椿( し )
起きると寒い。
エアコンを入れると、室外機がものすごい音を立てる。でも、このエアコンは、16度までしか下げれない。
セーラー服を着るとき、一瞬むわっと、汗くさいにおいがする。前回洗ったのが、いつかは知らない。
私は、ゴミをまとめて、コートを着て、マフラーをする。それからリュックをしょって、エアコンと電気が消えているのを確かめて、ドアを開ける。
「あら。おはよう、ミルちゃん」
ユキさんが、ゴミ袋を持って出てくるところだった。
「おはようございます」
私はあいさつする。
ユキさんは、お隣さんだ。一人暮らしの、大学生のお姉さん。最近朝、私が出かける時間と、ゴミを出す時間がよくいっしょになる。
「今日も、寒いね」
にっこり笑って、ユキさんは言う。内巻きのきれいな髪が、少し揺れる。
「そうですね」
わたしは答える。そして、2人で 階段を下りる。ユキさんが先、私が後。
ゴミ出しのときいつも、ユキさんは、コートの代わりに大きなストールを背中にはおっている。ピンクっぽい赤の、きれいな色。
その背中を見ながら、私は下りていく。コンコン、トントンという音が響く。
「今日は金曜日だね。今日行ったら、お休みだね」
「はい」
「まあ、お休み中の私が言うのも何だけど……」
階段を下りると、ユキさんはゴミ捨て場のフタを開ける。今日はもえるゴミの日。下の階の人たちがもう先に捨てていて、ゴミ箱を開けると、すーっとにおう。
順番にゴミを捨てて、私がフタを閉める。
「それじゃあ……」
私が行こうとすると、ユキさんは口を開く。
「――ねえ、ミルちゃん」
「はい」
「お母さん、具合はどう?」
私は答える。
「変わらずです」
「……そっか。早くよくなるといいね」
カラスが一羽、カアと鳴いた。
◇
ユキさんとはじめてちゃんと話したのは、お母さんが入院した日のことだった。
お母さんはその日、いつもより少し遅くお仕事から帰ってくると、玄関でそのまま、倒れこんでしまった。
私は、あわてて救急車を呼んで、救急車はすぐ来てくれたけれど、だけど私は、どうしていいか、本当にわからなかった。
私は本当に、何も知らなかった。救急車は信号を無視してまで来るくせに、来てからは病院を探すのにうんと時間がかかることも、お母さんに「かかりつけ」のお医者さんがあるかどうかも、お薬用の手帳というのがあることも、何にも知らなかった。
玄関のドアを開けたまま、救急隊の人がいろいろしてくれて、私が何もできないでいるときに、ちょうどユキさんが帰ってきた。
ユキさんは私に、病院に持って行った方がいいものを教えてくれたり、大丈夫だよと励ましたりしてくれた。
そうしている間に病院が決まって、救急車に乗りこむとき、ユキさんは言った。
「私も行こうか?」
私は答えた。
「大丈夫です」
それじゃあといって、ユキさんは私に、小さなメモを渡してくれた。
そこには、電話番号といっしょに、「タニベユキ」と書いてあった。
◇
「――それでね、ユキさんの学校、もう春休みなんだって。おかしいよね。2月なのに春休みなんて」
私がそう言うと、お母さんは少し笑って答えた。
「大学は、みんなそうなのよ」
「変なの。だってまだ、全然春じゃないじゃん」
「そうね。春なんてまだ、全然先なのにね」
お母さんはそう言って、遠くの方を見た。
6人部屋の病室の、いちばん廊下側のベッドが、お母さんのベッドだ。向かいのおばあさんは、いびきをかいて寝ている。隣のおばさんは、今は検査でいないみたいだ。
「……みっちゃんは、大学って行ってみたいって思う?」
「ぜんぜーん。高校だって行くのめんどいし。卒業したらバイトしちゃだめかな」
私は、ぽったんぽったんと落ちる点滴の薬を見ながら言う。
「だめよ。高校くらいは出ないと。じゃないと、お母さんみたいになっちゃうわよ」
「お母さんみたいになれるなら、私、高校行かなーい」
「もう、みっちゃんったら」
お母さんは、困ったように笑って、私もイヒヒと笑う。
「そういえば、ユキさんって今、何年生なんだっけ」
お母さんが聞いた。私は首をかたむける。
「さあ、知らなーい」
「確か……みっちゃんが6年生になるときに越してきたのよね。だから今、3年生かしらね」
「そっかー」
「就活とか、忙しいころなんじゃないかしら。あんまり頼っちゃ、悪いわね」
「シューカツかー。そんなこと、全然言ってなかったけど」
「昔と違って、今はまだ時期じゃないのかもね。でも、あんまりお世話かけてばかりじゃだめよ」
「わかってるって」
ぽったんぽったんと落ちる薬が、だんだんとゆっくりになる。そして止まる。
ピロリ、ピロリ、と点滴の機械が鳴る。点滴が終わった合図だ。
「看護師さん、呼んでくるね」
私は、そう言って立ち上がった。
◇
何回見ても、残高の数字は変わらない。
増えるわけないってわかっているのに、病院に来ると、いつもATMを見に、病院のコンビニに入ってしまう。
そうしてその後はいつも、うつむいてコンビニを出る。
キラキラしたお菓子やパンが、目に入ってしまわないように。
◇
病院前のバス停を、通り過ぎる。
ここのバス停をひとつぶんだけ歩くと、料金が10円、安くなる。往復で、20円。
隣のバス停までは、長い坂道だ。帰りは下り坂。斜面の影になっているから、雪かきの雪がたくさん残っていて、歩道が狭い。帰りは暗いから、特に慎重に歩く。
バス停も暗い。そしてバスは中々来ない。ずっと待っていると、首の右側が痛くなる。
しばらくして、バスがライトを光らせて走ってくる。ピピ、ピピ、と音を鳴らしながら止まる。
私はバスに乗りこんで、整理券を取る。ビーっと言って、ドアが閉まる。
私は後ろ寄りの、2人がけの席に座る。そして、隣にリュックと、洗たく物の入ったカバンを置いて、窓に寄りかかる。
バスはバス停を通り過ぎながら進む。しばらくして、高校生が何人か乗ってくる。座席には座らないで、つやつやのエナメルのバッグを床に置いて輪になる。そしてときどき、大きな声で笑う。
バスはだんだん大通りに出て、建物の明かりや、車の赤いランプが、ぼんやりと目に入る。
いつの間にか、終点に着いていた。私は列の後ろに並んで、いちばん最後にバスを降りる。
そして、駅の階段を上って、きっぷ売り場の画面に手を伸ばす。
大人1枚。
◇
アパートの階段を上ったところで、ユキさんが部屋から出てきた。朝と同じように、ストールを背中にはおっていて、手には縛った雑誌を持っている。
「明日は予定もないから、お寝坊しようと思って」
ユキさんは言った。このアパートは、24時間いつでもゴミ出しをしていいことになっている。だからユキさんは、ときどきそう言って、夜にゴミを出している。明日は第2土曜日だから、月に1度の雑誌の回収日。
「今日は、おみまいだったの?」
「はい」
「そう。遅くまで、おつかれさま」
私は小さくうなずく。
「今日は、一人で行ってきたの?」
「はい」
「そう。おばさんとは、連絡取ってる?」
「はい。明後日の日曜日は、いっしょにおみまいに行くことになってます」
「そう」
ユキさんは、そう言ってから、続ける。
「ねえミルちゃん、晩ご飯まだだよね? うちで食べていかない?」
私は首を振る。
「大丈夫です」
「……そっか。じゃあ、また今度ね」
どう返事しようか、迷っていると、ユキさんが「あ」と声を上げた。声につられて、私は顔を上げる。
「雪だ」
ユキさんの言う通り、雪が降ってきた。
「どうりで寒いわけね」
ユキさんが言って、私は急に寒くなる。
「引き止めて、ごめんね。早くお部屋入って、あったかくしてね」
そう言ってユキさんは、階段を下りていく。その後ろ姿の赤いストールと、吹きこんでくる雪をぼんやり見てから、私は部屋に入る。
私はコートとセーラー服をハンガーにかけると、給湯器の電源を入れる。
なかなかお湯にならないシャワーで足を洗って、あったまってきたお湯を頭から浴びる。お湯を止めて、シャンプーで頭を洗う。それから体を洗う。
一瞬だけ、後ろ姿のユキさんのきれいな髪が頭に浮かぶ。リンスのボトルは、ずっと空だ。
私は、髪と体を一気に流して、そのままお風呂場を出る。そして、なべにお湯とめんつゆを入れて、火にかける。
冷凍庫から、冷凍うどんを出して、なべに入れる。お麩も入れる。わいたら火を止めて、なべ敷きをテーブルに置きに行く。
カーテンのすき間から、雪が降るのが見えた。屋根も、地面も、全部に、もう雪が積もってきている。
冷たい空気が、窓の向こうから、どんどん入ってくる。つま先がなくなる。
私はカーテンを、ぎゅっと閉めた。
春なんてまだ、全然先だ。
次回は、2月27日(金)18時頃の更新予定です。
※当面は隔週更新とさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。




