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枝先の彼女【一年かけて季節を一周する短編集】  作者: 笠原たすき
椿

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34/35

椿( し )

 起きると寒い。


 エアコンを入れると、室外機がものすごい音を立てる。でも、このエアコンは、16度までしか下げれない。


 セーラー服を着るとき、一瞬むわっと、汗くさいにおいがする。前回洗ったのが、いつかは知らない。


 私は、ゴミをまとめて、コートを着て、マフラーをする。それからリュックをしょって、エアコンと電気が消えているのを確かめて、ドアを開ける。


「あら。おはよう、ミルちゃん」


 ユキさんが、ゴミ袋を持って出てくるところだった。


「おはようございます」


 私はあいさつする。


 ユキさんは、お隣さんだ。一人暮らしの、大学生のお姉さん。最近朝、私が出かける時間と、ゴミを出す時間がよくいっしょになる。


「今日も、寒いね」


 にっこり笑って、ユキさんは言う。内巻きのきれいな髪が、少し揺れる。


「そうですね」


 わたしは答える。そして、2人で 階段を下りる。ユキさんが先、私が後。


 ゴミ出しのときいつも、ユキさんは、コートの代わりに大きなストールを背中にはおっている。ピンクっぽい赤の、きれいな色。


 その背中を見ながら、私は下りていく。コンコン、トントンという音が響く。


「今日は金曜日だね。今日行ったら、お休みだね」


「はい」


「まあ、お休み中の私が言うのも何だけど……」


 階段を下りると、ユキさんはゴミ捨て場のフタを開ける。今日はもえるゴミの日。下の階の人たちがもう先に捨てていて、ゴミ箱を開けると、すーっとにおう。


 順番にゴミを捨てて、私がフタを閉める。


「それじゃあ……」


 私が行こうとすると、ユキさんは口を開く。


「――ねえ、ミルちゃん」


「はい」


「お母さん、具合はどう?」


 私は答える。


「変わらずです」


「……そっか。早くよくなるといいね」


 カラスが一羽、カアと鳴いた。


 ◇


 ユキさんとはじめてちゃんと話したのは、お母さんが入院した日のことだった。


 お母さんはその日、いつもより少し遅くお仕事から帰ってくると、玄関でそのまま、倒れこんでしまった。


 私は、あわてて救急車を呼んで、救急車はすぐ来てくれたけれど、だけど私は、どうしていいか、本当にわからなかった。


 私は本当に、何も知らなかった。救急車は信号を無視してまで来るくせに、来てからは病院を探すのにうんと時間がかかることも、お母さんに「かかりつけ」のお医者さんがあるかどうかも、お薬用の手帳というのがあることも、何にも知らなかった。


 玄関のドアを開けたまま、救急隊の人がいろいろしてくれて、私が何もできないでいるときに、ちょうどユキさんが帰ってきた。


 ユキさんは私に、病院に持って行った方がいいものを教えてくれたり、大丈夫だよと励ましたりしてくれた。


 そうしている間に病院が決まって、救急車に乗りこむとき、ユキさんは言った。


「私も行こうか?」


 私は答えた。


「大丈夫です」


 それじゃあといって、ユキさんは私に、小さなメモを渡してくれた。


 そこには、電話番号といっしょに、「タニベユキ」と書いてあった。



「――それでね、ユキさんの学校、もう春休みなんだって。おかしいよね。2月なのに春休みなんて」


 私がそう言うと、お母さんは少し笑って答えた。


「大学は、みんなそうなのよ」


「変なの。だってまだ、全然春じゃないじゃん」


「そうね。春なんてまだ、全然先なのにね」


 お母さんはそう言って、遠くの方を見た。


 6人部屋の病室の、いちばん廊下側のベッドが、お母さんのベッドだ。向かいのおばあさんは、いびきをかいて寝ている。隣のおばさんは、今は検査でいないみたいだ。


「……みっちゃんは、大学って行ってみたいって思う?」


「ぜんぜーん。高校だって行くのめんどいし。卒業したらバイトしちゃだめかな」


 私は、ぽったんぽったんと落ちる点滴の薬を見ながら言う。


「だめよ。高校くらいは出ないと。じゃないと、お母さんみたいになっちゃうわよ」


「お母さんみたいになれるなら、私、高校行かなーい」


「もう、みっちゃんったら」


 お母さんは、困ったように笑って、私もイヒヒと笑う。


「そういえば、ユキさんって今、何年生なんだっけ」


 お母さんが聞いた。私は首をかたむける。


「さあ、知らなーい」


「確か……みっちゃんが6年生になるときに越してきたのよね。だから今、3年生かしらね」


「そっかー」


「就活とか、忙しいころなんじゃないかしら。あんまり頼っちゃ、悪いわね」


「シューカツかー。そんなこと、全然言ってなかったけど」


「昔と違って、今はまだ時期じゃないのかもね。でも、あんまりお世話かけてばかりじゃだめよ」


「わかってるって」


 ぽったんぽったんと落ちる薬が、だんだんとゆっくりになる。そして止まる。


 ピロリ、ピロリ、と点滴の機械が鳴る。点滴が終わった合図だ。


「看護師さん、呼んでくるね」


 私は、そう言って立ち上がった。


 ◇


 何回見ても、残高の数字は変わらない。


 増えるわけないってわかっているのに、病院に来ると、いつもATMを見に、病院のコンビニに入ってしまう。


 そうしてその後はいつも、うつむいてコンビニを出る。


 キラキラしたお菓子やパンが、目に入ってしまわないように。


 ◇


 病院前のバス停を、通り過ぎる。


 ここのバス停をひとつぶんだけ歩くと、料金が10円、安くなる。往復で、20円。


 隣のバス停までは、長い坂道だ。帰りは下り坂。斜面の影になっているから、雪かきの雪がたくさん残っていて、歩道が狭い。帰りは暗いから、特に慎重に歩く。


 バス停も暗い。そしてバスは中々来ない。ずっと待っていると、首の右側が痛くなる。


 しばらくして、バスがライトを光らせて走ってくる。ピピ、ピピ、と音を鳴らしながら止まる。


 私はバスに乗りこんで、整理券を取る。ビーっと言って、ドアが閉まる。


 私は後ろ寄りの、2人がけの席に座る。そして、隣にリュックと、洗たく物の入ったカバンを置いて、窓に寄りかかる。


 バスはバス停を通り過ぎながら進む。しばらくして、高校生が何人か乗ってくる。座席には座らないで、つやつやのエナメルのバッグを床に置いて輪になる。そしてときどき、大きな声で笑う。


 バスはだんだん大通りに出て、建物の明かりや、車の赤いランプが、ぼんやりと目に入る。


 いつの間にか、終点に着いていた。私は列の後ろに並んで、いちばん最後にバスを降りる。


 そして、駅の階段を上って、きっぷ売り場の画面に手を伸ばす。


 大人1枚。


 ◇


 アパートの階段を上ったところで、ユキさんが部屋から出てきた。朝と同じように、ストールを背中にはおっていて、手には縛った雑誌を持っている。


「明日は予定もないから、お寝坊しようと思って」


 ユキさんは言った。このアパートは、24時間いつでもゴミ出しをしていいことになっている。だからユキさんは、ときどきそう言って、夜にゴミを出している。明日は第2土曜日だから、月に1度の雑誌の回収日。


「今日は、おみまいだったの?」


「はい」


「そう。遅くまで、おつかれさま」


 私は小さくうなずく。


「今日は、一人で行ってきたの?」


「はい」


「そう。おばさんとは、連絡取ってる?」


「はい。明後日の日曜日は、いっしょにおみまいに行くことになってます」


「そう」


 ユキさんは、そう言ってから、続ける。


「ねえミルちゃん、晩ご飯まだだよね? うちで食べていかない?」


 私は首を振る。


「大丈夫です」


「……そっか。じゃあ、また今度ね」


 どう返事しようか、迷っていると、ユキさんが「あ」と声を上げた。声につられて、私は顔を上げる。


「雪だ」


 ユキさんの言う通り、雪が降ってきた。


「どうりで寒いわけね」


 ユキさんが言って、私は急に寒くなる。


「引き止めて、ごめんね。早くお部屋入って、あったかくしてね」


 そう言ってユキさんは、階段を下りていく。その後ろ姿の赤いストールと、吹きこんでくる雪をぼんやり見てから、私は部屋に入る。


 私はコートとセーラー服をハンガーにかけると、給湯器の電源を入れる。


 なかなかお湯にならないシャワーで足を洗って、あったまってきたお湯を頭から浴びる。お湯を止めて、シャンプーで頭を洗う。それから体を洗う。


 一瞬だけ、後ろ姿のユキさんのきれいな髪が頭に浮かぶ。リンスのボトルは、ずっと空だ。


 私は、髪と体を一気に流して、そのままお風呂場を出る。そして、なべにお湯とめんつゆを入れて、火にかける。


 冷凍庫から、冷凍うどんを出して、なべに入れる。お麩も入れる。わいたら火を止めて、なべ敷きをテーブルに置きに行く。


 カーテンのすき間から、雪が降るのが見えた。屋根も、地面も、全部に、もう雪が積もってきている。


 冷たい空気が、窓の向こうから、どんどん入ってくる。つま先がなくなる。


 私はカーテンを、ぎゅっと閉めた。


 春なんてまだ、全然先だ。

次回は、2月27日(金)18時頃の更新予定です。

※当面は隔週更新とさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。

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