百日紅( な )
「明日はソフィアのさん歩、行けないかもねえ」
夜ごはんのとき、天気よほうを見ながら、お母さんが言った。台風が近づいているからだ。
でも、よほうを見ると、このへんに来るのは明日のお昼ぐらいみたいだ。しかも、ここはちょうど、よほうのあの円のはじっこくらいだった。
「朝なら、まだだいじょうぶじゃない?」
わたしが言うと、お母さんは、
「明日起きてみてだねえ」
と言った。
◇
朝起きると、雨はまだふっていなかった。テレビをつけると、台風はまだこのへんまで来ていなくて、しかも、昨日のよほうより少しズレて、ここはギリギリ通らないことになっていた。ソフィアは元気そうに、わたしのまわりをぐるぐるしている。早くさん歩に行きたいのだろう。
「やっぱり今日はやめておいたら?」
そこへ、お母さんの声がした。今日は日曜日で、土日はいつもお父さんもお母さんもまだねていて、わたしが1人で起きてさん歩に行くことになっている。でも今日はお母さんも起きてきたみたいだ。
「起きてこなくていいよう」
わたしは、お母さんをしんしつにおし返すように言った。
「だいじょうぶだよ、行ってきちゃうよ」
「でも、今にもふりそうよ」
「だいじょうぶだって。おりたたみガサも持ってるから。夜のさん歩はぜったい行けないでしょ? 行けるうちに歩かせてあげようよ」
わたしがそう言うと、お母さんは少し考えてから、
「じゃあ、おりたたみじゃなくて大きいカサにしていきなさい。それから、ソフィアにレインコート着せてあげて」
そこまでしなくていいのに。ぎゃくにレインコート着せてたらおそくなっちゃう。そう思ったけど、そうでもしないと行かせてくれなそうだったから、わたしはしぶしぶ言う通りにした。バタバタするソフィアをなだめてレインコートを着せて、わたしもバッグをかたにかける。お母さんはまんぞくしたのか、しんしつにもどっていった。わたしはテレビを消して、げんかんに向かった。
くつをはいてから、これはいらないんだっけと気づいて、バッグに入れていたおりたたみガサを、くつ箱の上においた。そして、ドアを開けると、
「ソフィア、行くよ!」
と言って、家を出た。
◇
外に出ると、外はいつもより静かで、いつもよりうるさかった。鳥が遠くでピーイと鳴いている。カラスもグェーと、さけぶみたいに鳴いている。
ソフィアはやけに、いつになくテンションが高く、あっちへうろうろ、こっちへうろうろするのをくり返している。わたしはリードをぎゅっとにぎった。
今日は日曜日だから、ふだんはゴミ出しをする人とか早くに仕事に行く人とかもいるけど、今日はそういう人もいない。他にさん歩をする人もいない。人間はわたしだけだった。
電車が走る音が、こんな所まで、ごおごお、がらがらとひびいてきている。線路は遠くなはずなのに。
なぜか、今日だったらお姉さんがノーテンキな感じで話しかけてくるのも、ゆるせそうな気がした。もう少しで、いつもの角だ。
すると、ふいにリードを持っている右手の一部分がつめたくなった。というより、つめたい何かが当たった。地面には、黒い点々ができて、みるみるうちにふえていく。
いけない、雨だ。わたしはカサをさそうと、左手を持ち上げた。
えっ、と思った。左手は、思ったいじょうに持ち上がって、何も持っていなかった。
わたしは自分のそうびをかくにんする。右手でソフィアのリードを持って、かたにショルダーバッグを下げて、そこに入れたおりたたみガサはくつ箱の上においてきて、左手に大きいカサを、持っていなかった。
うそでしょう。雨は、その間にもどんどん強くなる。
どうしよう。とりあえず雨をよけれる場所。わたしはあたりをきょろきょろと見回したけれど、どこもふつうの家だった。
どうしよう。そうだ、いつもの角を反対に曲がると、お店が何げんかある。わたしはソフィアをだきかかえると、お店の方まで走って、お店の屋根の下にすべりこんだ。
ハアハアとはずむ息がおさまると、わたしはぼうぜんと目の前を見つめた。雨はさらに強くなっていて、ごおおおという音を立て始めていた。
こんなことって、あるんだ。
こういうとき、色々なことを思いそうなものだけど、予想外のてんかいすぎて、何の気持ちにもなれなかった。ただ、雨のごう音だけで、心がいっぱいになっていた。
うでの中で、ソフィアが心配そうにこっちを見上げている。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
とわたしは言った。
そして、思い出したように、バッグからタオルを出して、ソフィアの体をふいた。レインコートを着ていたから、思ったほどはぬれていなかった。
だいじょうぶ。とりあえずここにいれば、これいじょうはぬれない。
そう思っていたら、風がふいてきた。
風はだんだん強くなって、雨がざあっと白いしぶきになる。それがだんだんとこっちの方に来る。わたしはソフィアをだいて後ろに下がったけれど、それでも自分の頭や体に雨がかかった。
いけない。このままじゃ、ここにいたってびしょびしょになっちゃう。
どうしよう。なんとかしなくっちゃ。わたしは考える。
でも、どうやって? せめてケータイがあれば、電話してむかえに来てもらえるのに。それか、心配して来てくれないかな。いや、まだねてるか。
このお店はいつ開くんだろう。こんな時間だし、もっと後だろうな。お店というか、デイサービスのしせつだし。あとはみんな、いつもシャッターがしまってるただの場所だし。昔は八百屋さんやお魚屋さんやパン屋さんだったらしいけど。ああ、パン屋さんだったら朝早くからやってたかもしれないのに。
とにかく、自分で何とかするしかない。さん歩に行くって決めたのは自分なんだから。
すると、そこへ、だれかがビチャビチャと走ってくる音が聞こえた。わたしは反しゃ的に、音のする方を見た。
だれかがこっちの方に走ってきていた。わたしと同じで、カサを持っていない。全身ずぶぬれになって走っている。長いかみの毛も、ピンク色の服も、全部びしょびしょだ。っていうか……
わたしはその人を思いきり見た。すると、その人も立ち止まってわたしを見た。
「お姉さん……!?」
思わず声が出た。
「ふみちゃん!?」
お姉さんも声を上げた。
「どうしたの!!? こんな所で!」
「ええと……ソフィアのさん歩に、カサをわすれて……」
わたしは、はずかしくてなさけなくて、答えたくなかったけれど、カッコつけるよゆうもなくて、正直にそう答えた。よく見ると、お姉さんのトートバックからは、クレープちゃんの頭がのぞいていた。お姉さんも同じか。わたしは少しほっとした。
「こんな所にいたらあぶないよ! おうち遠いの!?」
けどお姉さんは、こわいくらい真けんな顔をして言った。わたしはそのいきおいにおされて、うなずいた。遠いかと言われると、うんと遠いわけではない。けど、走って帰る勇気は出ないくらいは、ここからはなれている。
「じゃあ、うちにおいで! すぐそこだから!」
「え、でも……」
わたしは反しゃ的にそう返した。
「だいじょうぶ、ほんとにすぐだから!」
こういうとき、助かったとか、申しわけないとか、いろんな気持ちになりそうな所だけど、予想外のてんかいに気持ちが追いつかなかった。代わりに、お母さんの言葉が頭にうかんだ。
「知らない人には、ついて行っちゃダメよ」
知らない人――知らない人って?
お姉さんのことはもちろん知っている。毎朝会って話している。でも、わたしは、お姉さんのことを何も知らない。名前も、住んでいる場所も、何をしている人かも知らない。
風がまたざあっとふいて、雨がこっちまで来る。
「ほら、あぶないから! 行こう!!」
お姉さんはこっちに近づいてきた。屋根の下まで入ってくる。わたしは反しゃ的に、身がまえる。どうしよう。ついて行ってだいじょうぶ? それともやめとく? こういうとき、どうすればいい?
「こわくないから! じゃ、ほら! 手、つないでこ!」
お姉さんはそう言って手をのばす。びしょぬれの手がこっちにのびてくる。考えるヒマもない。
「ね?」
ああもう、どうすればいいの!! もう――
「――もう、ほっといてよ!!」
時間が、いっしゅん止まったみたいだった。
さけび終わってから、自分の口の形で、自分がさけんでいたことに気がついた。そして、自分の手の形で、自分がお姉さんの手をふりはらっていたことに気がついた。お姉さんは、よろよろと後ずさって、すごく悲しそうな顔をして、雨に打たれながら、
「――ごめんねっ」
と言って、去っていった。
お姉さんが行ってしまうと、わたしはその場にしゃがみこんだ。雨の音がまた、ごおおとひびく。
どうしよう。
お姉さんに、ひどいことしちゃった。せっかく親切にしてくれたのに。なのにあんな風に追いはらっちゃうなんて。あんなこと、するつもりなかったのに。どうして、あんなこと。
ああ。ていうか、今になって思いついたけど、お姉さんにケータイかりて、うちに電話すればよかったじゃん。そうすれば、ちょうどよかったのに。なんで思いつかなかったのさ。わたし、このままここでどうするの。
わたしは、どうすることもできなくて、ソフィアをむねにだいたまま、ひたすらそこにしゃがみこんだ。雨はひたすらふって、地面に反しゃした雨が顔に当たったけど、もうどうでもよかった。
どれくらい、そうしていただろう。急に、ミーンというセミの鳴き声が、大きくひびいた。
はっと顔を上げると、いつの間にか雨は弱くなっていた。これなら走って帰れる。
わたしは立ち上がると、雨にぬれた顔をぬぐって、言った。
「ソフィア、行くよ!」
◇
げんかんのドアを静かに開けると、まるでタイムスリップしてきたみたいに、くつ箱の上におりたたみガサがそのままあった。そしてやっぱり、大きいカサはカサ立てにささっていた。時計を見ると、びっくりするくらいそんなに時間はたっていなかった。永遠にあそこにいたと思ったのに。
「おかえり! だいじょうぶだった!?」
お母さんがバタバタと走ってきた。そして、わたしを見ると、
「まあ、こんなにぬれちゃって!」
と言って、タオルでゴシゴシとわたしの頭をふいた。
お父さんも起きてきて、
「こりゃあ大へんだ。おふろわかしてくる」
と言って、おふろ場に走っていった。
「大へんだったねえ。よく帰ってきたねえ。えらかったねえ」
お母さんは、わたしのせなかをふきながら、そう言った。そんな風にされて、わたしは一気にいろんな気持ちがやってきて、わたしは、お母さんのむねに顔をおし当てるように、首をふった。
「……くない、えらくないの……」
「えっ?」
「わたしが、カサ、持ってってたら……」
お母さんは、ちょっとだまった後、おどろいたように言った。
「まあ、文恵、カサ持ってかなかったの?」
「ちがう……おりたたみガサ、おいて、から、大きいカサ……」
それいじょうは、言葉にならなかった。
「そっかそっか、持ってくつもりだったのね。でもよかったよお。風強くなってきちゃったから、カサさしてたら、かえってあぶなかったもの」
「行くのも、やめとけば、よかった……台風、こんな、急に来る、なんて……」
「台風はまだ来てないけど、台風が来る前でも、こんな風に雨や風が強くなったりするのよ。お母さんも、もっとちゃんと止めておけばよかったね」
わたしは顔をぬぐった。
ホントだよ。だったら最初からちゃんと言ってよ。また言ってるよくらいにしか思わなかったじゃん。
ヤケドするよとか、ふしん者が出るとか、親の死に目に会えなくなるとか、全部同じテンションで言わないで。どれが本当かわからなくなるじゃない。
お姉さんの事も、信じられなくなるじゃない。
◇
外はすっかり晴れていた。
でもわたしは、外を見る元気もなくうつむいて、つるつるのゆかにうつるけいこうとうの光を、ぼんやりとながめていた。お母さんが取ってくれたうさぎの黄色いスリッパはきゅうくつで、井上医院と書いてある茶色い方がよかったのだけど、そんなことを言う元気も今はなかった。
「もうすぐよばれると思うからね」
お母さんが言った。わたしは、
「ん」
とだけ返した。
昨日、あの後おふろに入って、朝ごはんを食べて、気がついたら頭がぼうっとして熱が8度もあって、でもそのときにはもう台風がひどくなっていたから、とりあえずうちにあった薬を飲んでねて、それでも良くならなかったから、お母さんが朝一番でタクシーをよんでくれた。
「昨日はずいぶんぬれちゃったもんねえ。きっとただのカゼだから、お医者さんのお薬飲めばすぐに良くなるわよ」
わたしはまた、
「ん」
とだけ返す。ひらがな1文字しか言う元気がなかった。
「おじいちゃんおばあちゃんち行くまでにはなおるわよ」
「ん」
おじいちゃんおばあちゃんちのことなんて、わすれていた。そんなのまだ先だ。それよりも、気になっていることがある。
お母さんはもうそれいじょう何も言わなくて、わたしのせなかをさすってくれた。そうしてたらしんさつ室によばれて、お母さんの言う通りただのカゼで、お薬をもらって家に帰った。
それから、お薬を飲んでねて、起きてお昼を食べてまたお薬を飲んで、またしばらくねて起きたら、熱は下がっていた。
「もうだいじょうぶだから、明日はわたしがソフィアのさん歩行くよ」
夜ごはんのときに、わたしはそう言った。けれどお母さんは、
「もう1日、休みなさい。まだ鼻声よ」
と言って、きょかしてくれなかった。
わたしは、でも、と言おうとして、やめた。
「文恵。たしかにお母さん、最初にさん歩をまかせるとき、毎日ちゃんと行くように言ったけど、具合やお天気が悪いときはムリしなくていいのよ」
「わかってるよ」
「明日は、お母さんが行くから」
「ん」
明日、お母さんがソフィアのさん歩をしているのを見たら、お姉さんはなんて思うだろう。
お姉さんとの出来事は、お母さんには話していない。
◇
次の日、ねていても、そのことばかり考えてしまっていた。
お姉さんは、わたしがお姉さんと会うのがイヤで、さん歩に来なくなっちゃったんだと思ってたらどうしよう。
いや、実さいお姉さんに会うのは気が重いけど、でも、本当は、早く会って、あやまらないといけない。だって、そうしないと、夏休みはまだずっとのこってる。ずっと気まずいままじゃいられない。だって、ソフィアとクレープちゃんはなかがいいから、知らんぷりしてるわけにもいかないから。
そんなことばかり、本当は考えたくないのだけれど、どうしても考えてしまう。でも、ずっと考えてばかりもいられなくて、だんだん頭がぼうっとしてきて、気がついたら夕方で、起きたら頭はすっきりしていた。
空っぽのペットボトルを持ってキッチンに下りると、お母さんは夜ごはんの用意をしていた。
「よかった。もうだいじょうぶそうね」
お母さんは、わたしの様子を見て言った。
「うん。ヒマだから、なんか手伝うよ」
「いいのよ。まだ休んでたら?」
「いいよ。体なまっちゃうから、なんかしたい」
「そーお? じゃあ、おなべ見ててくれるかしら」
「うん」
わたしは返事をすると、プクプクにえるおなべの前に立った。お母さんは、トントンときゅうりを切っている。わたしは、タイミングを見計らって言った。
「ああ、ソフィアのさん歩とかも、明日からいつも通り行くよ」
「わかったわ。じゃあ、よろしくね」
お母さんは、そう答えた。そして、
「そういえば」
とつづけた。
「クレープちゃんだっけ? トイプードルの女の子。あの子つれてるお姉さんが、文恵のこと心配してたわよ。おじょうさん、どうしたんですかって。カゼだって言ったら、お大事にって」
「そう」
わたしは、れいせいをよそおって答えた。
「なんだか、とっても心配してくれてたわ。気にかけてくれてるのね。明日会ったら、お礼言っときなさい」
「うん」
本当は、言わなきゃいけないのはお礼だけじゃない。だけど、それはお母さんには言えない。
わたしがだまっていると、お母さんは手を止めてこっちを見た。
「ねえ、文恵。ケータイ買ってあげるって話だけど、やっぱり、夏休みの間にお店に行ってみない?」
「……おたんじょう日プレゼントじゃ、なかったの?」
「うん。だから、ちょっと早いおたんじょう日プレゼント。ほら、夏休みの方が時間もあるし。今週や来週は予定が色々あるけど、それがすんだら、見に行ってみようよ」
たんじょう日なんて、まだ2か月も先なのに。このタイミングで、いきなりそんなこと言うなんて。それが本当の理由じゃないのは、バレバレだ。
そう思ったけれど、くやしいけど、ケータイがほしいのも本当だから、わたしは何も気づかないフリをして、うなずいた。
◇
次の日の朝、ソフィアはわかってるのかわかってないのか、いつもより元気で、元気にリードを引っぱった。わたしはしかたなく、ソフィアについて行くみたいに歩いた。
昨日までは、早くお姉さんに会ってあやまらなくちゃと思っていたのに、それが実さい今日になると、もう1日くらいねておいていたかった。
でも、もうあっという間に、いつもの角になってしまった。わたしはしんこきゅうをして、その角を曲がる。
「あっ、ふみちゃーん!」
お姉さんは、今日もいつも通りにいた。いつも通りクレープちゃんをつれて、いつも通りこいピンクのワンピースを着ている。
「ふみちゃんおはよー! 元気ー!?」
いつも通り、お姉さんはそう聞いた。
「おはようございます。ええと、元気です」
わたしは答えた。そして、切り出そうとしたけど、お姉さんはつづけた。
「ゆうべも暑かったねー! ふみちゃんは、ちゃんとねれてるー?」
「はい……」
わたしは答えた。むしろ、昨日はずっとねてばっかりだった。
「そういえば、ふみちゃんはいつも何時にねてるの?」
「えっと……いつも、は、9時くらいに……」
「そっかー。朝早いもんね。じゃあ、夜ごはんは何時くらいに食べてるの?」
「ええと……」
そんな風に、いつもみたいなやり取りが、しばらくつづいた。
「――さてっ、そろそろお仕事いかなくちゃ。それじゃあ、またねー!」
そして、いつもと同じように、お姉さんは帰っていった。
だけど、わたしは、すぐには歩き出せなくて、そのままそこに立ちつくした。ソフィアが心配そうに足元をぐるぐる回る。
「ごめ……ソフィア、ちょっとだけ待って……ちょっとだけ……」
わたしは、しぼり出すようにそう言った。
そして、顔をくしゃくしゃにしながら、思った。
お姉さんが、昨日のことをすっかりわすれているような人で、本当によかった。
次回は、8月15日(金)16時頃の更新予定です。




