紫陽花( れ )
だが、運命は僕に味方するどころか、僕を試すような様相を見せた。
待ちに待っていた7月の当番表が、6月の末日になってようやく配布されたと思ったら、そこに印刷されていた僕と彼女の名前は、無残にも遠く引き離されていたのだ。
もちろん分かってはいた。2か月連続で同じ女子と当番になるなんて天文学的確率だ。それに7月はテストや短縮授業や夏休みがあって当番の機会自体が少ないのだ。なおさらその確率も狭まるだろう。だが、僕の頭を悩ませたのはそれだけではなかった。
彼女の当番の日、その名前の隣には、困った奴の名前が記されていたのだ。
それは去年僕と同じクラスだった男子生徒で、そいつは僕と同じく本が好きで、よく一緒に本の話で盛り上がるような仲だったのだが、そのくせ妙に話し上手で愛想が良いところがあって、女子からの評判も決して悪くないような奴だった。しかも僕との共通点は本好きなところだけでなく、好きな女子のタイプも似通っていて、この学校には僕らの理想とする女子がいないなどと嘆き合ったりもしていたのだ。
そんな奴が彼女とペアになったらどうだろう。すぐさま彼女に惚れ込み、巧みな話術で彼女を落とそうとしてくるのではないだろうか。そのうえ奴は僕が去年クラスでしでかした恥ずかしい失敗や、こっそり打ち明けた内緒話まで知っている。つまり、もし二人が一緒の当番になれば、奴が彼女と親しくなるだけでなく、僕の印象までも悪くされる恐れがある。
その事実は僕を恐れ慄かせ、嫉妬と焦りに駆り立てた。身体じゅうに汗がにじみ、頭じゅうにその事実が駆け巡った。湿気は汗の蒸発を許さず、雨の音は思考を奪う。雨はもはや気温を下げず、熱帯雨林のようなじっとりとした空気が僕を締め上げる。
それからの数日間、僕は教科書を見るべきところを怨念の当番表を見つめ、壊滅的な点数となった答案用紙を見るべきところを妬心の当番表を見つめていた。彼女に会いたいという欲求と、彼女を奴に会わせたくないという欲求とが、煮えたぎる業火のように僕の中に渦巻いていた。
そして、その閃きは突然訪れた。その両方を解決する策は唐突に舞い降りた。
なんだ、簡単じゃないか。僕は自分の思いついた妙案と、それを今の今まで思いつかなかった事実とに、口の両端をめくれ上がらせた。それからすぐさまスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリで奴の名を探した。挨拶とともに簡単な文章を打ちこみ、軽やかに飛び立たせた。
僕が送ったメッセージは単純だった。今度の自分の図書当番の日に、歯医者の予約が入っていた。君の当番の日と代わってくれないか。
これで、奴と彼女が一緒の当番になることが回避でき、かつ僕が代わりに彼女とペアになることができる。まさに一石二鳥だ。予定があって委員同士で当番を交換することは珍しくないし、図書委員の2年生の中では奴がいちばん親しい間柄だから、僕が奴に頼みごとをするのはまったく不自然なことではない。とりたてて不審がられることもないだろう。
間もなくして奴からは、なんの疑いも持たない快諾のメッセージが届いた。僕は小躍りするとともに、こっそりとほくそ笑んだ。
悪かったな。せっかくあんな理想的な女の子と二人きりになれる筈だったのに。この借りはいつか返そう。だが彼女は譲るものか。
それから僕は、当日彼女に会ったら僕がいることをどう説明しようか、そしてどんな話をして彼女の気を惹こうかなどとシミュレーションを繰り返しながら、当番までの数日間を過ごしたのだった。
◇
そして、待ち望んでいた当番の日が訪れた。
僕は渡り廊下を駆け抜ける。地面で弾け飛んだ雨雫が、花道の役者を祝福する拍手のように、僕の両脇を取り囲む。
僕は意気揚々と図書室に到着すると、出迎えた司書教諭に、今日僕がここへ来た表向きの経緯をかいつまんで説明した。そして外国文学の棚へ向かうと、予め目星をつけていたドストエフスキーの『罪と罰』を手に取り、カウンターへ戻ると、ライトノベルでも読むようなテンションで表紙を開いた。けれども目は活字を上滑りし、頭は彼女のことで一杯だった。
彼女は、初めて出逢った日のようになかなか現れなかった。きっとHRが長引いているのだろう。彼女は今日も息を切らしてやってくるかもしれない。そうして図書室に飛び込んできて、初めに僕の姿を目にしたら、彼女はどんなリアクションを見せてくれるだろう。いつかのようにはにかんだ顔を見せてくれるだろうか。また一緒だねなんて言ってくれるだろうか。僕は顔が緩みそうになるのを、本に意識を押し付けて堪えた。
だけど、待てども待てども彼女は姿を現さない。僕はだんだんと不安になってくる。いやいや、彼女に限ってそんなことはない。当番をすっぽかすなんて筈がない。しかし、ひとたび不安が頭をもたげると、その不安はアメーバのように拡大し、別の不安をも呼び寄せる。
そもそも彼女は僕がここにいることを、本当に歓迎してくれるのだろうか。二度も同じ男が隣に来たことへ、不信の念を抱くのではないか。僕が歯医者のくだりについて回りくどく説明したとしても、その奥にある浅はかな画策を、僕の醜い下心を、やすやすと見透かしてしまうのではないか。
或いはもう、彼女はとうの昔に、僕の心の内を見抜いていたのではないだろうか。
思えば先日の図書室での、あと一歩のところでの行き違いも、僕が運命を無下にしたものと結論づけてしまうには、少々無理がないだろうか。あのときの彼女の方向転換の奇妙に不自然なタイミングには、僕のことを避けようとする歴とした意図があったのではないか。第一あんな至近距離で、僕の接近に気づかない訳がない。彼女は僕に気づいた上で、僕の好意を知った上で、僕に対する嫌悪から敢えて僕のことを避けたのだ。
その前の彼女の当番の日の、カウンターでの素っ気ない態度だって、あれも僕が借りた本が、彼女の好みミステリと気がつかなかった訳じゃなく、単に僕と会話をするのを回避したかったのではないだろうか。
もっと初めまで遡ろう。彼女と出会った最初の日、別れ際の彼女はどうだったか。鍵を返しに行くと言った僕の提案を拒否をして、まるで何かから逃げるように、職員室へと駆けて行った。あれも思えば僕に対する拒絶の一種ではないだろうか。
僕は全身に鳥肌の立つような、ぞーっとした気持ちになってくる。オセロが一気に真っ黒に、反転されてしまうように、彼女の行動の一つ一つが、今までになかった意味を持ち始める。
しかし彼女はどうやって、僕の好意に気づいたのだ。いったいいつどのタイミングで、それを悟ったというのだろう。
僕は自らの言動を、つぶさに細かく振り返る。けれども僕はそれに対する明確な答えを得られない。そして僕は考え抜いた末、より哀しくて残酷な一つの可能性に行き当たる。
彼女はなにも名探偵のように、僕の好意を見抜いたのでなく、単に僕という人間を、陰気で不細工で女子に縁のない、気色の悪い人間を、忌避をしていただけではないか。他の図書委員の女子たちが僕にそうしたのと同じように。或いはそれより明確で、強い嫌悪の気持ちを持って。
ああいったいどうして僕は、自分の立場も弁えず、馬鹿げた妄想を抱いたのか。どうして自分が嫌われているという可能性を顧みなかったのか。
それよりこれから当の彼女がここに姿を現して、忌避する僕を目にしたら、どんな反応を示すだろう。そこから当番が終わるまで、どんな気不味く重たい空気が、僕と彼女にのしかかるのだ。考えただけで耐えられない。
そう考えると僕はもう、彼女に会いたくなどなかった。いっそ彼女が当番をすっぽかしてくれればいい。ああ運命よもう一度、僕たちの間を引き裂いてくれ。僕は心の中で祈った。
「すいませーん、遅くなりましたー」
しかし、祈った瞬間、そんな声が耳に届く。僕の心はギュッと縮み上がる。僕は恐る恐る顔を上げた。けれどもそこに立っていたのは、僕の知らない女子生徒だった。
明るく活発そうな雰囲気の女子だ。髪は顎ほどの長さのショートヘアで、その毛先は、寝起き間もない子どものようにあちらこちらを向いて跳ねている。校則違反の化粧をしているのか、頬だけが妙に鮮やかなピンク色をした肌の上には、猛暑日の昼の太陽のように自己主張の強い赤色のプラスチック製の眼鏡が鎮座している。制服は、この学校の女子の多くがそうしているように、だらしなく着崩されていた。ベストは着用しておらず、スカート丈は膝上で、無防備な体躯が露わにされている。
その女子生徒は利用者として本を差し出すでもなく、自分が当然そこに座るものという顔をして、僕の隣の、ちょうど司書教諭が本を戻しに行って空席になっている、カウンターの席を眺めていた。だから僕は、この生徒は今日の当番を務めにきた図書委員で、ということはおそらく彼女もまたなんらかの事情があってこの生徒と当番を代わったのだろうと推測した。
僕は安堵で胸をなでおろした。助かった。これで彼女と顔を合わせずに済む。この生徒が誰だかは知らないが、とにかく彼女との気不味い時間を回避できればそれでいい。しかし、こんな生徒が同じ委員会にいただろうか。僕は首を傾げた。
するとそこへ、司書教諭が戻ってくる。そして、この生徒を目にすると、たちまち頓狂な声を上げた。
「あらー、村戸さーん!?」
僕は驚いて司書教諭を見る。司書教諭は、他でもない、この快活そうな女子生徒を見てそう言った。僕は女子生徒に視線を戻す。
その生徒の外見は、何もかも彼女と異なっている。あの淑やかで楚々とした彼女とは、まったく似ても似つかない。司書教諭はいったい何を言っているのだ。この生徒の何を見てそう思ったというのだ。
けれども、司書教諭は楽しそうに続ける。
「なにー、どうしたの!? イメチェン!?」
すると、女子生徒はこう答えた。
「別にー、そうゆう訳じゃないんですけどー」
僕は自分の耳を疑った。この生徒は司書教諭の言葉を否定しなかった。いや、発せられた言葉自体は否定形だったが、「村戸さん」と呼ばれたことについてはなんの否定もしなかった。この生徒は、本当にあの彼女本人だっていうのか。
僕は認めたくなかったが、それでも改めて女子生徒の方をよくよく見てみると、この生徒もまた、子どものように小柄な背丈をしていて、そこだけは確かに彼女と共通している。発せられた声も、語尾の伸びた軽い口調は彼女のものと違ったが、その声質から、震わされた声帯の形は同じだということが窺えた。
僕は信じられない気持ちで、その女子生徒を――彼女をまじまじと見つめた。彼女は僕の視線などお構いなしに、司書教諭と会話を続ける。
「――えー、そんなことないですよおー」
「あら、でもすっごくお似合いよ。とっても可愛らしいわ」
上っ面を撫でるような無責任なお世辞を、司書教諭は彼女に投げかける。そこから、空虚で無意味な会話のラリーが、二人の間で繰り広げられる。僕は呆然とそのやり取りを眺める。
「――さてっ、お先に失礼するわね。今日は特に仕事はないから、あとはよろしくね」
やがて、司書教諭はそう言い残すとその場を後にした。カウンターには、僕と彼女の二人が取り残される。
彼女は席に着くと、本を広げている僕には目もくれず、鞄から教科書とノートを取り出した。僕はまだ信じられない気持ちで、彼女の様子を見る。彼女の指は以前よりも少し力強く、張りがあるように見えた。すると、僕の心の内を察したのか、彼女は僕の方を見返した。そして、きまり悪そうに口を開く。
「みんなイメチェンとか言うけどさ、暑くなってきたから髪を切ったんだ。それだけだよ」
「……そっか」
僕はそれだけ返す。だったらわざわざ、あの真っ直ぐな髪を加工して、寝癖のように乱れた髪型にすることもないというのに。
「眼鏡も、視力が落ちてきたから新しくしただけなんだ」
「そっか」
だったらわざわざそんな馬鹿みたいな、ちゃちで安っぽいフレームにすることもないというのに。
「黒板の字とかも見えなくなってきたしさ」
僕は相槌を打つのをやめ口をつぐんだ。視力の低下。黒板の字が見えない。それらのキーワードは、妙に僕の中に引っかかった。
僕は頭を巡らせて、引っかかりの正体を探りに行く。そして一つの可能性に行きつくと、さり気なく僕はこう言った。
「視力が落ちると、向こうから歩いてくる人の顔なんかも、見分けがつかなくなるからね」
「そーそー、友だちとか歩いてても、全然分かんないもん」
オセロがまた回転する。なるほど、図書室でのあのすれ違いは、そういうことだったのか。僕が彼女にどう声をかけようか葛藤を抱いていた間、彼女の目には僕の顔すら見えていなかったという訳だ。
「だから、全然そんな、大袈裟なもんじゃないのにさ。なのに、みんな変に勘ぐっちゃってさー」
彼女は明るい声で続けた。僕はどう返していいか分からず押し黙る。今日の彼女はやけにお喋りだ。彼女は元来、図書室の静寂を真摯に守るような少女ではなかったのか。
そんなことを思ってから、僕ははたと、僕が今日当番としてここに座っている理由をまだ彼女に説明していなかったことに気がついた。けれど彼女はもう目線を落とし、自分の教科書とノートに向かってしまっていた。
いや、今更その必要はないのかもしれない。僕は思い直す。そもそも彼女は、自分の隣に座っているのが誰であろうと、特に関心はないのだ。僕は避けられているのではなかった。嫌われているのではなかった。僕は彼女に、興味すら持たれていなかったのだ。
オセロ盤の上には、真っ白でもない真っ黒でもない、中途半端な世界が広がる。僕はその無味乾燥な世界を、まざまざと突きつけられる。
そこへ、3人の生徒がガヤガヤと話し声を響かせて入室してきた。女子が1人に、男子が2人。男子のうちの1人と女子の方は、背中にギターケースを背負っている。見覚えのある連中だ。以前の当番のときに、彼女にちょっかいを出し、図書室の静寂を乱した奴らだった。
その3人が、こちらの方を見た。そして、そのうちの女子が、彼女に向かって口を開いた。
「和音ー」
僕は思わず、その女子を見上げる。その呼び方は、以前の見下すような言い方とはまったく異なっていた。
それに対して、彼女はなんとも思わない様子で、ごくごく自然に呼び返した。
「アヤナ、どーしたの? みんなも」
今度は僕は彼女の方を振り向いた。不自然なほどの勢いで振り向いた。彼女はこの女子のことを、ひどく親しげなファーストネームで呼び捨てにした。
「どーしたの? じゃないよー」アヤナと呼ばれた女子は、平然と続ける。「楽譜、コピーして渡すって言ってたじゃーん。それなのに和音、戻ってきたらいなくなってるんだもん」
アヤナという女子は、手に持っていた何枚かの紙を、ひらひらさせるように彼女に見せた。それを見て、彼女は答える。
「あっ、そうだった。ゴメンゴメン。でもさ、本当に残りの2曲もやるの? 1曲だけってゆってたじゃん」
「そーだけどー、やっぱキーボードあった方が盛り上がるしー。どーせなら全曲やろーよー」
「でも、文化祭まで時間ないし……それに私、キーボードちゃんとやるの初めてだし、そりゃあピアノはずっとやってたけどさ、バンドに合わせたこともないから……」
僕は無言でその会話を聞いていた。話を聞くに、この3人がやる文化祭のバンドに、彼女がキーボードのメンバーとして誘われているのだろう。理由は大方、ピアノを習っていたからとかそんなものだろう。初めは1曲だけという誘い文句で声をかけ、最終的に無理やり全曲押し付けるつもりか。
すると、男子のうちの1人が口を開いた。ギターケースを背負っている方だ。
「和音ちゃんなら、きっと大丈夫だよ。俺たちもサポートするし」
僕はその男子を見上げた。にこやかな笑みを彼女に向けている。
そういえば、この3人の並びは、以前のときと異なっている。以前は男子2人が女子の両脇を囲んでいたのが、今は女子のすぐ隣に楽器を持っていない方の男子が立ち、そこから若干の距離を開けて、彼女に笑顔を向けたギターケースの男子が立っている。
「うーん、それじゃあ一応、練習はしてみよう……かな?」
彼女は、男子の言葉に対し、満更でもなさそうな様子でそう答えた。その顔は心なしか、さっきより赤らんでいるような気がした。
彼女の首元には、ゴムをだらりと緩めたスクールリボンが、汚らしくぶら下がっている。それを見て、僕は気がついた。羽を広げて身体を休めるのは蝶ではない。蛾だ。
僕は、さっきからちっとも頭に入ってこなかったドストエフスキーの『罪と罰』を閉じた。そして、本を手に、そっと立ち上がる。
談笑する4人は、僕の様子に目もくれない。僕はそのまま、外国文学の棚へと向かう。
構わない。鞄の中には読みかけのライトノベルがある。
それとも、開くべきは教科書とノートか。これはもしかしたら、色恋などという果無いものに現を抜かして、勉学を疎かにした僕に対する、人ならざるものからの罰なのかもしれない。
僕は冷笑しながら本を元に戻すと、窓の外に目をやる。
いつの間にか雨はやんでいた。グラウンドからは、運動部の練習の音が聞こえる。その音に混じって、聞き慣れた声が耳に届く。
例の鳥だ。例の鳥が今日も鳴いていた。
乾き切った空のもとで鳴らされるその声は、いつになく間が抜けていて、それはまるで僕を嘲笑っているかのようだった。
僕はひとり、呆然とそのリズムを追う。すると鳥はふいに鳴き方をやめ、僕を置き去りにした。
窓の向こうからは7月の白い日差しが降りそそぎ、この図書室を炭酸の抜けたレモネードにしてしまった。
(紫陽花・END)
「紫陽花」の物語は以上となります。お読みいただきありがとうございました。
なお、本編で扱った作品は下記の通りです。
・村上春樹『海辺のカフカ』上・下(新潮社 2002年)
・江戸川乱歩『江戸川乱歩名作選』(新潮文庫 2016年)
・ドストエフスキー(工藤精一郎訳)『罪と罰』上(新潮文庫 1987年)
次のエピソードは、7月18日(金)16時頃の公開となります。引き続きよろしくお願い致します。