の母親も弟もそう言っていた」


「そうなんですか」


 そういう性格ならば仕方ない。これは被害者の方がむしろ特殊なのだ。決して自分がずぼらなのではない。勇樹はそう自分を甘やかした。


「他にはあるか?」


「え、と・・・。凶器は?」


「あの机に頭を打ち付けたことが死因だそうだ。見ろ。血で汚れているだろう?」


 林が指さす先にあったのはノートパソコンが置かれたデスクだった。食事をとるテーブルとは別の、なにか作業する用の茶色い机だった。その角がべっとり血にまみれている。被害者はどうやらここに頭をぶつけて亡くなったらしい。


「となると、もみ合いの末頭を打ち付けて亡くなった可能性がありそうですね」


「ああ。被害者と何らかのトラブルを抱えていた者が犯人かもしれない。容疑者の三人には集まってもらっている。署に戻って事情聴取をするか」




 林と勇樹は署に戻った。ここから個別の事情聴取だ。まずは被害者の弟である黒田誠太から。髪を茶色に染め、耳にはピアスをつけた派手な出で立ちの男だった。その誠太に、まず勇樹はこう切り出した。


「誠太さん。あなたは昨日の深夜から未明にかけて、どこで何をしていましたか?」


「またっすか!刑事さん!俺を疑ってるんっすか!?」


 勇樹の質問に誠太はいらついたように答えた。これはよくあることだ。身内が亡くなった上に、犯人扱いされるのだから。しかし勇樹も仕事である。誠太を上手くなだめつつ、情報を聞き出さなければならない。


「まあまあ。落ち着いて。あくまで形式的なものですよ。我々も聞かないわけにはいかないんでね」


「まったく。昨日はずっと家にいたっすよ。夜7時頃から、朝大学に行く9時頃までね」


「それを証明することはできますか?」


「むりっすよ。なんせ一人暮らしなんでね」


 まあ確かに深夜の一人暮らしでアリバイを主張できることも、それはそれで違和感がある。吐き捨てるような誠太の言い方にはイラッとしたが、勇樹は気持ちを落ち着けて質問を続ける。


「そうですか。ちなみにあなたはお兄さんを殺すような人に心当たりはありますか?」


「さあ。知らねえよ。お袋とはよくケンカしてたけどな。仕送りしろとかなんとか。ケンカの弾みでやっちまたんじゃねえのか?」




「うぅ。太一ぃ。どうしてぇ」


 黒田一恵は泣き濡れていた。涙と鼻水でメイクが崩れるのもお構いなしだ。まあ無理もない。自分の息子が殺されたのだ。勇樹だって今までこういった被害者の嘆きは何回も見てきた。そんな人達に取り調べをするのも最初は嫌だったが、今はある程度受け流せるようになってきた。


「お母さん。お辛いところ申し訳ありませんが、少しお話を聞かせていただいてもよよろしいでしょうか」


 それに、この人が犯人でこれが演技だという可能性もある。そうである以上、しっかり取り調べなければならない。すると一恵は勇樹の言葉にかっと目を見開いて叫んだ。


「刑事さんっ。太一はきっとあの女に殺されたんですっ!」


 その勢いに驚きつつ、勇樹は一恵に問う。


「お母さん。落ち着いて、あの女、とは?」


「加藤京子とかいう女ですよっ!あの女、太一を財布としか見ていなかったんです!だからきっと太一が別れようとしたのに激高して太一を殺したんですよ!」


 その言葉に反応したのは林だ。身を乗り出して一恵を促す。


「それは本当ですか?」


「えぇ。本当ですとも。だって太一が言ってましたもの!デート代にお金がかかるからお母さんたちに仕送りは出来ないって。きっとあの女が太一をそそのかして仕送りさせないようにしてたんだわ!その分自分が好きなものを買ってもらうために!」


 誠太の話だと、被害者と母親は仕送りでもめていたらしい。奇しくもそれは母親自身の口で証明されたことになる。そう言えば、自分は恋人もいないのに両親に仕送りもしていないな、と思った勇樹だったが、慌てて頭を振って目の前の婦人の話に耳を傾けた。


「そ、そうですか・・・。ちなみにお母さんは昨日どこでなにを」


「まぁ!またその質問!私を疑ってるんですの!?」


「い、いえ。お母さんの無実を証明するために聞いているんです」


「昨日はずっと家にいましたよ。それで、先ほども申し上げましたが主人と電話はしましたわ。夜10時から1時間ほど」




「加藤さん。あなたは黒田太一さんと恋人同士だったんですね」


 最後は被害者の恋人、加藤恭子だ。黒髪を長く伸ばした清楚な美人だが、今は憔悴しきったようでその美しさも損なわれているような感じがする。


「そうですね。もう付き合ってかれこれ3年にはなると思います」


「あの、こんなこと聞くのは失礼ですが、被害者とトラブルになったことは・・・」


「別れ話というか・・・。遠距離恋愛は大変だねっていう話はしたことがありますけど。やっぱりお互い社会人ですから、平日なんかは気軽に会うのは難しくて。まあ東京と群馬だから土日には会えるんですけど、それでもやっぱり・・・」


「なるほど・・・」


 その言葉に勇樹はドキッとした。脳裏にとある夫婦が浮かんだからだ。それは兄である研人とその妻の茜。彼らは同居する夫婦でありながら、仕事の都合で顔を合わせるのは週末の土日の限られた時間のみ。ちょうどこのカップルと同じような状況だ。


「どうした?広田?」


「い、いえ。何でもありません」


 勇樹は首を振って兄夫婦を頭から追い出した。今は彼らの夫婦仲を心配する時間じゃない。事件を解決しなければならないんだ。


「被害者と金銭面でトラブルになったことは?」


「金銭面?それはありません。お互い社会人の一人暮らしですから、相手の懐具合は分かります。どちらかの負担にはならないようにしていました」


「そうですか」

 

 母親の話だと加藤京子は被害者を財布扱いしていたと言うが。加藤が嘘をついているか、それとも被害者が母親の仕送りを断る口実にデート代を利用していたか。今のところは判断がつかない。


「ちなみにあなたは昨日の深夜から未明にかけて、どこでなにをしていましたか?」


「先ほども言いましたが、夜の12時頃だと思います。家の近くのコンビニには行きました」


 その一言に勇樹は驚いた。それが本当ならアリバイが証明されたことになる。どうして教えてくれなかったんだ、と勇樹は林を見る。するとその林も目を見開いていた。


「あ!そうでした!それは群馬のコンビニですね!?」


「え、ええ。アリバイになるかは分かりませんが」


 どうやら林も頭から抜けていたらしい。もっとも死亡推定時刻が午前0時からに絞れたのはついさっきだから、仕方の無いことでもあるが。


「・・・分かりました。あとでそのコンビニに問い合わせます。あと、被害者とトラブルになっていた人物に心あたりはありますか?」


 一歩事件が進んだ気がする。そう思いながら勇樹は聞いた。すると加藤は言いづらそうにしつつ、こう告げた。


「えっと・・・。あの。弟の誠太くんなんですけど」


「はい」


「太一から聞いたんです。誠太くんから金の無心されていたそうです。毎週のように家に来てはお金をせびってくるって。理由を聞いたらギャンブルでお金がなくなったらしく。さすがにそれでは貸せないと怒っていました」




 捜査本部が置かれている会議室に戻ると、勇樹は林から尋ねられた。


「広田。どう思った?」


 どう思った、とは誰が怪しいか、だろう。勇樹は頭を整理しつつ上司の質問に答える。


「三人とも動機はありそうですね。金銭トラブル、加藤の場合は痴情のもつれなども。ただ、加藤はアリバイがありそうですけど」


「そうだな。深夜0時頃に群馬のコンビニにいたのなら犯行は無理だろう」


 被害者が殺されたのは午前0時から午前2時頃だ。0時頃に群馬にいたのなら、そこから電車で東京には来られない。タクシーだとしても3時間近くかかるだろうから不可能だ。つまり、加藤のアリバイは証明されたことになる。


「加藤がシロか。となると、その加藤が言っていた被害者と弟の金銭トラブルは信憑性がありそうですね」


「そうだな。金の無心に来た弟と風呂上がりの被害者が鉢合わせ、そのままケンカになり、もみ合いの末、黒田太一氏は殺害された。これなら十分つじつまは合う」


 というわけで、勇樹たちは弟を中心に捜査を再開した。


 しかし決定的な証拠をつかめぬまま、捜査は難航している。




☆☆☆



「いや、分かるか」


 研人は資料を読み終わり、一人でそうつぶやいた。研人はただのミステリー小説が好きな会社員である。難事件を解決するような名探偵ではない。弟が何を期待したか知らないが、これだけで事件の真相なんて分かるはずがない。


「風呂にでも入るか」


 ちょうど風呂が沸いたようだ。服を脱いで、洗濯カゴにぶち込む。湯船につかりながら研人は思考を巡らせる。ミステリー好きである以上、ズバッと犯人を言い当てる名探偵に憧れる気持ちはある。だがいくら考えてもなにも思いつかない。どうやら研人は残念ながら名探偵ではなかったらしい。

 しかし冬のお風呂は気持ちいい。仕事の疲れが溶けていくようだ。あと一日。明日が終われば土曜日だ。さっぱりした気持ちで風呂を上がり、脱衣所へ。


「さむっ」


 冬の風呂の難点は、脱衣所の寒さだ。元々の寒さに加え、身体の表面の水分が蒸発してさらに寒くなる。慌ててタオルを取って、まず頭をゴシゴシと拭きく。


「ーーあ!」


 そこで、はっ、と。脳裏に思いつくものあのがあった。研人は身体を拭くことも忘れて脱衣所を飛び出し、リビングに向かった。そして近くにあったメモ用紙に思いついたことを急いで書き留めた。


 


☆☆☆




「ただいまー」


 広田茜。32歳。塾講師として都内の学習塾に勤務している。大阪に生まれて東京の大学に進学。そのまま東京で就職し、大学時代の同級生と結婚した。現在はその夫である広田研人と二人暮らしだ。


 とはいっても、夫は「おかえり」と出迎えてくれない。茜の方が先に帰ったから、という訳ではない。むしろ研人はもうとっくに帰宅している。それなのに出迎えがないのは、朝が早い研人はもう寝ているからだ。彼はトラックドライバーとして勤務しており、午前4時にはもう出勤しているはず。そしてその時間は、夜が遅かった茜はまだ夢の中である。


 研人と茜はとにかく時間が合わない。平日顔を合わせることはない。会えるのは土曜昼から日曜夜まで。そんなミニ織り姫と彦星みたいな生活を結婚してから、いや、恋人のときから続けている。

 茜としては、会えるなら会いたい。少なくとも最近まではそう思っていた。しかし最近は・・・。週末になっても特に話す話題がない。嫌いになった訳ではないし、離婚したいと思っているわけでもない。ただ、ちょっとしたマンネリというか、距離が空く分、今更話すこともないというか。とにかく、そんな感じなのだ。


 別に結婚したことを後悔しているわけでははない。家事も積極的にやってくれる。今日だって野菜炒めを作って私の分を残しておいてくれている。なんだが廊下が濡れているのだけは気になるが、まあ掃除に手が回らないことだってあるだろう。それには目をつぶるとして、茜は思う。なにかお互いの刺激になる出来事があればいいのかもしれない、と。


 まず茜はスーツを脱いだ。ジャケットとスカートはハンガーに掛け、ストッキングを脱ぎ捨てる。シャツは洗濯カゴに投げ入れ、ジャージを引っ張り出して着込む。風呂に入るまでスーツでいれば着替える回数は減らせるが、茜は窮屈なスーツが嫌いである。そのため帰宅後にスーツを脱いでジャージに着替えるのである。そしてそのままキッチンに向かい、野菜炒め入りのフライパンに火を掛けた。


「ん?」


 そこで茜は、テーブルに紙の束が置いてあるのに気付いた。最初は夫の仕事の資料かと思ったが、どうも違うらしい。温めた野菜炒めとチンした冷凍ご飯を皿に盛り付けつつ流し読みすると、なんともきな臭い匂いがした。

 少々お行儀は悪いが、夕食を食べながら資料を読み込んでいく。どうもそれは殺人事件の様子を描いた文章らしい。しかも登場人物には広田勇樹という、義理の弟が登場する。


「小説かしら」


 元々ミステリーに興味があった茜である。研人と仲良くなったのもお互いミステリー好きというのがきっかけだった。これがフィクションであれノンフィクションであれ、しばらくミステリーと触れ合った茜にとって、読まないという選択肢はなかった。




「うーん。分からないわね」


 読み終わった茜は悔しそうにつぶやいた。茜はもともとただのミステリー小説が好きな一般人である。事件の内容を聞いて真相を言いあてる切れ者の名探偵ではない。ただ、好きなだけに分からないことにも悔しさを感じる。と、


「?なにかしら」


 ひらり、と一枚のメモ用紙が落ちた。紙束に挟んであったものらしい。この癖のある筆跡は夫のものだ。そこにはこう書いてあった。




 洗濯カゴ

 →被害者は風呂上がりではない

 →よって犯人は恋人の加藤京子

 →ただ、アリバイが崩れない




「ふーん。研人は加藤恭子が犯人だと思ってるんだ」


 どうしてそう思ったのか分からないが。洗濯カゴから何が分かるんだ。

 そう思いつつ、茜はその前提で考えてみようと思った。加藤京子にはアリバイがある。午前0時に群馬のコンビニにいたというアリバイが。これを崩してみよう。なぜ加藤が怪しいか考えるより、アリバイ崩しの方がおもしろそうだから。

 群馬から東京まで、電車で2時間はかかるだろう。タクシーでも三時間か。しかも深夜だと電車はもう無くなっている。とすると、他の手段が?もちろん新幹線もないだろうし、自転車、徒歩なんてもってのほかだ。どこでもドアは論外だし。


「うーん」


 どうにもいい考えが思い浮かばない。どうやっても加藤には犯行には不可能のように思える。弟の捜査が難航しているならむしろ母親の方を捜査しろ。そういうふうにすら思えてくる。弟もそうだが、母親の家も徒歩圏内だし、アリバイもないし。


「悔しいけど、わからないわね」


 茜は諦めてお風呂に入ることにした。風呂の追い焚きボタンを押す。茜は冬の風呂が好きである。凍えた身体に熱々のお湯がしみわたるあの感覚が大好きなのだ。だから設定温度も研人よりも高くして追い焚きをした。


「ーーあ!」


 そこではっ、と思いついた。そうだ。そういうことか。茜は研人が書いたメモの裏に、思いついたアイデアを書き留めた。





☆☆☆




 翌朝3時。研人が起きると、例の資料が机の上に無造作に置かれていた。どうやら片付け忘れたらいい。一応デリケートな情報もあるから、出しっぱなしはまずかったかと思い拾い上げようとした。すると、一番上にメモ用紙が置いてあるのに気付いた。昨日自分が書いたものだ。しかし、研人が気になったのは、その裏。新たに妻の筆跡でこう書かれたあった。



 

 高温に設定して沸かしたか、鍋でお湯でも沸かして入れたか

 9時頃に殺害して、熱湯を入れたら風呂の温度はごまかせる

 →よって加藤京子のアリバイは崩れる




 それは研人が悩んでいた京子のアリバイ崩しのトリックであった。


「ああ、そうか」


 妙に納得する説明だった。そして同時にそれを自分が思いつけなかった悔しさも感じる。しかしともかく研人は早速メモの両側を写真に撮り、弟に送った。本当に加藤京子が犯人かは分からない。ただ、自分たちの推理が少しでも捜査の役に立ちますように。そう思って。




☆☆☆




「おはよー」


「おはよ」


 土曜日のお昼12時頃。あくび混じりの茜が起き出した。夜が遅い茜は必然就寝時間も遅くなる。昨日も寝たのは深夜2時だ。そして今日は仕事が休みの土曜日。目覚ましを掛けないという贅沢をした茜が起き出したのは一日の半分が過ぎた時間だった。


「コーヒーでもいれるか?」


「ありがと」


 既に起きていた研人がそう言うと、茜は少し驚いた顔をした後、お礼を言った。珍しい。研人がそんなに優しくしてくれるのっていつ以来だろう、と茜は思った。


「いただきます」


 ふぅふぅ、と息で冷ましながらコーヒーをいただく。寝起きで冷えた身体に熱いコーヒーが染み渡り、身体が覚醒する感じがする。とても贅沢な気分だ。


「そうそう。勇樹から連絡があった。加藤京子の自宅を調べたところ、被害者の血の付いた服が出てきたってさ」


「ん?」


 研人に言われて、茜は一瞬なんのことだか分からなかった。言葉に詰まると、研人はあの事件のことだ、と補足した。


「あ、あれって本当の事件だったの?」


「なんだ。知らないで読んでたのか?」


「いや、まあ。なんとなくおもしろそうだなって思って読んだだけよ。それで思いついたことをちょちょっとメモに付け足しただけなんだけど・・・」


 茜としては面白半分で読んでいただけだ。それが本当に起こった事件で、しかも解決に役立ったと言われてもにわかには信じられない。


「結局あれは加藤京子が犯人だったらしい。真相も俺たちが見抜いたとおりだったって、勇樹がお礼を言ってたぞ」


「へぇ。よかった。あれでよかったんだ」


 茜はただ思いついた考えをメモに書き留めただけである。それが真相であるという自信も無かった。しかしそれが正解だったと知ると、うれしさよりもまず驚きの感情が先に芽生えた。

 その様子を見て研人は茜に言う。


「ああ。じゃあ答え合わせでもしよう。お互い何を思ってどう考えたのか」


「そうね」


 実際研人たちはあの事件について話し合うのは初めてだ。だからお互いどう考えてメモを書いたのか分からない。そしてこういう感想戦は久しぶりだ。研人も茜も胸が高鳴るのを感じた。

 まず切り出したのは茜だ。


「どうして犯人は加藤京子だと思ったの?」


「まず、被害者は風呂上がりでは無いと思ったんだ」


 話し始めてすぐ、茜は研人の答えに待ったをかけた。


「そう。そこよ。どうしてそう思ったの?」


 被害者は全裸で、脱いだ服は洗濯カゴに、湯船には水がたっぷり入っていた。どう見ても風呂上がりである。メモには洗濯カゴと書かれていたが、それがどうつながるのだろか。

 すると研人は得意げな顔になった。茜にとってこんな研人の顔を見るのは久しぶりだ。


「カゴだよ。そこには服しかなかった。風呂上がりならあるべきものがなかったんだ」


「なにそれ?」


 研人はにやっと笑った。そのどや顔にイラッとしつつ、茜は咲きを促す。しかし研人にとっても、ここは醍醐味である。もったいつけるように、ゆっくりと口を開いた。


「タオルだよ」


「タオル?」


「ああ。身体を拭いたタオルだ。もし風呂上がりなら、カゴの中は、底に脱いだ服、その上にタオルがあるはずだ。カゴに入れる順番的にな。ところが資料には、カゴには服がある、としか書いていなかった。本来なら真っ先に目に付くはずのタオルがなかったんだ」


 風呂上がりに気付いた時には興奮して一目散にメモに書いたな、と研人は笑って言った。茜は少し眉を上げた後、ああ、と納得した。研人の言うとおり、カゴにタオルがなかったのは不自然だ。ただ、茜は反論を試みる。意地悪ではなく、穴を探すのは事件解決のために必須の作業である。


「でも、もしかしたら自然乾燥かもしれないじゃない」


「この真冬にか?そうでなくても被害者はきれい好きなんだ。部屋が濡れるようなことは嫌うはずだ」


 実際、被害者の部屋はきれいだったし、彼の母親も息子はきれい好きだったと証言している。それを思い出し、茜は納得した。


「ああ、そうか。なるほどね。それがどうして加藤京子につながるの?」


 洗濯カゴにタオルがなかったことは納得した。ただ、それがどうして加藤京子が犯人につながるのか。茜が問うと、研人はまた話し始めた。研人の気分はもうすっかりよくなっている。


「被害者は風呂上がりではない。とすると風呂に入ったというのは犯人の偽装だ。では、なぜ風呂上がりだと偽装する必要があったのか。それは、被害者が全裸だったからだ」


「全裸だったらなにか困るの?」


「ああ。裸族でも無い限り、人間が全裸になる状況は限られる。風呂の前後か、もしくは、恋人との情事か」


「あ!」


 そこで茜はピンときた。その反応に研人もうれしそうな顔をする。


「そう。おそらく情事の途中にもみ合いになり、頭を打ち付けた被害者は運悪く亡くなってしまった。そこで焦った加藤はこう考えたんだろう。情事の途中で殺されたと思われてはまずい。そうすると、疑われるのは恋人の自分だからだ。しかし死体に服を着せることは難しい。そこで思いついたのが、風呂上がりだと偽装することだ。だから脱ぎ捨てた服を洗濯カゴに入れ、風呂を沸かしたんだ。ただ、タオルを入れ忘れたことが失敗だった。そこで俺は風呂が偽装だと気づき、逆にそうする必要があるのは恋人の加藤京子だけだ、って逆算したんだ」


 カゴに入っていたのは部屋着だから被害者が裸族ってわけでもないだろうしな、と研人は付け加える。

 

「そういうことね」


 茜は合点がいったようにうんうんと何度も頷いた。研人はそれを見て得意げな気持ちになった。そして忘れていた気持ちを思いだした。そう言えば昔、茜を自分の推理で納得させることがなにより楽しかったっけ、と。

 そして今度は研人が茜に問う。あの風呂のアリバイトリックについてだ。


「次は俺の番だ。お風呂のお湯。あれは熱湯を入れれば冷めるのに時間がかかり、犯行時間をごまかせるってことだな」


「そうね。単純に言うと、お湯が10℃になるのにかかる時間が、元々40℃なら6時間。元々60℃なら9時間だとする。なら午後9時に60℃のお湯をセットすれば午前0時に40℃のお風呂を空かしたのと同じ状況が作れるってわけ」


 まあ私は理系の知識が無いからお湯の冷める時間は適当だけどね、と付け加えた。茜は塾講師ではあるが、担当は国語。バリバリの文系である。


「お風呂だとどうしても元々温度は40℃くらいって先入観があるからな。まさかそれより熱いお湯を入れてるとは思わなかった」


 午前0時から午前2時という犯行時刻はあくまでお湯の温度から導き出したものだ。そこには、お風呂のお湯は40℃という前提が隠れていた。しかしその前提が崩れると、その犯行時刻の推測は意味を成さなくなる。死体の状況から導き出した、午後9時から午前2時こそが正しい犯行時刻なのだ。


「彼女なりのアリバイ工作だったんでしょうね。実際、それはうまく行って、刑事の目をごまかせた。そして一度は容疑者から外れることが出来た」


「ああ。だが実際、9時頃に被害者を殺害し、風呂上がりの偽装。そこから群馬に戻り、12時頃に自宅近くのコンビニに顔を出すことは可能だ」


 殺害後の偽装にかかった時間も考慮し、午後10時に東京駅を出発したとしよう。それでも午前0時前に高崎駅に着くことは可能である。そこからコンビニに顔を出せばアリバイの完成である。


「彼女の敗因は、私たちがいたことね」


 茜は微笑みを浮かべながら言った。そんな風に柔らかく微笑む姿を見るのは研人にとって久しぶりだった。だから研人も釣られて顔がにやけてしまう。


「はっはっは。名探偵広田夫妻ってか」


「ふふっ。おおげさね」


 実際に事件の真相を見抜き、解決した。それはミステリー好きの二人にとってはたまらない快感であり、大きな自信になった。そして二人でミステリーについて語り合ったのも久しぶりだった。そういった喜びを分かち合い、二人でしばし笑い合った。


「ところで、研人?」


 しかし、平和な時間は長くは続かなかった。


 ひとしきり笑い合った後、そのままの笑顔で茜が研人にそう言った。顔は笑顔だが、しかし、目だけが笑っていない。


「な、なんですか、茜さん」


 底知れぬ恐怖感を覚えた研人は背筋を伸ばした。茜の目が光った気がした。


「あの日廊下が濡れてたのは・・・」


「あっ」


 洗濯カゴの違和感に気付き、我を忘れて飛び出したんだった。身体を拭かないまま・・・。当然、廊下はびしょ濡れである。

 つぅ、と研人の背中を冷たい汗がしたたり落ちた。


「もう!汚したら、ちゃんと掃除しなさい!」


「・・・すまんっ!」


 怒る茜と謝る研人。広田家には茜の説教する声が響き渡った。


 しかしどちらの口元にも、ほんのり笑みが浮かんでいた。

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