白木蓮( ろ )
「あのっ、今日から電話は私が出るので、私がいるときは取らなくて大丈夫です」
内田さんが入社して2日目の朝。彼女は昨日あいさつをしてくれたときと同じように、私の席のすぐそばまで来て、明るい声でそう言った。
私は座ったまま、彼女を見上げる。彼女は今日も、白いブラウスを着ていた。今日のはボウタイがついていて、彼女が動くと少し揺れる。私も今日は、ブラウス1枚にしてくる勇気こそなかったものの、モスグリーンのカーディガンを出してきた。
「分かった。こっちも助かります」
私がそう返すと、彼女は少し誇らしげな表情を見せた。
「とんでもないです。よろしくお願いします」
彼女は一礼すると、くるりと身体を回転させて、自分の席に戻っていった。
早手さんの指示なのか、それとも自ら進んで提案したのか。やる気に満ちた姿に、こちらまで背筋が伸びる。
◇
始業後少しして電話が鳴る。反射的に隣の電話機を見るが、そうだった、と思い直す。まもなく内田さんが、彼女の席のそばにある方の電話機に手を伸ばす。
「お電話ありがとうございます。六花本舗人事部、内田でございます」
まるでお店のような丁寧さで、彼女は名乗った。
「――お世話になっております。――確認いたしますので少々お待ちくださいませ」
「早手さん、すみません。大学の就職課の方からお問い合わせなんですが――」
「お待たせいたしました。総合職に関しましては、関連会社の六花コーポレーションの方で募集をしておりますので――ええと、研究職でございますか? 確認いたしま――あっ、そちらも六花コーポレーションの方で――」
私は、自分の仕事を進めながらも、耳ではなんとなく彼女の声を追ってしまっていた。
少ししてまた電話が鳴る。見慣れた番号、私宛てだ。手を伸ばそうか迷っているうちに、彼女が先に出る。
私だよ、合図しようかと思ったがやめた。それでは彼女のためにならない気がした。
「――恐れ入りますが、もう一度お名前を――アイディールオフィス様……の、ハマザキ様――あっ、ヤマザキ様! たーいへん失礼いたしました。――貝原でございますね。少々お待ちくださいませ」
私は、彼女が電話を保留にして顔を上げるまで待った。
「貝原さん、すみません。アイディールオフィスのヤマザキ様からです」
「うん。じゃあ内線4961にお願い」
「はい」
彼女が電話機を操作すると、私の席の電話が鳴る。私はそれを取る。
「…………あっ受話器マークもう1回押して」
「あっ、すみません」
彼女が再度電話機を操作して、電話が転送される。
「新しい人、入ったんすか」
山崎さんに聞かれた。私はええまあ、と答えた。
◇
電話を切ってしばらくして、背後に気配を感じた。振り返ると、彼女がメモとペンを手になにかを覗き込んでいる。
「あっ、すみません。さっき内線番号を控えてなかったので、次のときのためにメモしておこうと思いまして」
そういうことか。私は、電話機に貼ってある内線番号のテプラが見えるように体を反らしかけて、別に口頭で伝えればいいことに気づいて口を開きかけて、
「ていうか、座席表あるから、今印刷するよ」
PCに向き直った。
「あっ、すみませんお忙しいところ」
「いえいえ、これくらい」
これくらい、と言っておきながら、久しく印刷していなかった座席表のデータを、いろいろなファイルがごちゃごちゃになっている共有フォルダから探し出すのに、少し手間取っていると、
「すみません、お手間かけて」
彼女が重ねてそう言った。
「いえいえ」
私も重ねて言う。少しだけ沈黙が流れた後に、彼女がまた口を開く。
「タンブラー、かわいいですね」
彼女は、私のPC脇に置いてあるタンブラーを見ていた。
「ああ、どうも」
「私なんか、コンビニのペットボトルですよ。見習わないとです」
「まあ別に…………あ、これだわ」
やっと目的のファイルが見つかった。彼女の座席はまだ、前任者の川上さんの名前になっていた。私はそれを修正してから印刷ボタンを押す。
「お待たせ。あそこのプリンターから出てくるから」
「ありがとうございます」
そう言って彼女は、小走りでプリンターの方へ向かう。だが用紙は印刷されず、ピーという音だけが耳に届いた。
「ごめーん用紙切れだわー」私は座ったまま呼びかける。「換え方分かるー? 新しい紙、そこにあるからー」
「大丈夫ですー」
そう返ってきたので、そのまま彼女に任せることにした。用紙のセットが終わると、無事プリンターが動き出す。しかし彼女はなかなか戻ってこない。プリンターから出てきた紙を手に取っては、首をかしげてプリンターの脇のトレイに置いている。
そうしているうちに、何人かがわらわらとプリンターの周りに集まってきて、彼女がトレイに置いた用紙を、山分けするように取っていく。彼女より先に印刷ボタンを押したものの、用紙を補充する暇がなく、あるいは単に面倒で、誰かがやってくれるのを待っていたのだろう。ありがちな光景ではあるが、あまり新人に見せたいものではなかった。
「ごめんねー、ありがとう」
彼女が戻ってくると、私は声をかけた。
「とんでもないです。こちらこそ、座席表ありがとうございます」
彼女は丁寧にそう言った。
◇
次の日。
前日やり残した仕事があったのでいつもより早く会社に来ると、オフィスにはすでに、彼女の姿があった。なぜかプリンターの前にしゃがみ込んで、用紙のトレイを開けている。
「おはよう。どうしたの」
声をかけると、彼女はぱっと振り向いた。
「あっ、おはようございます。みなさんがいらっしゃる前に、用紙を補充しておこうと思いまして」
「そんな……」
そこまでしなくても……。そう思ったが、彼女があまりに明るい笑顔で言うので、私は言葉につまってしまった。すると、彼女は続ける。
「前の職場でも、いつも早めに来て、いろいろ準備してたんです。ここではこれくらいしか私にできることはなくって……」
「……そっか。前はドラッグストアで働いてたんだっけ」
確か、入社書類の前職欄には大手ドラッグストアチェーンの名前が書いてあったはずだ。
「そうなんです。あっちでは、開店前にやることがたくさんあって」
なるほど。お店なら準備することも多そうだ。その習慣が残っているというわけか。そういえば、私も学生時代、ファミレスでバイトしていたときは、開店準備が大変だったもんな。
わざわざやる気をそぐような言葉をかけるのは、やめておくことにした。
◇
「やっぱり、新しい人が入るといいわねえ」
彼女の離席中、田中さんがそう言った。
「そうですね」
私は返した。
「あの子、今時珍しいくらいしっかりしてるわ。学生時代、バレー部だったんですって。やっぱり、運動かなんかやってる人って、そういうところがしっかりしてるのかしら」
いつの間にそんな情報を。私が知らないうちに、田中さんはすっかり彼女と打ち解けているようだ。
「なんだか、こっちまで気が引き締まるわ」
田中さんはそう続けた。
気が引き締まる。たしかにそうだ。彼女を見ていると、自分もしっかりしなければと思わされる。
だが、それだけだろうか。彼女を見ていると、ほんの少しだけ、危うさのようなものを感じてしまう。自分の心まで、波立つ気がする。
心に浮かんだざわめきを、私は振り払う。
そしてまた、
「そうですね」
と返した。
次回は、3月14日(金)18時頃の更新予定です。