花水木( ち )
春も盛りだ。
暖かな日差しが庭じゅうに降り注ぎ、地の草は一本一本に至るまで、光を浴びて波打っている。
硝子戸を開け放つと、心地好い風が、部屋の隅々まで満たす様に入り込む。表では雀や四十雀が頻りにさえずり返り、時折、山鳩が悠然とした鳴き声を響かせる。一頭の蝶が庭へやって来て、その羽をチラチラと瞬かせながら草花の間を飛び回る。
長閑やかな四月の昼下がり。今日は火曜。もうそろそろ、あの子がやって来る頃だ。
そう思った所へ、間合い良くいつもの車が門の前へ停まった。
そら、やって来た。私は硝子戸を閉じると、心持はいそいそと、けれど足取りは一歩一歩踏みしめる様に、ゆっくりとインターホンへ向かった。
そうしている間に呼び鈴が鳴る。それもいつも通りだ。
だけれども、画面に映ったのは、私の知っているあの子ではなかった。
そこへ立っていたのは、見知らぬ、ひょろっとした、すました女だった。年の頃はあの子より少し若い位か。小さな画面だから、それ以上の事は分からない。兎に角、あの子じゃあない事だけは間違いない。
女は急に口を開き、何か一所懸命に喋り出した。それが余り早口で捲し立てるものだから、何を言っているのか分かりやしない。私はどうしたものかと押し黙る。
そうすると女は、今度は急に口調を変えて、幼子に言い聞かす様に、間延びした声でこう言った。
「ちとせ訪問介護ステーションのー、たーまーがーわと申しますー。研修中の尾崎に代わってー、本日よりお伺いしましたー」
研修だって? 私は首を捻る。そして先週のあの子とのやり取りを、朦朧とした記憶を頼りに、何とか思い出そうとする。
――研修ったって、もうベテランさんじゃない。本当はどっか、具合でも悪いんじゃないのかい?
――違う違う、今時はほら、資格がどうとか、色々と面倒だから。そうでもしないと、あっという間にクビになっちゃうんだもの。来週からは、代わりの子が来るから――
アア! そうだった! あの子もそんな事を言っていたじゃないか!
まったく、だったら最初からそう言っておくれよ。そう独り言ちながら私は、大慌てで玄関口へと向かった。
◇
名刺を受け取り、老眼鏡をかける。ホームヘルパー、玉川照夜。
名前に夜なんて漢字を入れるのは、今の時分じゃ珍しくも何ともないのだろうか。夜の仕事じゃあるまいに。
「すまないねえ。尾崎さんもよくよく説明していってくれたんだろうけど、なにせこっちは八十幾つのバアさんなものだから」
私がそう言うと、その玉川というヘルパーさんは、
「とんでもないです。ご迷惑をお掛けしているのは、こちらの方ですので」
と、すました調子で答えた。
私は老眼鏡を外し、その顔を見る。先刻思った通り、すましたお嬢さんだ。目鼻立ちは整っていて、器量よしには違いないが、つんと外方を向かれている様な、そんな素っ気ない印象を受ける。
いつも来てくれていたあの子は、このうら若いお嬢さんよりも少しばかし年嵩だが、容姿端麗な上に愛嬌があって、あちこちに目配りの出来るヘルパーさんだった。このお嬢さんは、あの子とは随分違った感じの様だ。
それに、このお嬢さんは随分と華奢な体つきをしている。制服の白いポロシャツから伸びた腕はうんと細くて、一寸力を加えただけでへし折れてしまいそうだ。ヘルパーなんて、年寄りの身体を起き上がらせたり、オシメを変えたりするんだろうに、こんな体でやって行けるのかしら。
あの子はふくよかという訳ではないけれども、もっとどっしり構えた安定感があって、多少体を預けたって、ビクともしなそうだったというのに。
まあ幸い私は、まだそういう事まで頼むには至っておらず、洗濯やお掃除や買い物なんかの為に、週に二回、こうして来て貰うだけで済んでいるのだけれども。その他の身の回りの事は、思う様に動かない体を引きずりながら、何とか一人で遣り繰りできている。
「尾崎が研修で不在の一ヶ月間は、代わりに私がお伺いしますので、どうぞ宜しくお願いします」
週に二回が一ヶ月間、計八回このお嬢さんの世話にならなきゃいけない訳か。どうせたった八回じゃあ、碌に慣れもしないまま過ぎてしまうだろう。
さて、当のお嬢さんは、さっきから手元の帳面を見るのに忙しそうだ。引き継ぎ事でも書いてあるのかもしれないが、ちょっとはこっちを見たらどうだろう。
それにしても、このお嬢さんはどうして、この大人しさでヘルパーになんかなったのだろう。どうしてこの若さで、年寄りを相手にする仕事に就いたのだろう。
「ねぇ、お前さん……」
けれども先方は、帳面を見るのに忙しいのか、こちらの声には気づきもしない。少しばかし経って、ハッと気がついた様に顔を上げ、
「はい、何でしょうか」
と今更ながらに尋ねる。
「いいや、何でもないよ。邪魔して悪かったね」
私は首を振った。
「とんでもないです。何かあれば、いつでも仰ってください」
彼女は馬鹿丁寧に、他人行儀にそう答えた。そして、帳面を閉じると立ち上がった。
「では、まずはお洗濯からですね。洗濯機はどちらですか?」
どうやら、世間話もそこそこに仕事に取りかかる様だ。
けれども、そのなりはここに来た時のままだ。あの子はいつも仕事に取りかかるときは、シャツの上からピンクの前掛けをつけていた。彼女はそういうのはしないのだろうか。そのまま掃除や洗濯なんかして、白いシャツが汚れてしまわないだろうか。
方や足元を見ると、そちらは趣味の悪そうな、黄緑色の靴下を穿いている。そっちは自前なのだろうが、他所のうちに上がるんなら、靴下こそ白か、それか黒やベージュやなんかの落ち着いた色にしたらどうだろう。
彼女はこちらの頭の内を知ってか知らずか、作った様な笑顔で、こちらの方をジッと見ている。やれやれ、ここでお小言を言ったって仕方ない。私はどっこいしょと立ち上がる。
「洗濯機はこっちだよ」
◇
「洗剤と柔軟剤は、この棚だよ」
「分かりました。漂白剤は、使ってますか?」
「んなもん使っちゃいないよ」
今の人は、普通のお洗濯でもそういうのを使うのだろうか。まったく、今の人はやれ除菌だのやれ漂白だの、忙しいことだ。
「洗濯ネットに入れるものはありますか?」
「そういうのは、もう用意してあるから。とにかく回してくれればいいよ」
「分かりました。ええと、これが電源で、こっちがスタートボタンですね。コースはこのままでいいですか?」
「そんなの一度だっていじった事ないよ。そのまま始めて頂戴な」
やれやれ、今の人は一から十まで説明しないと、仕事を始めてくれやしない。昔はよく「一を聞いて十を知る」と言ったものだけど。この次は居間に戻って、お掃除の説明をしなきゃならないというのに。
「えっと、すみません。洗剤が置いてあったのって、どちらの段でしたっけ?」
先に居間に戻っていようかと思った矢先、彼女に尋ねられる。見ると入れ終えた洗剤やらの容器を、棚のどこの段に戻すかで逡巡している様だ。
「ああ、これはね」
説明するより先に手が動いて、私は彼女が持っていた洗剤を手に取る。そこで気づく。容器がもう、随分と軽い。
「じきに中身がなくなるね。ちょっと悪いけど、新しいのに詰め替えて貰えないかね」
「分かりました」
本当はこういうのも、そっちから言ってきてほしいのだけど。私はそう思いながら、洗面台の下にある、替えの洗剤を取ろうとしゃがみ込む。しゃがんでからシマッタと思う。
脱衣所の奥の、この狭い場所にしゃがみ込むと、這う様に床に手をつかないと立ち上がれない。そんな見苦しい姿、出来る事なら見せたくない。折角お手伝いに来て貰っているのだから、替えを取って貰うのだって、彼女に頼めばよかった。本当に、口より先に体が動いてしまうんだから。
しゃがんでしまった以上は、もう仕方ない。私は洗面台の下の戸を開けて、替えの洗剤を探す。
けれどもそれが中々見つからない。シャンプーや風呂掃除の洗剤なんかの替えはあるのに、肝心の洗剤が、いくら探しても見当たらない。切らしてしまったのだろうか。いや、そんな筈は。ついこないだの買い物の日に、あの子に頼んで買ってきて貰ったばかりなのに。しかし、年寄りの「ついこないだ」は当てにならない。それもとっくの昔に、使い切ってしまったのかもしれない。
私が一所懸命探している間、彼女はうんともすんとも言わない。手伝いましょうかなんて、言ってもくれない。段々と腰も痛くなってきて、私は諦めて戸を閉めると、両手をついて立ち上がる。
「悪いね。どうやら切らしてる様だ。まあ、あと一、二回分位はあるだろうよ。今度の買い物の日に、一緒に買ってきて貰う様だね」
「分かりました。買い物のときって、いつもメモか何か書かれてますか?」
彼女は両手の人差し指で、四角い紙きれを表す様なゼスチュアをして訊く。
「ああ、そうしてるけれど?」
「そうしたら、そこへ一緒に書いておいてください」
なんだ。そっちで控えておいてはくれないのか。どうせ買い物に行くのは彼女本人だというのに。メモ一つ残しておくのなんて、若い人には何でもない事だろうに。
本当に気の利かない人だ。
その後も彼女は、掃除機の扱い方やコンセントの場所、動かしてほしくないものなんかを事細かに確認し、やっと掃除が始まった頃には、私の方がすっかり疲れ切っていた。
私は居間の椅子にどっかと座ると、ぬるくなった茶を啜る。
やれやれ、これじゃあ何のためにお手伝いに来て貰っているのか分からない。こんな調子で、この先大丈夫かしら。
けれどもそれは杞憂だった様で、一度仕事を始めてしまえば、彼女の仕事ぶりはソツがなさそうだった。掃除機は部屋の隅までピッタリと当てているし、椅子やなんかもきちんと退けて、下の方まで掃除している。それでいて動きに無駄がないから、別段時間がかかってしまうという事もなさそうだ。うちの娘なんかよりも、よっぽど出来がいい。
問題は、愛想と気配りか。いつものあの子は、掃除をしながらも時々手を止めて、こっちの調子を気にしたり、他愛もない話をしてくれたのだけど。
彼女は今、こちらなど見向きもしないで一所懸命に、お勝手の引敷に掃除機を当てている。ちょっと話しかけてやろうかと思ったけれど、掃除機はガラガラと音を立てているし、どうせ気がつく訳がない。
まったく。あの子との週に二回の世間話が、惨めで侘しい晩年の、数少ない愉しみだったというのに。
私は、壁に掛けた七曜表を見上げる。そしてまた、茶を啜った。
仕方ない。ほんの一ヶ月の辛抱だ。
次回は、5月2日(金)18時頃の更新予定です。




